第22話 ミドリの影


 ☆


 

 チヨコはわき目も振らずに必死に走り続けた。


 彼女を追いかける謎の影は未だ振り切ることは出来ずに後ろにぴったりと張り付かれているのが背後の気配で分かる。


 明るい道を選ぶことを止めて家までの道のりを細かく角を曲がって何とか振り切ろうと試みるが、直線に入るたびに背後には謎の影は迫ってくる。


 逃げられない影。


 チヨコは恐怖に怯えて止まりそうになる足を何とか動かして必死に走り続ける。


 走りながらチヨコはもしこの場所にミドリがいたらどうするかを考えていた。立ち止まって振り返り、追ってくる謎の影と対峙するのか。それとも別の名案を思い付くのだろうか、と


 こんな時に彼がいてくれたらどれだけ心強いことだろうかと逃げ続けている間数えきれないほど考えてきたが、現実はミドリは今も病院で意識を取り戻さずに眠っている。どんなことがあろうとも今この時にミドリが助けに来てくれることは有り得ない。


 次の角を曲がって路地に入り、300メートルほど直線を行くと家に着くほどの距離の場所までようやくたどり着いたところでチヨコは最後のカーブミラーをちらりと確認した。


 やはり不気味な影はチヨコの数メートル後ろをピタリと追走している。もはや人間の形とは言えず、形を自由自在に変形させながらアメーバ運動のようにして蠢いている。


 チヨコはその影との距離を確認してずっとこのままのペースで追いかけられるだけならなんとか逃げ切れそうだと思いつつも、気を緩めずに走り抜けようと覚悟を決めた。


 が、そのときチヨコの脳内に語り掛ける声が聞こえた。


 「………振り向いて。…………こっちを見て…………」


 その声は聴覚からではなく直接チヨコの脳内へと響くように語りかけてくる。


 「ほら、こっちだよ…………。後ろ、後ろだよ」


 子供のような声はチヨコを振り向かせようと声をかける。


 「ハァ、ハァ………何、この声。でも、振り向いたら…………」


 チヨコは振り向けと囁く声は聞こえているが、後ろを振り向けば謎の陰に呑み込まれてしまいそうでその声に応じる勇気はない。というよりも、囁く声が聞こえると同時にチヨコ自身の心が本能的に振り向いてはいけないと警鐘を鳴らしている。


 「ほら、早く振り向いて………。こっちを見てよ…………」


 「だめ……ハァ、振り向けない!」


 「だめなんかじゃないよ、足を止めて振り向くだけ。簡単だよ…………さぁ、早く」


 チヨコは走りながら必死に拒絶するが、声の方も何とか振り向かせようとしている。


 「チヨコ!俺だ!」


 そして突如それまで聞こえていた声とは別種の声が聞こえた。


 その声は振り向かせようとする声ではなくチヨコを呼びかける声で、聞き覚えのある、聞き馴染みのある懐かしい声だった。


 「…………ミドリ??」


 チヨコにとってその声は確認するまでもなく、誰とも間違えるはずのないものだった。


 ただそれは絶対に今は聞こえるはずのない声だった。これまで何度もここに居てくれたらと考えたその声がこの場にはいるはずのないことは既に分かりきっていることだった。


 「あぁ!俺だ!チヨコ、待ってくれ!」


 だがやはりそのいるはずのない声はチヨコに語りかけてくる。


 懐かしい声。ずっと聞いていた声。ずっと聞きたかった声がそこにはあった。


 チヨコは思わず徐々に速度を落として走りから早歩きへ、そして歩き、やがて立ち止まった。


 「チヨコ、よかった。止まってくれたんだな!」


 足を止めれば謎の影に追いつかれてしまうことは理解していたにも関わらず止まらずにはいられなかった。病院で眠っているはずの彼の声がチヨコをその場にとどまらせた。


 自身を責め続け、他人を恨み、それでも救われなかったチヨコの心はたった今呼びかけられる声に応えることで解放される気がした。振り返って彼の顔を確認するだけで楽になれる、自分が感じていた責任を放棄することができる、そう思った。


 今振り返ればミドリに会えるかもしれない。そう思うとチヨコの目からは自然と涙が流れた。いつもと変わらない様子で、以前と変わらず自分の名前を呼んでくれる。それがどんな幸せな事かを実感する。


 振り向きたい。


 その感情がチヨコの心を支配した。


 「チヨコ、どうして泣いているんだ?向こう向いてないでこっち見てくれよ」


 ぼろぼろと涙を流し立ち尽くすチヨコに向かって語りかけるミドリの声は優しく落ち着いている。


 「何で黙っているんだ?チヨコ、黙っていても分からないよ」


 後ろから聞こえるミドリの声に応えたいという感情に支配されているにも関わらずチヨコは涙を流したまま振り返らない。

 

 「…チヨコ…………」


 「ごめん、ミドリ。…私は振り向けない」


 「どうして?どうして応えてくれないんだ?」


 「私は振り向けない………そして、私は決して振り返らないッ!」


 涙を流してそう答えるチヨコの手には手のひらサイズの手鏡を持っていた。


 顔の高さまで持ち上げられた手鏡にはチヨコの背後を映すには十分すぎる大きさである。手鏡に映ったチヨコの背後には謎の影から伸びる数十本もの黒い手が彼女の体を影の闇の中へと引きずり込もうと手をこまねいているのが見えた。


 謎の影はまるでブラックホールのように闇が広がっていて、その中から無数の黒い手が飛び出してチヨコの体を掴むギリギリで止まっている。首、肩、腕、腰、太もも、足首、すべてに黒い手がかかっている状態である。


 チヨコに掴まれている感覚はないので鏡を通さなければ何が起きているのかさっぱり分からない。


 「……チヨコ、どうして。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして…………」


 影の中から聞こえるミドリの声は狂ったようにそう呟く。


 「ありがとう、本物でなくとも、ほんの少しでもミドリの声が聴けて嬉しかった。……でも、私は決して振り向かない、振り返らない。今私に起きている状況がどういうことなのか未だにさっぱり理解できていないけれど、きっと振り返ってはならないことだけはよく分かる。あなたは私を振り向かせようとしすぎた。それは大きな不信感となって私の理性に訴えかけた」


 チヨコは手鏡を顔の前に持ってくると、鏡の中に映る背後の影に言った。

 

 「私は今物凄く怖くて、震えて、怖気づいてしまいそうだけれど、どういうわけか振り返らなければあなたは私を襲えない。その影の中へと引きずり込めない。そうなんでしょ?でなければ足を止めたときに私はもう引きずり込まれているはずだもの。私はこれまでずっと、あなたが目を覚まさなくなったあの日から過去ばかり振り返って後悔を繰り返してきた。でもこれで私は気持ちを切り替えることが出来た。あなたがどういう理由で私の前に、いや後ろに現れたのか、それは全く分からないけれど…………」


 鏡に映る影はその性質を看破されたことに驚いたのか、アメーバ状の形が激しく歪んで縮み上がった。


 チヨコはその様子を見てももう驚かない。正体が、否、自分が助かる方法が、襲われないと分かれば恐れるに足らない。


 そして手鏡を地面に叩きつけて言った。


 「ありがとう、私はもう振り返らない。過去も、振り返らない」


 するとチヨコの後ろにずっと憑きまとっていた謎の影の気配はぱたりと消えた。


 家までの残り100メートルと少し。


 チヨコは背後の気配が消えても振り返らずに歩き続けた。

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