第14話 影


 ☆


 

 人の噂も七十五日とは言うが、チヨコの通う学校では電車の爆発事件の話については二日経たずして立ち消えた。


 学生たちにとっては新学期が始まってそれどころではないというが本音だろう。だが、世間的にみても事件のニュースは連日テレビで報道されるどころか大々的に取り上げられたのは当日と翌日の朝だけで、あとは新聞や低俗な週刊誌の餌になっている。


 結局のところ事件の当事者やそれに関係する人間以外はどんなに大きな事件が周りで起きていようともすぐに記憶からは消えていくのである。しかしそれは決して責められるべきことではない、誰だってそうであるし、そう考える自分も他の誰かにとっての重大な事件を見逃して、忘れている可能性は否定できないとチヨコは考える。忘れていることさえ忘れていることだってあり得るのである。


 ただ、どうしても周りの人間に対して薄情者、と思わざるを得ない。事件が起きた最初の数日こそチヨコは自分を責めたが、その数日後には周囲の人間に対して的外れな八つ当たりだと分かっていてもそうすることで自分の精神を安定させずにはいられなかった。


 チヨコは事件にあってしまった新学期の当日こそ休みはしたが、その後は通常通り登校している。同じクラスに山本ミドリの席はなく、先生に確認すると隣のクラスの名簿に名前が載っていた。


 授業中に隣のクラスの前を通る機会があったため、授業をしている教室内を覗いてみると奥の窓側の席に一つ空席があるのが見えた。今頃あの席にミドリが座って本来ならば授業を受けていたと思うとやるせない、胸が空っぽになり心臓の鼓動が早くなる。


 事件から一週間たった今でも彼は目を覚ましていない。検査も進み、体にも脳にも異常は確認できず、医師からはいつ目が覚めてもおかしくない、むしろどうして目が覚めないのかが不思議で仕方がないという話だった。


 彼が業火の中に飛び込んで助けた女性は同じ病院内に入院させられていたが、搬送されてすぐに意識を取り戻し、先日無事に退院されたという話を聞いた。女性の方も彼の病室に何度か花を置きに来ていたので顔を合わせたこともある。思えば助けられた女性も体の傷は癒えても彼が目を覚まさない限り心にきつく絡みついた鎖は解けないだろう。チヨコは勝手にその女性に対して同じ苦しみを持つ人間として同情していた。


 学校が終わり放課後、チヨコはいつも通り帰り道にミドリの入院している病院へと寄った。学校がある日は毎日帰り道に寄っているので病室によるのに手土産はもう要らない。最初の頃は花を差し替えていたが、それも毎日では大変だし変える花もいちいち買うのでは高校生の経済力では心もとない。お見舞いの手土産で彼の状態が回復するのであれば花でも果物でもいくらでも持ってくるが、現実はそうでは無いだろう。

 


 病室に着くと、やはり彼は目覚めてはいなかった。最初のように物々しい多くの治療機材はつけられてはいないが、それでも十分に重症だと見える程度には周りにいろいろな器具が準備されていた。


 脳にも異常はなく、外傷は全く見られない。


 これほど不可解な事があるだろうか。それに気がかりなことはそれではない。


 電車の爆発事件が起きた当日、病室からの帰り道に出会った喪服のようなスーツを身に纏った不吉な大男。あれからというものチヨコの頭の中はあの男が何者なのかという疑問で埋め尽くされていた。


 謎の男が去り際に放った言葉、


 「知らない人間には注意すること」


 この言葉の意味も分からない。第一知らない人間に注意するというのであればまずその謎の男に注意しなければならないだろう。とはいえ、その男はチヨコに対してこれといった危害は加えていない。ミドリの病室を聞いて、怖くなって立ち去ろうとするチヨコの肩を掴んだだけと言えばそれだけである。


 その気になれば不審者として訴えることも出来るのかもしれないが、それだけと言えばそれだけのことで行動を起こすのは自分にデメリットが多すぎる。実害が出てからでは遅いというのはその通りだが、十分に警戒しておけばその問題もないだろう。


 チヨコはその証拠にそれからというもの、夕方や夜に外を歩く時には人目の付くところを選ぶようになり、行動は徹底していた。何も無いとは思いつつも、用心することには越したことはないのだ。


 今日もチヨコはミドリの病室で30分ほど過ごして病院を後にすることにした。


 帰り道は当然のように用心して帰るのだが、そうするようになったのも謎の男がただ「知らない人間には注意すること」と忠告をしたからではない。それを聞いただけでは帰り道のルートを変更してまで警戒して歩くことはなかったかもしれない。


 だが、あの事件の後からどこを歩いていてもチヨコは視線を感じるのである。


 登校中、下校中、病院の中、常に誰かから見張られている気がするのだ。そしてその視線は今日も同じように感じている。振り返ってみてもそれらしき目線の正体は掴めない。ただ漠然として誰かから監視されているような気持の悪いものを感じるのである。


 だからこそチヨコは謎の男の忠告を聞くわけではないが回り道をしてでも人通りのある道を選んでいるのだ。


 最寄り駅に着いてから家までの道のりは徒歩で10分。だがそれは地元民ならではの細い道を選択した場合である。なので大通りに面した道を選んで歩くとなれば15分かかる。とはいうものの、自分の身の安全と時間を天秤にかければどちらを選択すればよいかは考えるまでもない。


 しかし、今日はいつもとは違った。

 

 背後や左右や物陰から視線を感じる状態を「いつも」と表現するのがとてもいい状態とは思えないが、とにかくチヨコはいつも感じているものとは違う視線を感じた。


 視線を感じるという点においては変わらないのだが、これまではその視線はただチヨコのことを見ているだけというか、誰かがそこにいる、というような雰囲気の気配だったのだが、今日の視線はそこに誰かがいるというような無害な視線ではなく、明確な悪意や害意を感じるのである。


 視線というよりは明らかに誰かが自分のことをつけてきていると分かるほどで、悪意を感じるがゆえに振り返ることは出来ていないがつけてきている人間もチヨコをストーキングしていることを隠そうとしていないのか、次第にその気配は背後で強まっている。


 チヨコが現在歩いている場所は人通りがあると言っても車はしばしば走っているものの、人は今のところ周りにはいない。開けている道なのでいきなり襲われるということは無さそうなのだが、後ろをついてくる人の足音はどんどん大きくなっている気がする。


 確実に誰かが自分に迫っていると自覚すると、チヨコの心臓は激しく動悸を起こし始めた。過呼吸一歩手前の息遣いになり、視界も緊張から光がチラつき始めた。手に持っていたカバンを強く体によせて抱きしめるようにして抱え、歩くペースも次第に早歩きになっていく。


 すると、後ろをついてくる何者かの足音もチヨコに合わせて早くなる。


 恐ろしくなって今にも走り出したい気持ちはあったが、余計に後ろをついてくる人間を刺激し、過激化させる可能性もあるため、誰か周りに人が現れてくれと願いながら歩いているが、運の悪いことに何故か人っ子一人道には歩いていない。だからと言って道に飛び出して車にアピールするというのは今足を止めて後ろの誰かに捕まることと同じくらい危険な行為な気もする。


 何かきっかけが無いか必死に視線を前方左右と動かしてチヨコは状況を打開する方法を探した。


 すると、100メートル先の曲がり角に車用のカーブミラーがあるのを発見した。発見したというのもきっと以前からそのカーブミラーはそこにあったのだろうが、それを徒歩であるチヨコが必要としたことはほとんどなかったために気が付かなかったのである。


 チヨコはそこで自分の背後にいる何者かの姿を確認しようと覚悟を決めた。


 だが、まずはそのカーブミラーまでを無事にたどり着かなくてはならない。足音から察するにまず男であることに間違いはない。足音は重く、履いているであろう靴の接地面の広さがよくわかる「パタン、パタン」という大きな音を立てている。チヨコよりも一歩一歩の聞こえる音が少ないにも関わらず同程度の距離を保っているということは相当ストライドが広いということである。その点からも後ろの人間が背の高い男である可能性が高いと考えられる。

 

 カーブミラーまでの時間をチヨコは何とか頭をフル回転させてどうしたらよいかを必死に考えたが、緊張と恐怖でまともな思考には中々至らない。


 そして遂にカーブミラーのある曲がり角たどり着くと、チヨコは足早に通り過ぎる瞬間にちらりと目線を鏡に向けた。


 するとそこには見たこともない黒い影が映っていた。


 人の形をしていることが辛うじて理解できる程度のどす黒い影。

 

 汚れたカーブミラーに映り込んだそれはまるで不吉や不穏、不幸と言った言葉を具現化したようなおぞましい影だった。実体があるのかないのかもカーブミラーを確認した一瞬では理解できなかったが、ただただおぞましい物体がそこに存在していることは瞬時に理解できた。


 人の形をしていたというのもチヨコが追ってきているのが人であるという観念からそう思い込んでしまっていて、形のない雲が動物に見えてしまったりするのと同じような勘違いをしているだけかもしれない。とはいえ、足音がしていたのは確かなので少なくとも足は存在するのだろうとチヨコは考えた。。


 チヨコがカーブミラーを確認したのは瞬きをする程度の短い時間のことだったが、追ってくるそのどす黒い影と目が合った気がした。目などとても確認できるはずもないのだが、その鏡から黒い悪意となった視線が送られてきているのが分かった。


 そしてチヨコは曲がり角を完全に曲がりきると後ろを確認することなく全速力で走りだした。

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