第10話 日常

 ☆ 


 都内病院。


 辻本チヨコは考える。


 あの時、電車の爆発があったあの瞬間、自分がミドリを引き留めることができていたら、と。


 爆発のあった方向へと走り出す彼の腕を掴んで離さないことができていたら今頃はきっと病院などにはいないだろう。悔やんでも悔やみきれない後悔の念が強く彼女の心を苦しめている。


 治療も脳の検査も一通り終わり病室に移された今も彼は目を覚まさない。ベッドの脇でかれこれ一時間ほどはこうして座っている。


 一度ミドリの家族も訪れたが、父親の方は目を覚まさない息子の顔を見て苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべて無言で佇んでいたが、とはいえここに居てもできることは何もないので、集中できないことはきっと間違いないが仕事へと戻っていった。母親の方は入院の手続きをすると慌てて家を出てきて考えられなかったのか、忘れた荷物などを取りに一度家へと帰った。


 ミドリの両親とは面識があるため初めましてという挨拶をすることはなかった。だが、チヨコは申し訳なさから目を合わせることができなかった。


 言ってしまえば彼がこうなったのも自分のせいなのだとチヨコはありもしない責任を自分に負わせた。もともと爆発がする前に燃料系の匂いに気づいていたのも自分だし、あの場で彼を止めることが出来たのも自分だけだったのである、と。そしてそれは力及ばずできなかった。


 あの時何が何でも彼を止めるべきだったのにも関わらず最初に飛び出していく彼の背中をチヨコは黙って目で追ってしまった。


 自分は危険な事はしたくない。安全な場所にいたい。そう思うことは罪だろうか。


 きっとそれは罪ではないし、危険な場所へ自ら飛び込んで人助けをすることが勇敢な行為ではあるとしても賢明で英俊であるとも限らない。


 結局は結果論でしかないこともチヨコは頭では理解できていたが感情がそれを許さなかった。ミドリが目を覚まさない今、自分を責め続けることで何とか心を保っているのである。一瞬でも自分は悪くないという感情が芽生えたなら彼と彼の家族に対する罪悪感で死んでしまいたくなる。せめてもの償いとしてここで罪の意識を自分に負わせることで贖罪の意を自分に表しているのである。


 彼の両親がチヨコに対して自分を責めることを望んでいないことも分かるが、自分の為の、自分を自分で許すための行為なのだから仕方がない。


 そうでもしなければチヨコは自分はなんて薄情な人間なのだとこのまま病室の窓から飛び降りてしまいたくなる気持ちを抑えきれなくなってしまう。

 

 既にチヨコの心は正常ではないのかもしれないが、それでも辛うじて普通に考えてこうして病室脇の椅子に座っていられるのはミドリの体につけられた機械から信号が伝わり、チヨコとは反対側のベッドサイドにつけられた機械に送られ、彼の脈が規則正しく波を打っているその表示を見ることで彼がまだ生きているという実感を得られるからである。


 しかし、やはり不可解なことは残ったままである。


 意識こそ失っているため、それが免罪符のようになっていて病院の医師や看護師、ミドリの両親も彼の体に外傷がまるでないことに誰も違和感を感じていない。周りがこの異変に違和感を感じないのはいい。


 だがチヨコは違う、彼が確実の烈火の中に飛び込んでいく姿をこの目で確認しているのである。


 そしてチヨコはさらに確認している。女性を助けた後のミドリの片腕、咄嗟のことでどちらの腕だったかまでは覚えていないが火傷で爛れて皮膚の下の層まで露出してしまっていた痛々しい姿を覚えている。


 もう何度も確認しているがチヨコは恐る恐る布団にしまわれた腕をそっと取り出して入院着の袖をめくってみたがやはりそこには綺麗な腕しかない。火傷どころか切り傷や何かの怪我の痕さえないのは異常である。自然治癒力という言葉で片づけるにはあまりにも早すぎる。それに火傷の痕というのは普通の傷と違って中々痕が消えることはない。


 脳の検査結果はまだ聞いていないが、その結果がどうであれ外傷が無いことの疑問は晴れることはない。


 しばらくしてチヨコはずっとこの病室に張り付いているわけにもいかないし、幸い学校の通学途中の駅から来ることができるので定期券を使えば毎日でも見舞いにはこれるのでそろそろ退散しようと席を立ちかけたとき病室の扉が開いた。


 ノックもなく開いたということは少なくとも医師や看護師ではないだろうと予想して身構えたがそれは取り越し苦労だった。


 「あら、チヨコちゃんまだ居てくれたのね。ミドリはどうかしら」


 病室に入ってきたのはミドリの母だった。


 「これから学校に行く気にもなれなくて……。ちょうど今出ようと思っていたところだったんです。すいません、私が彼を止められていれば……」


 自分の中でどう思っていようともミドリの両親の前でマイナスな思考を続けていじけるのは余計に鬱陶しがられるし止めようと思っていたにも関わらず、チヨコは思わず口に出してしまっていた。


 「もういいのよ。それに飛び出していったのはきっとミドリ自身の考えなんだろうし。そもそも悪いのは電車の爆発事件を起こした犯人よ。チヨコちゃんが悩むことはないわ。大丈夫、私もお父さんも、そしてきっとミドリも誰もあなたが悪いなんて思っちゃいないわ。自分の心を許してあげなさい」


 ミドリの母はチヨコに対して優しくそう言った。


 実の息子が目の前で意識不明の状態に陥っているにも関わらず、最初に病院に到着したときから落ち着いた対応である。さすが大人というべきか、それともチヨコがいることで気丈に振舞うことができているのかは分からないが立派な対応である。


 色々思う所はあるのだろうがそれをぐっと堪えて誠心誠意目の前のことに対応している。チヨコは見習わなければならないと感じた。


 「…ありがとうございます。取り合えず今日は帰ります」


 「そうね、それがいいわ。じゃあまた気が向いたらお見舞いに来てあげてね」


 「はい、失礼します」


 丁寧にお辞儀をして病室を出るとチヨコは深く息を吐いた。


 ずっと病室にいたせいか久しぶりに外(と言っても廊下だが)の空気を吸って少しだけ気持ちがリフレッシュした。


 病院の中でも病室がある棟と通常の受付などがある広いエントランスまでは距離があるため多少歩く必要があり、その間多くの人間とすれ違ったが、入院患者やそれに関する人間というのは意外にも希望に満ちた顔をしていた。


 人に寄るのだろうが、チヨコは少なくともそういった笑顔の人間が一定数いるということに想像と違い驚いた。退院前日であったり手術が成功したというのであれば理解できるが、チヨコは自分であればふさぎ込んでしまいそうだと感じる。


 自分のことでなくとも暗い感情に支配されているのに、自分であればどうなるか分からない。逆に自分のことであればその方が諦めがつくのだろうか。そんなことを考えながら出口までの道のりを歩いていると、もうすぐでエントランスだという、待合室の長椅子がたくさん並ぶ大広間で知らない人物に声をかけられた。


 不意に話しかけられたので、その対象がまさか自分ではないと思い素通りしかけたが、再度呼びかけられたのでチヨコは体をビクッと震わせた。


 「すみません。山本ミドリ、さんの病室は分かりますか」


 そう聞いてきたのは喪服かと見間違うような真っ黒なスーツにこれまた黒いポークパイハットを目深にかぶった男だった。

 

 背はかなり高く、ミドリの身長は180を超えているらしいがそれよりもかなり高いように見える。190くらいかもっとありそうな大きさである。背の高いのもあったが、帽子を目深に被っていたためその目は確認できなかった。第一チヨコも不審な人物に見えたのであまり目を合わせないようにしていたため、それも仕方ない。特徴はいまいちつかめないが、鼻筋と口元の皺から40代ないし50代には見えた。


 チヨコとの身長差は相当なものだが、男はかがんだり話しやすくする気はないらしく、直立して背筋を伸ばしたままミドリの病室を聞いてきた。


 ミドリの父親ではないことは明らかに分かるし、そもそも父親であれば外見を抜きにしても先ほどあっているため病室が分からないということは有り得ない。彼の祖父というにしては若い気がするし、何者か分からなかったのでチヨコは自分の一存で彼の病室を教えることは危険な気がした。


 もしかしたら記者の一人かもしれないし、事件の関係者かもしれない。


 「知りません」


 チヨコはそれだけ言うと立ち去ろうとしたが、男に肩を掴まれた。


 簡単に肩の上に手を置いているだけのように見えるが、物凄い力で押さえつけられていて動くことができない。


 「ちょっ、何するんですか。やめてください!」


 無暗に大きな声を出すのも憚られたため、相手の男に聞こえる程度に語気を強めてそう言うと男は手を放した。そして男は腰をかがめてチヨコの顔の横にぐっと自分の顔をよせて耳打ちをするように言った。


 「いい心掛けだ。………これからも知らない人間には注意することだ」


 それだけ言うと男はチヨコの耳元から離れた。


 背筋がゾッとして恐怖を感じ、しばらくチヨコは固まっていたが、ハッと我を取り戻して振り返るともうどこにもあの大男の姿はなかった。

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