見えない影絵、見えない人間 5

 イベントに出かけた翌週。私は久しぶりに登校した。朝の時点では、もちろん一日教室にいるつもりだった。しかし実際は二時間目でギブアップし、それ以降は昼まで自習室に引きこもっていた。お昼は喉を通らず、ほとんど食べられなかった。這うようにして午後の授業には出たものの、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。いったい何をしに来たんだという自己嫌悪に耐える二時間だった。

 六時間目の終了を告げるチャイムが鳴った時には、もう身体が重たくて頭が痛くて、立ち上がることすら辛くなっていた。

 しんどい。

 今すぐこの場で横になって眠りたいぐらいに、しんどい。

 もちろん、そんなことをするわけにはいかない。残り少ない気力を絞り出して帰り支度をし、ふらふらとと教室を後にする。

 目指すのは、もちろん公園だ。

 長い坂を下った先にある、がらんとした公園。住宅地の一角という立地でありながら、いつ行っても人気は無い。すぐ近くに広い自然公園があり、近隣住民が公園に行くときはそちらに行くのが主流らしい。おかげで、私がブランコに座ってぼおっとしていても気にする人はほぼいない。

 私はいつも、ここでヤマヤドリが来るのを待っていた。

 約束をしているわけではない。いつの間にか、そういう習慣が出来上がっていた。暗黙の了解とでもいうのだろうか。わざわざ確認しなくても、そうすることが互いの間で了承されている。

 しかし、今日はどうだろう。

 私は少し不安だった。

 イベントに出かけた日以降、私とヤマヤドリは連絡を取っていない。顔を合わせていないのはもちろん、メッセージのやりとりも通話もない。

 とはいえ、別にそれ自体は珍しいことではなかった。ヤマヤドリは元々、用もなく連絡をしてくるタイプではないし、私の家を訪ねてくることも滅多にない。だから、それ自体が特別おかしいわけではなかった。

 それなのにこうも不安になるのは、やっぱりあの日の事が影響しているのだろう。

 イベントに出かけた日。最寄り駅で降りてからも、ヤマヤドリの様子はおかしいままだった。表情は凍り付いたような無表情で、ただでさえ少ない口数は更に少ない。話しかけても何処か上の空で、全く会話が続かなかった。気まずい空気のまま家まで送って貰い、そのまま別れた。

 いっそ、はっきりとした喧嘩だったらこうはならなかったかもしれない。喧嘩なら原因がはっきりしている分、非を認めて謝れば、歩み寄りの糸口くらいにはなる。けれど原因のはっきりしない、なんとなく気まずくなった状態というのは、どうしたらいいのかわからない。謝るにしても、なにを謝ればいいのかもよくわからないのだ。

 お兄さんと合流した途端に変になったのだから、お兄さんの存在が一因であることはなんとなくわかっている。『話したくない』『関わらないほうがいい』とまで言うのだから、お兄さんのことが嫌なのだろう。問題は、その理由がさっぱりわからないことだ。

 初対面の人を嫌いになる。それ自体は、よくあるとまでは言わないまでも、珍しいことではない。でもたいていの人は、わざわざそれを態度には出さない。その場は適当に乗り切って、それ以降は関わらずに済むよう立ち回るということがほとんどだと思う。そうならないのは、例えば非常識な言動が目に余るとか、看過できないほど無礼な態度を取られて怒ったとか、そういう場合ではないだろうか。

 ヤマヤドリだって、本来はそういうタイプの人のはずだ。他人と摩擦を起こすことを好まない。事なかれ主義──とは少し違うかもしれないけれど、それに近い考えを持っている。

 だというのに、お兄さんに対してあの態度だ。私が認識している範囲では、お兄さんはヤマヤドリをそこまで怒らせるような言動はしていないと思う。そもそも最初に話しかけてすぐ『話したくない』と言っているのだ。お兄さんがヤマヤドリになにかをした、という理由ではないのだろう。

 となると、私とお兄さんの会話にヤマヤドリの怒りを買う何かがあったのだろうか。

 思い返してみるけれど、わからない。極めてどうでもいい雑談だったはずだ。特別、不愉快な内容があった記憶は無い。

 ──嫉妬させちゃったみたいだね。

 お兄さんの言葉を思い出す。嫉妬。私とお兄さんが話している、それ自体が気にくわない。そんなこと、あるだろうか。あのヤマヤドリが?

「やあ」

 横合いから突然声が掛かって、私は飛び上がるほどに驚いた。ぎょっとして声のした方を見ると、今まさに考えていた問題の当事者の一人──お兄さんがいた。

「あ、どうも……」

「久しぶり、ってほどでもないか。隣、いい?」

 ここにお兄さんがいたら、ヤマヤドリは嫌がるだろう。

 そう思ったけれど、お兄さんは私の返事を待たずに、隣のブランコに座っていた。手にしたコンビニ袋から、アルミボトルのカフェオレを取り出す。

「寒くない? これ、よかったら」

「ありがとうございます」

 受け取ったカフェオレは、熱いくらいだった。冷えた手に、じわりと熱が染みこんでくる。両手で包み込むように持つと、寒さが少し和らいだ気がした。

「今日は、彼氏は一緒じゃないの?」

「これから来ます」

 たぶん、と心のなかで付け加える。正直に言えば、それはわからない。

「あと、彼氏ではないですよ」

「あれ、そうなの? てっきり彼氏かと」

「友達です。大事な」

「ふうん」

 お兄さんは、なぜかにやにやと笑い始めた。

 小さい頃から見慣れた、穏やかな笑顔とは違う。嬉しそうというには少し品に欠け、楽しそうというにはやや毒のある笑み。下卑た笑い、と感じたのは、思い過ごしだろうか。

 靴底を、地面につける。

 ブランコの揺れは、ぴたりと収まった。

「なんですか?」

「いやいや。それなら俺にも望みがあるのかなって」

「望み……?」

「ねえ、俺と付き合わない?」

 ああ、そういうことか。

 得心がいく。同時に、警戒心が頭を強制的に切り換えた。緩んでいた気が引き締まる。身体が自然と身構える。目の前の人が、『近所のお兄さん』から『距離を寄せてくる男』に変わった瞬間だった。

 お兄さんのことは、嫌いではない。でも、それはあくまでもご近所さんとしての話だ。人として好きであることと、恋愛対象としての好きは違う。そこには明確な隔たりがある。──少なくとも、私の中では。

「お断りします。私、お兄さんのことはそういう相手として見ていません」

「あらら、ばっさり」

 残念そうにいいながらも、口元に浮かんだ笑みは揺るがない。自分が優位に立っていると疑わない人間特有の、驕りの透けて見える笑い方。おそらくは、最終的にこちらを頷かせる自信があるのだろう。その手段が、どのようなものであれ。

 正直、がっかりした。

 少し軽薄なところはあっても、いい人だと思っていたのに。

「まあ、ちょっとさ。話、聞いてよ」

 立ち上がろうとした私の前に、お兄さんが立ち塞がる。私の行動を予想していたのだろうか。やけに素早い動きと近い距離に、警戒のレベルが上がる。じわりと、嫌な汗が滲んだ。この状況から抜け出すには、どう動けばいい。焦りが思考を上滑りさせ、から回る。ゆっくり息をして、落ち着け、と自分に言い聞かせた。

「今はそういう相手に思えなくてもさ、実際、付き合ってみたら変わるかもしんないじゃん? 自分で言うのもなんだけど、悪くないと思うよ、俺。けっこうマメな方だから、記念日とか誕生日とかは絶対忘れないし。デートだって、退屈させないよ。あいつみたいに、黙ってばっかでつまんない時間を作ったりはしない」

「ヤマヤドリを悪く言うのは、止めてください」

 つい、かっとなってそう言い返す。

 睨む私を、お兄さんは笑いながら見下ろしている。その笑いが、私の神経を逆なでる。私の怒りが通じていない。それは、この人が私を非力で無力なものだと認識しているからだ。どれだけ怒ろうが、非力な私ではなにもできない。そう認識しているから、私の怒りなど意にも介さず嗤っている。いっそ慈愛すら感じるほどに憐れんだ目で、私を嗤っている。

 腹立たしい、と思った。

 その認識が決して的外れでないことも含めて、ひどく腹が立った。

「悪かった。悪く言うつもりはなかったんだ」

 口先だけの謝罪に、手が震えた。

「ただ、やっぱりああいう奴は退屈な相手だと思うよ。お友達としては良くても、それ以上の関係になるには少し刺激が足りない。そうじゃないか? 俺はこう見えて大人だからさ。中学生同士じゃできないような事だって、色々……」

「レンズ!」

 空気が凍るほどに、冷たい怒声。

 身体を満たしていた熱が、嘘のように引く。

 はっとして見た先には、ヤマヤドリがいた。険しい顔で、こちらに駆け寄ってくる。その姿に、涙が出そうになった。

 震える脚が地面を蹴る。お兄さんのすぐ横を、転がるようにすり抜ける。腕を掴まれたりしたらどうしよう、と思ったけれど、幸いにもお兄さんはまだ驚きから復帰していなかった。

 つんのめって、咄嗟に前に伸ばした手を、ヤマヤドリが掴んだ。肩が抜けそうなくらい、強く引かれる。そのままの勢いで、私はヤマヤドリの胸に飛び込んだ。

「だから関わるなって言ったんだ」

 すぐ近くで、そう低く呟くのが聞こえた。

 見上げたヤマヤドリの顔は、まっすぐお兄さんのほうに向けられている。鋭い目が見つめているのは、お兄さん──では、ない。

「だ、誰……?」

 いつの間に、そこにいたのだろう。小柄な女の人が、お兄さんのすぐ近くに立っている。薄い灰色に染めた髪。毛先だけが、ピンクや紫に染められている。薄紫のブラウスに、黒のジャンパースカート。花模様のカラータイツと、フェミニンなショートブーツ。可愛らしいファッションの中で、手にした灰色のずた袋が異彩を放っていた。いったいなにが入っているのか、ずっしりと重そうだった。

 私の呟きで、お兄さんもようやくその存在に気付いたらしい。そちらを見て、ぎょっとした顔で飛び退る。

「お前……っ、なんで」

 女の人は、薄く微笑んでいた。ピンク色の唇が、緩やかな弧を描いている。けれど、目はガラス玉のよう。何の感情も見当たらない澄んだ目は、叩けばコツンと音がしそうなくらいに凍り付いていた。

 笑っている、というほどの表情はない。

 でも、無表情というほど虚ろでもない。

 マネキンに似たその顔が、私の方を向いている。

「僕らは関係ありませんよ」

 ヤマヤドリが、棘のある声で言う。

「その人とは、なんの関わりもない。これから先、関わることもない。そちらの事情に、僕らを巻き込まないでください」

 女の人はヤマヤドリを見た。睨むその目をじっと見返す。ヤマヤドリはというと、こちらもまっすぐそれを受け止めている。

 視線をぶつけ合っていたのは、ほんの数秒だろう。無言のアイコンタクトによっていかなるやりとりが成されたのか、私にはわからない。私はただ、ヤマヤドリの腕の中で、ぽかんとその様子を眺めていただけだった。

 女の人は、微かに笑みを深めて頷いた。

 油圧ポンプのような、ゆっくりとした、しかし力のこもった動きだった。

 静かな動きなのに、とても怖い。

 こちらに向いていた視線が、お兄さんへと移った。

「お話、しましょ? ──邪魔の入らない場所で。ね?」

 鈴の鳴るような声。見た目に違わぬ愛らしいその声に、お兄さんは頬を引きつらせた。ひい、と喉が細く鳴る。悲鳴にもならないその声に、女の人はいよいよ嬉しそうに笑って見せた。

 状況が理解できずに混乱していると、すっとヤマヤドリの身体が離れた。すぐそこにあった熱が離れ、冷たい空気が割り込んでくる。あっと思ってそちらを見るのと、ヤマヤドリに手を引かれるのが、ほぼ同時だった。

「行こう、レンズ」

「え、でも……」

「いいから」

 再度、今度は少し強く引かれる。そこには、有無を言わせないものがあった。私はヤマヤドリに手を引かれて、公園を後にする。

 最後に振り返ったとき。目にしたのは、お兄さんに抱きつく女性の姿だった。嬉しそうな、幸せそうな笑顔で、ぎゅっと抱きついている。

 お兄さんがどんな表情をしていたのかは、見えなかった。

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