過去と影絵とサイコさん 2

 翌日。

 教室にはいると、空気が変だった。凍り付いたような、妙な緊張感が漂っている。トラブルの気配に教室内を見回すと、見知らぬ女子生徒が座っていた。──僕の席に。

 誰だあれ。

 知らない人だ。気のせいかと思ってよく観察してみたが、やはり知らない。そもそもクラスメイトじゃない。靴のラインは緑──つまり三年生だ。黒髪をポニーテールにした、生真面目そうな雰囲気の女子生徒である。

 女子生徒はぴしりと背筋を伸ばし、きりりとした目でまっすぐ黒板を見つめている。その顔は壁のような無表情だった。

「……」

 しばらく見ていたが、微動だにしない。そういう彫像だと言われたら信じかねないレベルの静止だ。わりと怖い。

 どうしたものかと立ち尽くしている僕に、クラスメイトの女子がそっと近づいてきて、ひそひそと状況を説明してくれる。

「あの人、朝からずっとああしてるの。話しかけても無視されるし、なんか様子も変だし、怖くて誰も何にも出来ないんだよね。先生呼ぼうかって、相談してたとこなんだけど」

「誰なの、あれ」

「三年の、吹奏楽部の人らしいよ。知り合いじゃないの?」

「知らない」

「尚更怖いんだけど……」

 同感だ。

 正直関わりたくないが、かといって放置するわけにもいかない。このまま居座られても困る。僕は意を決して、女子生徒の前に立った。立ってから、なんと声をかけるか決めていなかったことに気付く。小規模なパニックを起こした結果、内心がそのまま口から転がり出た。

「邪魔なのでどいてください」

 やらかした。冷や汗が吹き出す。

「…………」

 無表情な顔が、きりきりとゼンマイの玩具のように動いて僕を見た。顔も怖いが、それ以上に動きが怖い。声をかけたのを後悔したが、ここで逃げたらなにが起きるかわからない。僕は平静を装い、なんとか逃げそうになるのを踏みとどまる。

「…………」

 女子生徒は無表情のまま、すうっと封筒を僕に差し出した。宛名を書くべきスペースには、繊細さを感じさせる整った文字で『お一人でお読みください』と書かれている。怖い。普段なら綺麗な文字だなぁと感心する美麗な文字すら、今は怖い。もはやあらゆるものが怖い。なんなのだろうか、いったい。朝からこんな怖い目に遭うなんて、運が悪いとかそういうレベルじゃない。なにか悪いことでも──したことあるな。罰が当たったのかもしれない。

 僕は恐る恐る手を伸ばし、封筒を受け取った。

 がたっと、椅子を蹴立てて女子生徒が立ち上がった。

「!」

 突然の動きに、さすがの僕もその場を飛び退く。周囲のクラスメイトも驚いたようで、凍り付いていた空気がざわっと雪崩のように動くのがわかった。反応は様々で、僕のように数歩下がる者もいれば、逆に一歩踏み出すように身構える者もいた。悲鳴のような微かなうめき声と、机にぶつかったり物を取り落としたりする音がひとしきり鳴り、そして静まった。

 女子生徒は、そんな周囲の反応を完全に無視した。僕の顔を見て、にっこりと微笑むと、くるりと僕に背を向けた。スカートの裾を揺らしながら、さっさと教室を出て行く。進行方向にいたクラスメイトたちが慌てて道を空ける様子が、少し愉快だった。

「なに? なにもらったの?」

 いつの間にか隣に来ていたクラスメイトの女子が、僕の手元を覗き込む。僕は改めて封筒を観察した。愛想のない白い長三封筒だ。指の腹で撫でるとわかる、滑らかな紙質。それが、決して安物の封筒ではないことを直感させる。裏を返すと、そこには表の文字と同じ繊細な筆致で、差出人の名前が記してあった。

 間ヶ原才子マガハラサイコ

「うわ」

 その名前を見て、クラスメイトの女子がわかりやすく嫌そうな反応を見せる。

「知ってる人か」

「有名人だよ、ある意味。魔女って言われてる、オカルト系の人。知らない?」

「知らない。──魔女って?」

「あだ名。なんかねえ、教室で占いやったり、こっくりさんみたいなことやったりしてるんだって。取り巻きっていうか、信者? みたいなグループがあって、ちょっと宗教っぽくて気味悪いって評判」

「さっきの先輩も、そのグループの人なのか」

「違うと思う……むしろ、仲悪いんじゃないのかな」

「なぜ?」

「吹奏楽部と、サイコさんの取り巻きって、前にトラブルになったことあるんだよ。吹奏楽部が大会前の練習で視聴覚室を使おうとしたら、サイコさんたちがなんか怪しい儀式やってて、揉めたとかなんとか。詳細は私も知らないんだけど」

「ふうん」

 話を聞いていて、ふと、ある顔が思い浮かぶ。何の脈絡もない連想だったが、しかし妙な確信があった。僕は他学年との関わりが薄い。三年生となると、知り合いは皆無だ。しかしつい最近、多少の関わりがあった人がいる。いや、関わりと言うにはあまりにも希薄なのだけど、他に心当たりがない。

「……サイコさんってさ、もしかしてけっこう背が高くて、痩せてて、目が大きい、癖っ毛をショートカットにしてる人?」

「そうだよ。やっぱり、知り合い?」

「いや」

 知り合いではない。

 しかし十中八九、影絵蟹の宿主である、あの女子生徒だった。

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