影絵ウサギ

影絵ウサギ 1

 レンズは不登校児だ。学校には、気が向いたときにしか登校しない。これは中学生になって突然始まったもので、小学生の頃は滅多に休まない子だった。だというのに突然、学校へ行きたくないと言い出した理由は、実はよくわかっていない。

「教室にいられない。あそこにいると、自分がおかしい気がしてくる」

 理由を問われると、レンズはそう答える。教室でクラスメイトに囲まれていると、自分が気持ちの悪い異物のようにしか思えない。場違いだと感じる。居心地が悪い。逃げ出したくなる。消えてしまいたくなる。動悸がする。喉が狭まったように息がしづらくなる。周りの音がどれも異様に鮮明に聞こえて耳を塞ぎたくなる。見えるものがどれもくっきりと、はっきりとして頭がくらくらする。などなど。病院にいったが異常はなく、精神的なものだろうと診断され、カウンセリングに通うことになった。

 ただ僕は、原因は他にあると思っている。


 ◇◇◇◆


 放課後、帰ろうとしていたところを隣のクラスの担任に呼び止められた。用件は、レンズの最近の様子について。彼はレンズの担任だった。

「特に、変わりはないです」

「そうか……勉強のことで、困っていたりはしないか?」

「どうでしょう。それは僕より、先生の方が知っているんじゃないですか。定期テストは、ちゃんと受けに来るんでしょう?」

 当たり障りのない会話をして、やり過ごす。僕はこの先生が苦手だった。あまり関わりたくないというのが、正直なところだ。

 先生は、いかにもな若い教師だ。高い理想を持ち、そのために労力を惜しまない熱意を持っている。そういう人は往々にして視野が狭かったり頭が硬くて融通が利かなかったりするものだが、先生はそんなこともない。適度な柔軟性を持ちあわせた、理想的な先生だ。そんな人が担任を務めているだけあって、隣のクラスは仲が良く、雰囲気も明るい。いじめの類いとは無縁なクラスだ。それ自体はいいことだし、羨ましい。ただそのクラスに属したいかと聞かれると、僕は頷けない。

 それは、先生についてまわる影絵が見えているからだ。

「それじゃあ、先生。さようなら」

「ああ。気をつけてな」

 にっこり笑って去って行く先生を、僕は複雑な気持ちで見送った。


 ◇◇◇◆


 去年のことだ。

 その日は、二学期の始業式だった。

 体育館に生徒が集まって、式典恒例校長の長話に付き合っていた。なぜ教師の話は長く、冗長なのか。要点だけを簡潔に言えば良いものを、どうでも良いような話題に始まり、とってつけたような引用とつまらない冗談を挟む。なぜ一言二言で済む話に十分も二十分もかけるのか。ただでさえしんどいのに、この日は朝から暑かった。登校するだけで疲れ切ってしまうような日だった。だから、僕に限らず生徒はみんなだらけていた。早く終われと、誰もが祈っていたと思う。

 僕は列の後方で、前方に整列する同級生たちの背中を眺めていた。どれもぐったりしている。ステージ上から降ってくる校長の声は元気いっぱいで、それが癇に障った。ため息をつきたくなるのをなんとか我慢し、深呼吸をして誤魔化す。

 視界の隅を黒い影が横切ったのは、そんな時だった。

 最初は気にならなかった。誰かの身体の一部が視界をかすめることくらい、よくあることだ。その黒い影も、そういうものだと思った。だから、そちらに目をやることすらしなかった。

 けれど、繰り返し視界の端をちらちらと動き回るのを見て、さすがに少し気になった。身じろぎの範疇を超えていると思ったのだ。僕は影の方へちらと目をやり、そして、息が止まるかと思うほど驚いた。

 そこにいたのは、ウサギだった。ウサギの影絵。平たく黒い、ウサギの形に切り抜かれた影が、生徒たちの間をひょこひょこと飛び回っている。

 誰の影絵だ。

 最初に考えたのは、それだった。

 影絵は、僕にしか見えていない謎の存在だ。どういうものなのか、ほとんどわからない。けれど、人間について回るものだということは経験上、わかっていた。影絵には、宿主とでも言うべき人間が、必ず近くにいる。そして影絵は、宿主からあまり遠くへ行かない。

 とはいえ、ここには人が多すぎて宿主を特定することは出来ない。全校生徒と教師陣のほとんどがここに集まっているのだ。特定しようと思うなら、影絵が宿主の元へ帰る瞬間を確認するしかない。

 僕はうろうろと生徒の間を跳ね回るウサギを、そっと観察した。

 改めてみると、ウサギは大きかった。最大のウサギと言えばフレミッシュジャイアントだが、それよりもだいぶ大きい。目測での印象は大型犬の成犬と良い勝負に見える。ウサギとしては非常識なサイズだ。僕はウサギのことは好きでも嫌いでもないが、ここまで大きいとさすがに少しひやりとする。

 うろうろとしていた影絵ウサギは、やがて一人の生徒の前で足を止めた。男子生徒だ。遠目で見てもはっきりわかるくらい、だらけている。立ち姿もだが、そもそも服装がだいぶ着崩されている。シャツがくしゃくしゃで、裾がはみ出している。スラックスもだらっとしていて、全体的にみっともない雰囲気だ。なんとなく、くたくたしている。

 ウサギはその生徒に顔を近づけて、微かに顔を動かしている。生徒はもちろんそれに気付いていない。ポケットから携帯端末を半分ほど出して、画面を見ている。なにか、通知でも来たのかもしれない。

 ウサギはしばらく、匂いでも嗅ぐかのように男子生徒に顔を近づけていた。なにをしているのかと見ていると、ぴんと立てていた耳が突然、ぐんと伸び上がり、そしてばくりと裂けた。まるで花が咲くようにぱっと開き、糸がほどけるようにばらりと広がる。

 耳をほどいたウサギは、それを男子生徒にぶすぶすと突き刺し始めた。頭に、身体に、耳だった糸を容赦なく突き刺し、潜り込ませていく。突き刺さった場所は、まるで墨が染みるようにじわっと黒ずみ、痙攣するようにびくびくと震えた。

 それが、何らかの作用をもたらしたのだろうか。男子生徒ははっとしたように視線を壇上に立つ校長へ向けた。携帯端末が乱暴にポケットにねじ込まれる。姿勢がぴしりと正され、別人のようにきりっとしたのが背後からでもわかった。

 ウサギはそれに満足したのか、突き刺した耳の糸を引き抜き始めた。黒ずみがすうっと染みこむように肌の下へ消え、するっと糸が抜ける。抜けた糸は再び寄り集まり、耳の形へと戻った。影絵ウサギは顔を洗うような仕草をした後、徘徊を再開する。

 僕が一連の出来事に若干の衝撃を受けている間に、影絵ウサギは新たな獲物を見つけていた。──よりによって、レンズだった。

 この頃、レンズは既に休みが増えつつあったものの、今よりは登校することが多かった。式典にもきちんと出席していたのである。 ただ、やはり負担は大きかったようで、その背中は丸まっていた。

 影絵ウサギは、そんなレンズに目を付けて、足元へ寄っていった。先ほどしたのと同じ事を、レンズにするつもりだろうか。できることなら、それは止めたかった。

 影絵という正体不明のものから影響を受けることが、果たして良いことなのかどうか。僕にはわからない。わからないからこそ、レンズをそれに晒すことは出来ない。あのウサギが人間に対して何をしているのかが不明瞭な以上、それを容認することは出来ない。なんとかして止めないといけない。しかしこの状況で、なにができる? 影絵は僕にしか見えていない。そして僕は見えているだけで、影絵に対してなにかが出来るわけではない。

 僕は焦り、どうにか出来ないか頭を回転させた。

 ただ、結論から言えばそれは不要なことだった。

 影絵ウサギが近づくのに合わせて、レンズの姿がぶれる。剥離するように現れたのは、影絵のレンズだ。髪をざわつかせながら姿を見せた影絵のレンズは、その髪を鞭のようにふるって影絵ウサギを強かに打った。影絵ウサギはひょっと飛び退き、その髪を躱す。睨み合うような数秒の間を置いて、影絵ウサギはそっと身をひるがえしてレンズから離れていった。それを見届けて、影絵のレンズもレンズの元へ戻る。

 唖然とする僕の前で、影絵ウサギはひょこひょこと跳ね、そして宿主の元へ帰って行った。

 レンズの担任の元へ。


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