影絵とレンズ 4

 翌日、授業を終えた僕は寄り道することなく、公園へ向かった。レンズの姿を探すが、見当たらない。今日は登校しなかったらしい。予想はしていたが、僕はほっとする。レンズは不定期登校を始めてから、二日続けて登校したことはない。だからいないだろうとは思っていたが、それでも気まぐれというものはある。もしレンズがいたら、今日は予定を変更するつもりだった。

 もっとも、ここにいないからといって安心は出来ないのだけれど。

 記憶を辿りつつ、住宅地の中を抜けて目的地を目指す。行き先は、もちろん昨日の家だ。途中でレンズに出会ったらどうしようかと思ったが、幸い、黒い姿に出くわすことはなかった。

 クリームとチョコレートの色をした家。その前で足を止める。昨日、女性が立ち、見上げていたその場所だ。ぴったりとはいかないまでも、おおむね近い場所だと思う。そこから見上げてなにが見えるのか。僕はそれが知りたかった。

「──…………」

 しかしこうして立ってみても、そう特別なものは見えなかった。この角度でないと見えないものでもあるのかと思っていたが、そうではないようだ。となるとやはり、単純にこの家を見ていたのだろう。この家のなにが、女性の視線を引きつけるのか。

 その場で考え込んでいると、かちゃりとささやかな音がして、玄関ドアが開いた。顔を見せたのは、二十代中盤か後半と言った年齢の女性だ。大きなお腹を抱えて、一歩一歩慎重に歩いてくる。門扉まで来て、郵便箱を開けたところでようやく僕に気付いたらしい。ぎょっとした顔になったのを見て、申し訳ない気分になった。とりあえず会釈をすると、訝しそうな顔であちらも会釈を返す。このまま立ち去ろうかとも思ったが、それより先に向こうから話しかけてきた。

「あの、うちになにか用かな?」

「あ、いえ」

 お茶を濁そうかとも思ったが、せっかく出会えた住民だ。話してみれば、なにかわかるかもしれない。僕は門扉に歩み寄る。

「あの……二階の窓のところにあるの、昔、流行ったやつですよね?」

 懐かしくて、と僕が言うと、女性はああと頷いて表情を緩めた。

「あれね、夫の持ち物なの。当時はあのキャラがものすごく好きで、グッズを買い集めてたんですって。バイトの給料、ほとんどつぎ込んでたらしいわ」

「すごいですね。コレクターさんなんですか」

「当時は、ね。今はもう、ぜーんぜん。買い集めたグッズも、ほとんど売っちゃったみたい。あのクッションだけは、その中でも特に貴重だとかで手放さなかったけど」

「限定品とかなんですか?」

「そうみたいね。ま、買った本人もあんまり覚えてないみたいで、調べてみたらそうだったって驚いてた。数量限定っていうの? 決まった数しか販売されなくって、それも抽選で当たった人じゃないと買えなかったとか」

「そんなに貴重なものなのに、あんまり覚えてないんですか。手に入れるの、大変だったんでしょうに」

 僕の言葉に、女性はぷっと噴き出した。

「変な話だよね。苦労して手に入れたものなのに、引っ越しの時に実家の物置から転がり出てくるまで存在すら忘れてたっていうの。普通、忘れる? って私も驚いたわ」

「変わった方なんですね。……あ、いや、すみません」

 さすがに失礼だった。頭を下げる僕に、女性は笑い声を上げる。軽やかでよく響く、綺麗な声だった。

「いいのいいの。本当のことなんだから。移り気っていうか、飽き性っていうか……本人は時流を読むのが得意なんだ、なーんて言ってるけど、ようはただのミーハーなんだよね。──あ、今の若い子はミーハーなんて言葉わかんないのかな。あんまり言わないよね」

「ええ、まあ。でも、なんとなくはわかります」

 たしかに最近は言わないが、少し古い本を開くと見かける言葉だ。正確なところはわからないが『流行ってるコンテンツを渡り歩いて表層を撫でるばかりの、中身のない、底の浅い人』というような意味合いだった気がする。あるいはもっと単純に、『オタクになれない人』だろうか。辞書を引いたら、どんな風に記載されているのだろう。辞書に載っているのかすら知らないが。

「目新しいものを見つけてきてくれるのは、面白くっていいんだけどね……」

 女性の呟きを遮るように、『夕焼け小焼け』が鳴り響く。

「もうこんな時間。ごめんね、引き留めちゃって」

「いえ、僕こそすみません。妊婦さんに長々と立ち話をさせてしまって」

「気にしないで。最近はなかなか外出できなくて、人恋しかったところだから」

 挨拶をして、家を離れる。昨日のバス停まで移動して振り返ると、もう家人は家に戻っていた。人気のない、静かな住宅地の景色。

 今日も彼女は、あの家を見上げるのだろうか。

 眩しそうに目を細めて、じっ、と。

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