いたずら小僧、捕らわる

 のち、彼が手に入れる名声や評価に比すれば、当時のヴァレンテ・ロマーノの持ち物といえば、まったく哀れの一語に尽きよう。剣が一振りだけである。その剣も、ルブラン・サロンの武具の供給元である武器商人トスカニーニから譲り受けたいわば放出品で、売り物にもならないようながらくたの山から拾ってきた鉄屑てつくずであった。彼はそれを、丹精込めてぎ、鏡のように磨いて、大切に持っていた。

 今、彼はその剣とともに、ソフィーの護衛にあたっている。

 なるほど確かに、身分は名もなき庶民、親を亡くし仕事もなく、ルブラン邸に世話になっているごくつぶしの食客しょっかくである。彼が近い将来、一躍して驚天動地の偉業をなすなどというのは、世間はおろか、彼をよく知る者も、また彼自身でさえ想像だにしないことであった。

 16歳の彼は、まだまだ幼いところが多分に残っていて、特にソフィーの目の届かないところでは手のつけられぬいたずら小僧であった。人気ひとけのない高所から通行人に向かって放尿したり、東方から伝わった吹き矢という飛び道具で猫の目をつぶしたり、民家に蛇を放り込んだり、あるいは目の不自由な老人にトマトをぶつけたりと、その悪行の数々には、カーボベルデのみならず南方都市エクランの人々も大いに迷惑した。

 ソフィーも無論、彼のいたずら好きはよく知っていて、度が過ぎる場合にはきつく戒めたが、多くの場合は優しくさとすだけだった。ヴァレンティノの方は、むしろ敬愛するソフィーに相手をしてもらうのがうれしいのか、説教されている最中も、汗を流し、顔を赤くし、熱っぽい目でソフィーのペリドットのような明るい緑の瞳を見つめ返している。

 テオドールはソフィアを一途に愛していたが、ヴァレンティノの場合は、ソフィーであった。ただそれは、男女の愛情というよりは、もっと異質な、例えば雛鳥ひなどりが口移しで餌を与えてくれる母鳥を仰ぎ見るような、そういった熱烈な信愛、もっと言えば信仰心である。

 ソフィーにとっても、年は四つほどしか違わないが、それこそ精神性は雛鳥のようでしかないこの少年がかわいくないはずもない。

 だから、エクランの官憲にヴァレンティノが逮捕されたと聞いたときの衝撃と動揺は、計り知れなかった。

 最初に彼女にその情報をもたらしたのは、武器商人のトスカニーニであった。この男はもともとは帝国の王宮及び軍に武器をはじめとする装備を納入する軍需業者であったが、国の腐敗ぶりに嫌気が差し、表向きは帝国と良好な関係を築きつつ、情報を盗み出したり、逆に偽りの情報を提供したりと、解放運動の様々な面で暗躍している人物である。なかなかの食わせ物で、単純な正義や情熱で動いているわけではなく、運動の主要人物に名を連ねることで、新体制が成立したあかつきには政府高官の地位と巨大な経済的権益を手に入れようとする野心家である。ルブラン・サロンには、高潔で高尚な革命家も多いが、こうした野心家や権謀家のたぐいも決して少なくはなかった。

 しかし、一見するとごくごく人の好さそうな初老の老人である。目がぎょろりと大きく、太っていて、頭髪が禿げ上がっており、そうした外見が、彼の人当たりのよさに寄与している。

「ソフィーお嬢さん、先ほど、買収した司直の者から情報が届いた。ヴァレンティノが捕まった」

 ソフィーは驚きのあまり目を見開き、ペリドットを思わせる明るい緑色の瞳を小刻みに揺らした。彼女が動揺を見せるのは珍しい。

「捕まった、まさか、何故です!?」

ぼんのやつときたら、やりすぎたらしい。今朝、市場をひやかしているときに、よりによって兵士の財布をすったらしくてね。騒動になって、運悪く捕まっちまったらしい。坊は風のように速く走るというが、今度ばかりは年貢の納め時ときたもんだ」

「ほかのみなさんは?」

「みんな、母屋に集まってまさぁ」

「私も、お話に加えてください」

「もちろんでさぁ」

 診療を中断し、助手兼護衛のシャルルとともに母屋に戻ると、カッシーニ、トルドー、ブーランジェ未亡人、そして報告したトスカニーニが集まって討議している。

 全員に共通しているのは、事態が思ったよりも深刻であるという認識だったが、ソフィーとカッシーニらとでは、その認識をはぐくむ土壌が大きく異なる。

 前者は、身内と言ってさえいい者が、官憲の手に渡り、どのような罰を受けるのか、いつ帰ってこれるのか、という不安。

 後者は、ルブラン・サロンの機密を知り尽くしたあの少年が万一、取調べの過程で仲間を売りはしまいか、という恐れであった。少年がすべてを白日のもとに暴露すれば、エクランに滞在する彼らは無論、都にとどまるルブラン・サロンのメンバーたちも一網打尽に捕縛され、叛逆罪でたちまち処刑されるであろう。解放運動は計画の段階で、根から掘り返されてしまう。

 なんとかして取り返そう、というところまでは全員の一致した見解であったが、問題はやり方であった。カッシーニらはソフィーの術者としての力を借りつつ、ヴァレンティノの身柄を密かに強奪することを考えたが、ソフィーは違う。

「ヴァレンティノが何者かによって助け出されたとなれば、それは私たちの仕業であろうことはすぐに露見します。かえって、事態を大事おおごとにしかねません。正面から堂々と、赦免しゃめんを願い出るのがよいのではありませんか」

「なるほど、それもそうだ」

「さすが、ソフィーお嬢さんは聡明でいらっしゃる」

「では、何かそれらしい筋書きを用意しよう」

「例えば、私の息子ということにして、放免を嘆願するというのは」

「それはよい」

「いいえ、それも危険です」

 と、ソフィーは再び反論する。

「ヴァレンティノの供述と私たちの話に食い違いがあれば追及を受けて、窮地に陥るでしょう。嘘は、最低限にすべきです。百の嘘で一つの嘘を守るより、百の真実で一つの嘘を守る方が得策です。隠すべきは、みなさんの組織が裏に持っている目的だけ。あとはすべて真実を申し出て、真摯しんしな態度を見せた方がいいと思います」

 カッシーニらは、改めてソフィーの賢明さに驚嘆した。彼らはソフィーとソフィアを、術者の姉妹としてのみ考えていたが、あるいはその聡明さ、冷静さや洞察力は、名士として鳴らした彼らをしのぐかもしれない。

 ソフィーは単身でヴァレンティノの押し込められているという番所に出頭することにした。護衛のシャルルは、せめて自分だけでも連れていくことを、泣くような悲痛さで求めたが、彼を同行すればかえって剣呑けんのんであるとして、ソフィーは却下した。もともと野盗の親分であった彼を悪党の道から更生させたのがソフィーであるだけに、彼女に対する忠誠心はヴァレンティノにも決して劣らないと自負するシャルルである。ソフィーに危険が迫れば、たとえ及ばずとも敵兵を一手に引き受け、斬り防ぐうちにソフィーを逃がす、というような覚悟もあったと思われる。そしてそのような気息を察知したからこそ、ソフィーは危うしと見て、彼を置いてゆくことを決めたのであった。

 ソフィーは、杖を一本だけ持ち、さすがに唇を嚙みしめるような緊張した面持ちで、番所を訪れ、身分と用件を明かした。

 自分はセーヌ村出身の医師で名をソフィーといい、このほどエクランに転居したばかり。ヴァレンテ・ロマーノが捕らわれていると聞き、身柄の引き受けに来た、と。

 セーヌ村のソフィー、と聞いて、番兵たちはしばらく首をひねっていたが、やがてそれが、近年ちまたを騒がせている奇跡の術者であることに気づき、番所ごとひっくり返るのではないかというほどの騒ぎになった。

 番所には折しも、エクランの治安責任者ディエゴ・ペドロサの姿があって、術者の訪問を番兵より告げられた。直ちにお通しせよ、との命令が発せられた。

 ソフィーは番所にて静かに待つうち、応接室のような部屋に通され、さらに待つこととなった。

 (どうなるかしら)

 暴発を抑えるため、カッシーニらには自信ありげに宣言したものの、実のところ、なんの確信もあるわけではない。あるはずもなかった。例えばエクランの軍事力と警備力を掌握するペドロサなる人物について、彼らは情報収集を始めたばかりである。高潔か、凡俗か、野心や欲望は強いか、兵や民からの評判はどうか、まだ何も分かってはいない。心中、不安がつのるばかりである。

 どうなるか想像してみよう。彼女がカーボベルデで数万人のペスト患者を治癒した術者姉妹の片割れであるとなれば、その待遇は予見せざるところである。もしかしたら、歓待してくれるかもしれない。だが野心のある者であれば、ヴァレンティノという人質を利用して、彼女の能力を掌中にしようと試みることもありうる。つまり、かつて術者エルスをして導きを行わしめたセトゥゲルのような人物であったら。あるいは欲にまみれた男なら、ソフィーを愛人にしようと迫るかもしれない。そして、万にひとつでもヴァレンティノがルブラン・サロンの秘密を漏らしていたら、彼女もその首謀者であるとして、殺されてしまうであろう。

 ソフィーは、都で待つソフィアを思った。危険を感じたなら、術を使ってでも、窮地を脱するべきであろうか。

 しかし、一方で保身のために術を使うことは、術者の名をけがすことになる。彼女ら姉妹が、今まで聖者のように敬われあがめられてきたのは、治療以外の目的で術を使ったことがないからだ。だからこそ、彼女たちは無用な警戒や敵意と無縁でいられたし、それこそが彼女たち自身の安全を担保することにもつながった。

 危地から逃れるためといって、たとえ無害であっても風を使えば、人はそこに恐怖を見出し、彼女らを社会全体の敵とみなすであろう。そうなれば、ソフィーだけでなく、ソフィアにも危険が及ぶことになる。

 だが彼女が殺されたなら、それは軍が彼女ら姉妹を敵とみなしたということになる。であれば遅かれ早かれ、その魔手はソフィアの身にも及ぶことになる。ソフィーの危険は、ソフィアの危険でもあるのだ。だからこそ、

 (よくよく冷静に、慎重に動かないと)

 緊張のあまり膝を震わせ、みしみしと指の骨の痛むほどに拳を握り締めながら、ソフィーはひたすらに待ち続けた。

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