寄り添い眠る姉妹

 オリーブという植物は、太陽の象徴であるとされている。

 太陽は人々に、恵みと富を与え、さらに幸福をもたらすものだ。オリーブがそれだけ、重要で魅力的な資源だったということであろう。

 植物学的には、この樹木は安定した温暖な気候を好み、それはここミネルヴァ大陸南西部のアポロニア半島東海岸の気象条件に合致する。この地域は、南と東にはるかなる海をのぞみ、西は半島中央部の山岳ないし丘陵地帯から穏やかで乾燥した風が吹き下ろし、一年を通して安定した気候となっている。

「アポロンの東は心穏やかで豊穣を楽しみ、南は厳しき森と砂漠あり。西は彼方の残照に葡萄酒を捧げ、北は険しき天嶮てんけんに邪鬼を防ぐ」

 などという民謡が、この地域には広くうたい継がれている。大意を解説すると、アポロニア半島東部は広大な平野が広がり地味も豊か、日光は絶え間なく注いで作物の実りもことのほか良好であり、誰もが暮らしに満足する。南部には未開の森と不毛な砂漠が位置しており、人々はあえて近づかない。西部は高原や丘陵地帯など起伏が激しい地形が多くを占め、住民たちは狭い平地や盆地にブドウを育て、ワインを楽しむ。高地から西を眺望すると、そこには大海を照らし雲を赤く染める残照が鮮やかに見えるであろう。そして北部はヴァーレヘム山脈やグアダラハラ山脈といった急峻な山岳地帯が並んでいて、これらが北から侵入する鬼を防ぎ止めている、というのである。

 邪鬼、というのはなかなか含蓄がんちくのある表現である。古くからの民謡やおとぎ話には、よく鬼や物の怪もののけやあるいは悪魔なるものが登場するが、こういった存在は多くの場合、実在する人間や獣、あるいは疫病やさらには異常気象を投影しているとされる。例えば遠隔地の異民族や侵略者、未知の巨大生物をモデルとしていることもあるし、天然痘やペストの大流行、火山の噴火や太陽の活動による気象の乱れ、気温や天候の極端な変動といったあらゆる災厄の原因を、語彙ごい力や情報収集力の極めて乏しい古代の人々は「鬼」という言葉に凝縮して表現したものであろう。

 ミネルヴァ暦441年のアポロニア半島における「鬼」といえば、ペスト(黒死病ともいう)であっただろう。ミネルヴァ大陸の歴史上、ペストの最流行期がこの5世紀前半のことで、最終的には大陸の人口の約3分の1が犠牲になったという。その猛威には、当時まだヴァーレヘム山脈を貫くピレネー街道が未完成で、ために整備された陸上交易路が事実上存在せず、陸の孤島であったアポロニア半島も無縁ではいられなかった。貧弱ながら海上交易路で大陸本土と接続しているために、ペスト菌が持ち込まれ、それがたちまち半島全域に波及したのである。毎日、町や村の誰かがペストにかかり、誰かの訃報ふほうが伝わってくるという具合であった。

 当時、アポロニア半島を支配していたのはアパラチア帝国であったが、ペストの爆発的流行によって全産業が機能不全に陥り、経済も破綻はたんして、飢民が国中にあふれ返った。皇帝や官僚らとてなすすべなく、疫病が災厄をまき散らすのをただ指をくわえて眺めるほかはなかった。

 半島東海岸に位置するセーヌという名の小県でも、近頃はようやくペストの深刻な被害を受けつつあった。

「姉さん、今年は豊作ね」

 オリーブ樹林の真ん中に座り、羊皮紙ようひしに水彩画を描いているのは、ソフィアという名前の少女である。この年16歳の彼女は、早熟の美貌の持ち主で、すでにその評判は村の外にまで響いている。サファイアを思わせる神秘的な印象の蒼い瞳を持ち、高い鼻梁びりょうとかたちのよい唇に知性と品格が備わっている。

 ちなみに羊皮紙はこの頃はまだ高級品で、オリーブ農園を営んでいる彼女ら一家がそれなりに裕福な暮らしを送っていたことを示す事実と言えよう。

「今年は珍しく、長雨やハリケーンもなかったから」

 最前からオリーブの収穫に精を出しているのは、姉のソフィーである。双子だから顔立ちはよく似ているが、彼女の瞳はペリドットのように透き通る緑色で、これが彼女の穏やかで快活な人格と雰囲気とを象徴づけている。ソフィアとは性格がまるで違って、妹は人見知りがちで姉の後ろに隠れたがるが、好奇心や行動力に富んでいる。姉は常に自然体で面倒見もよく、虫も殺さぬ思いやりがある。そのため双子で一緒に生まれ育ったとはいえ、ソフィーは姉として成熟しており、ソフィアはまだ少女の一面が強く残っている。

 父母とも年老いてからの双子の誕生であっただけに、この頃には両親は50の峠を越えている。この時代の50歳というと、それはもはや老人と言っていい。農園の管理も、昨年からはすべて姉妹の手にゆだねられている。

 この年は確かにオリーブが豊作の年であった。果実の収穫時期は比較的長いが、オイルにする目的では、12月ほどが最も具合がよい。セーヌの村の気候においては、12月は半袖でいるとわずかに肌寒いかどうか、というところだ。夏は暑すぎず、冬でも暖かい。

「お嬢様、お嬢様!」

 召使いのウルラが血相を変えて農園に駆け込み叫んだのは、12月の半ば頃であったと、資料にはある。ウルラとはフクロウを意味する。フクロウは知恵の象徴とされていたから、そうした期待を込めて命名されたのであろうが、皮肉めいた神の仕業しわざなのか、彼女はごく軽度の知的障害を抱えていて、このため40ルーガという値段で買われてきた。40ルーガは、オリーブにすると200粒分ほどであろう。人間につけるあたいにしてはずいぶん安い。もっとも、知恵おくれといっても彼女らにとっての唯一の召使いだし、勤勉で仕事のり好みがないから、特に老いた父母の世話などに重宝している。

「ウルラ、どうしたの。慌てた様子で」

「ソフィーお嬢様、お父上とお母上が」

「父さんと母さんが?」

「こ、黒死病にかかられたようで」

 ソフィーはオリーブのバスケットを取り落とし、ソフィアも絵筆を捨てて立ち上がった。彼女らは一目散に、我が家へと走った。

 家の前では、人だかりができている。姉妹の姿に気づくと、みな黙って距離をとり、遠巻きに見守った。ペストに罹った者、あるいはその家族には、近寄らないことと、触れないこと。それがこの時代におけるペストの感染を防ぐ唯一の方法とされていた。

 ちょうど、家からは年老いた医師が出てくるところであった。ソフィアは駆け寄って、背中の丸い老人にすがるように尋ねた。

「先生、父母はともに黒死病なのですか」

「あぁ、ありゃ間違いがない」

 ソフィアは膝から崩れ落ち、ソフィーも血の気の引いた顔で、呆然とした。ペストの毒におかされれば、半分以上の人間は発症した数日内には死ぬ。そして、ペストの有効な治療法は見つかっていない。医師といえど手の施しようがないのである。

「家には入るな。おめぇらはまだ若い。少なくとも3日間は、どこかで厄介になることだ。奇跡を願って」

「奇跡なんて信じない!」

 ソフィアは忠告する医師を振り切り、家の中へと走った。ソフィーもやや躊躇ためらいつつ、妹を追った。

 茅葺かやぶきの家は、冬季でも一応の断熱性が保たれている。老夫婦は寝室に並んで横たわり、その顔には早くも死相が見られる。ペストの特徴が、この異常なまでの進行の早さである。発症が認められたあと、毒が全身に回り、ショック症状を起こして息絶えるまで、早ければ半日ともたない。無論、その間の患者の苦しみようは、この世のものとも思えない。

「父さん、母さん!」

 ソフィアは、朝とはまるで別人のようにやつれた父母を前にして、みるみる涙を浮かべ、這うようにして近寄ろうとした。

「来るな!」

 弱々しくも叫んだのは、父である。蒼く美しい瞳はそのままソフィアに受け継がれたが、今はそれもずいぶん濁っているように見受けられる。

「父さん……?」

「近寄ってはいけない。お前たちに感染うつしてはならない」

「そんな、私たちは家族よ!」

「家族だから、大切なんだ」

「私なら治せるッ!」

 ソフィアは血を吐くような勢いで、そう叫んだ。

 (そう、私たちになら治せる)

 ソフィアの背後で立ち尽くすソフィーも、心中で首肯しゅこうしている。世間でどれほど恐怖され、いかに多くの人が亡くなろうとも、彼女たちはペストを恐れる必要はないのだ。

 (私たちは、術者だから)

 しかし同時に分かっていることもある。術者は、術を使ってはならない。彼らの役割は、術者の血筋と秘法と知識とをのちの世代に譲り渡すことであって、力それ自体は、道具であってはならないのである。人は誰しも、力を道具と見れば、使ってこそ意味があると考えてしまう。その末路が、滅びの鐘であった。滅びの鐘とは、術者がしき者に力を授け、世界を破滅に導くことを指す。そして世界は術者を恐れ、互いに疑い、互いに殺し合い、ために人々は大いなる災いに見舞われた。この難を避けるには、術者が我が術を封じ、決して行使しないこと。

「それでは、なんで母さんは、父さんや私たちに、導きをなさったの?」

 確か、姉妹が12歳の誕生日を迎えた日であったか、ソフィーは疑問に思い、術者の血を直接に継ぐ母にそう尋ねたのを覚えている。自らも、自らの子や孫も決して使わない術。そのような力をあえて連綿と継承していくことに、どのような意味があるというのであろう。

 母は土の術者らしい、情愛の深い眼差まなざしを向け、その問いに答えた。

「術は、術者の血そのもの。人が子をなして血を継ぐように、術者も術を継いでゆかねばならないのよ」

 ソフィーはうなずき、ソフィアも姉にならった。だが幼い彼女らは、必ずしもその回答に得心したわけではなかった。当時も、今もである。

 特に父母がともに生死の境にあるとき、術者としての力を父母を救うために使役できぬとあれば、術者であることにどれほどの意味があるというのか。

 すると、それまで黙って夫と娘のやりとりを聞いていた母が、初めて口を開いた。重病のために目がかすむのか、その緑色の瞳にはまるで生気がなく、目線も虚空をさまよっている。

「ソフィー、ソフィア、聞きなさい」

「母さん……」

「術は、決して使ってはならない。このおきては、母さんや父さんの命よりも大切なのよ」

 姉妹は絶句した。自分の命、愛する夫の命、あるいは父母の命、それよりもさらに守るべきおきてが世の中にあるというのか。

 そして母はあえて言葉にしなかったが、彼女にとっての掟は、彼女の娘たちの命よりも大切だと考えていたのであろう。つまり今、病床にあるのが彼女ではなくソフィーやソフィアであったとしても、彼女は術を使い救うことは決してしないということだ。ペストで彼女ら一家が死ぬも死なぬも、それは術者としての力の及ばざる天命である、とでも言うのであろうか。しかし仮に、一家全員が死に絶えれば、その時点で血脈は途絶え、術の継承もかなわない。本末転倒な話である。

 だが、ソフィーもソフィアも、黙ったきり、反論しなかった。母の言葉には、彼女らが反駁はんばくする余地もないほどの、ある種の強制力が感じられたからである。

 姉妹はうなだれたまま、何も言わずに家を出た。農園に設置してある納屋で、彼女らは犬の兄弟がそうするように寄り添い、じっと、一言も発せずに時を待った。夜も深まった頃、父と母の思念が、同時に消えたのを感じた。

 しばらくしてから、ふたりはどちらからともなくめそめそと泣き始めた。彼女らは、何を思っていたのか。ひとつ確かなのは、ふたりはそのとき、同じ思いでいた、ということである。彼女たちは、母の胎内にいた頃から、互いの肉体と思念を通じてつながっていた。性格は対照的なところがあるが、互いのことは誰よりもよく分かっている。だからこの場合、思いを言葉にして確認する必要もなかった。ただ、寄り添うだけでよかった。

 泣き疲れたあと、彼女らは頬を濡らしたまま肩と肩で寄りかかり、睡魔の術に陥り静かに寝入った。

 どれほど悲しくても、どれほど絶望しても、人は必ず眠り、睡魔は人の傷をいたわり癒すように、優しい眠りを用意している。

 術者といえど、夜になれば等しく眠りの世界の客人とならざることはない。

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