上手くいかなかったり思い通りにいかなかったり

凪花侑太郎

第1話 慶彦の初恋

慶彦はドキドキしていた。

彼にとっての初めての”旅行”であった。旅行というとすごく響きはいいが、そんな大層なものではない。父親の仕事の関係で旭川までついてきただけであった。


慶彦の父は馬具を制作する商店を営んでいる。数名の職人を抱え馬具を作っている。そして、それらを日本軍に納品して生計を立てていた。定期的に納品が旭川であり慶彦の父親は家のある士別との往復を頻繁にしていたが、慶彦自身は初めての旭川であった。今回の旭川への出張は慶彦もどうだと父親から誘われた。普段は学区以外ですらめったに出掛けたことの無い慶彦にとってはとても魅力的な提案であったし、少しづつだが父親の仕事にも興味を持ち始めた頃であったのでとても嬉しかった。暑かった夏の強い日差しも少し翳りをみせ、徐々に秋の香りを漂わせていたが、それでもまだまだ暑かった。汗をじんわりかきながら父親についていったが父親もまた同じように汗をかいており、道中特に会話らしい会話はなかったがそれでも慶彦はすごく楽しかった。

慶彦は四人兄弟の末っ子であった。一番離れている兄は十二歳も歳が上であり、働きに出ている。幼い頃から身の回りの全ては兄たちのお下がりで何代もの兄たちを経たそれらは例外なく年季の入ったものになっている。兄弟みな体格が似ていたので幸か不幸か服装は全て使いまわせていた。


旭川に入るとそこは全く知らない世界が広がっていた。特に路面電車というのを初めて観て、街と電車が融合しているのに興奮した。慶彦は目の前に起こっている真新しいものにとても興奮し、心を弾ませていた。上手くこれを伝えようと父親の顔を眺めるが、いざ伝えようとすると言葉よりも感情が出てきてしまい上手く形にできない。慶彦が父親にモジモジしていると父親は慶彦の顔を見て微笑んでくれた。父親自身も無口で感情を伝えるのが苦手だったからか慶彦の気持ちは伝わった。普段兄たちには非常に厳しい父親だが何故か慶彦だけには決して怒らず優しく見守っていた。そんな父親に慶彦は少し遠慮していた。


旭川に着くとすぐに下宿先の旅館に向かった。軍に納品する馬具は量が多く、一度宿に運んでから数日に分けて部署ごとに納品していく。次回以降の希望納品などの打ち合わせもするので一回の滞在は二週間程時間を要した。慶彦には学校があったが、今回はなぜが一緒に行くことが許された。慶彦は勉強は好きだったがあまり友達がおらず、学校自体がとても楽しいといった記憶がなかった。それよりもまだ見たことのない場所に行けることがとても新鮮で好奇心が湧いた。思えば父と二人きりというのもなかなかなく前日の夜は少しばかり緊張したが、今となってはその緊張など忘れて街の様子に見とれていた。そうしてあっという間に寝泊まりする宿に到着した。


「じゃあ、慶彦はここで待ってなさい。」

そういうと父親はそそくさと受付を済ませた旅館の部屋から出ていき仕事先へと向かった。部屋に残された慶彦は急にシーンと静かになった部屋で少しぼんやりした後、ふと持参した鞄のふたを開けた。出先でも勉強ができるように筆記用具など勉強用具を一式持ってきていたのだ。特に父親から勉強しろと言われた訳ではなく自分の意思で持ってきた。父親は慶彦が日中、何をしたらいいか伝えていなかった。父親に考えがなかったのか、単に伝えなかっただけなのか分からないが慶彦は自主的用具を持ってきて机に向かって正座で勉強をはじめた。

しばらく集中していたら扉が急に開いた。

「あら、ごめんなさい。いらっしゃったのね。大変失礼しました。」

そういうと女性は頭を下げた。

「慶彦さんね。お父様からお話は伺っております、今回のご出張でご子息様も御一緒ということを。しかし、帳場でお預かりになりました荷物を持ってまいりましたが、何も音がしなかったので誰もおらぬものと思い込んでおりました。勉強されていたのですね。お邪魔しました。こちらに荷物を置いておきます。ゆっくりしていてくださいませ。」

そういうと女性は再び頭を下げ部屋から出ていった。慶彦はその間、声にならない相槌をうち、頭を何度も精一杯下げていた。そして、女将の突撃を経てまた机に向かった。


しばらく勉強を続けていると喉が乾いてきた。先程の女将なら慶彦もお水ぐらい頼めそうだったので恐る恐る部屋から出て、階段を下っていった。

階段をゆっくり降りた先の厨房みたいな場所に水を貰おうと足を踏み入れてみた。少し物音がしていたのでてっきり慶彦は先程の女将が何かを片付けをしているものだろうと軽い気持ちで話しかけてみた。

「すみません…お水をいただけますか。」

ガタガタと立てていた音が止み、音が止んだ方を慶彦が見るとそこには少女が屈んでいた。棚の下の方をなにか整理していたのか少女は慶彦の方を見上げるとはいと返事をした。

「あ、すみません。女将だと思って。こちらの人ですか?」

「ふふ、そうです。お水ですね。今お持ちするのでお待ちください。」

少女はニコッと笑うとスタスタと中の方に入っていった。慶彦はまさか少女だと思わずその不意打ちに驚きたじろいだ。しかも自分より二つか三つ下の女の子である。咄嗟に動揺がバレないようにしたつもりであったがどうだっただろうか。変な人みたいな印象を与えてしまったのではないのかとまた考えて動揺した。なんで今出会ったばかりの人に変な人の印象を与えてしまったのか不安になるのかも分からなかった。でも、一瞬であったにもかかわらず慶彦を見上げた顔と笑顔が全く脳裏から離れなくなってしまった。慶彦の心の大地に何かがスっと染みていく感覚があった気がした。すっかり喉の渇きなど忘れていた。




人見知りとはいえ一週間も経てばだいぶこちらの生活にも慣れてきた。まだ小学生であった慶彦はやはり勉強ばかりでは退屈になり、女将と少しづつだがお話をするようになった。女将は自分の母親とほとんど変わらず、日中一人ぼっちの慶彦のことをとても気にして面倒を見ていてくれたので一気に心を開いた。女将業が忙しい中でも、勉強中の慶彦の元を訪れてはお茶やお菓子などの差し入れなどをしてくれた。相変わらずありがとうの感謝の言葉もモジモジでしか伝えられないのだが、それでも心から感謝を伝えた。そして、女将は毎度目を細めて「どういたしまして。」と頭を下げるのであった。おかけで勉強ははかどり、持ってきた勉強を帰る三日前にはすべて終わらせてしまった。


もちろん滞在中は勉強だけしかしてなかった訳ではなく、父親が休みの日には旭川の街中を観光したりした。初めて洋食店に行き、まだ秋に差し掛かった日なのにグラタンを食べた。この世にこんな熱い食べ物があるのかと一口目でびっくりした。その慶彦の驚いた顔に父親が声を出して笑った。父親の笑い声なんて初めて聞いたし、余程面白かったのかしばらく笑っていた。最初、慶彦は戸惑っていたが目尻に涙を浮かべて笑う姿に段々こちらも面白くなり終いには二人で大笑いしていた。

父親が仕事の時は女将にいろいろと楽しいことをしてもらった。さすがにお出掛けは出来なかったのだが、近所から貰ったというスイカひと玉を持ってきたら「スイカ割りやろう!」と目隠しと木の棒を持ってきた。そして、女将の娘さんと一緒にスイカ割りをした。

先日、厨房であった女の子は「キコちゃん」と言うらしい。そう、ここの娘さんであったのだ。初めこそはよそよそしい感じがしたのだが、次第にお互いよく喋るようになった。お互いに自己紹介したわけではないのに「キコちゃん」と呼ぶようになり、キコちゃんからは「よっちゃん」と呼ばれるようになった。学校以外の友達がとても新鮮で、気が付けば慶彦はいつもキコちゃんのことを気にして、探していた。キコちゃんと話してる時間はとても楽しいし、もっと詳しく話を聞きたいと自然に思っていた。キコちゃんも慶彦と会話をする度に親しくなっていく実感を抱いており、心が温かくなるのにキツく苦しく心臓が鼓動を打つ感覚に襲われていた。そしてキコちゃんも慶彦のことをいつも気にかけていた。


いよいよ父親の仕事が終わり、士別に帰る日が来た。お見送りには女将とキコちゃんがいた。心做しかキコちゃんの顔色は暗い。

「では、気を付けて。また近い内に旭川へはいらっしゃるのでしょう。」

女将が慶彦とキコの気持ちなど知らずににこやかに聞いている。

「そうですね。その時はまたお邪魔しようかと思っています。」

父親がそう言ってお辞儀をすると慶彦は続けて頭を下げた。そして父親の言った内容に心が弾み嬉しくなった。それでも、キコは寂しそうに顔を伏せていた。父親と女将がそれぞれ軽くお別れの挨拶をして離れた。慶彦は慌てて俯いたその顔に「またね。」と伝えた。キコは寂しそうに「さようなら。」と応えて振り返ってしまった。これではいけないと直感的に思い、慶彦は先に進んでしまった父親を追いかけるために小走りに近付き父親の手を掴んだ。手を掴まれた父親は息子の行動にびっくりした。

「どうした?何かあったか?」

慶彦は俯きながら精一杯今の気持ちを伝えようとしている。こんな寂しくキコちゃんとお別れしたくない。しばらくしたらまた会えるかもしれないけど、最後に見た顔は笑顔がいい。そんな事を強く考えていた。

「どうした。伝えたい事があるならしっかり伝えてこい。俺はここで待ってて見守ってるから。全然恥ずかしいことじゃないぞ。」

父親は屈んで慶彦の顔に近付きニコッと笑った。

「伝えないというのは思ってないことと一緒だぞ。」

そういうと慶彦の背中をポンっと軽く叩いた。まるでそれが合図になったかのように、慶彦は力強く父親の顔を見ると「うん。」と言って旅館の方へ戻った。急いで戻ると女将とキコちゃんが旅館の入口から中へ入るところだった。急いで戻ってきた慶彦に気付いた女将がキョトンとしている。

「よっちゃんどうした?忘れ物?」

その問いかけに忘れ物といえば忘れ物だなと思いながら、代わりにキコに向かって話した。「キコちゃん、また会えるよね。今日はここで帰るけど、必ず会える。そう思ってる。また会うために僕はまた明日から頑張るからさ。だから、お互いまた会えるように一生懸命勉強するし、家の仕事も手伝うし、言いつけは守るし、スイカ割りの練習もする。それと、それと、」

最後の方は何を頑張ればまた会えるのか考えているとキコちゃんが笑いだした。

「うん。私もまたよっちゃんと会いたい。だから私も頑張る。」

慶彦はキコの笑顔が見れてほっとした。そして、

「やっぱり笑顔が可愛いな。」

とうっかり心の声を漏らしてしまった。まさか、自分がそんなこと言うなんて信じられなかったし、みるみる自分の顔が赤くなる気配がした。言われたキコちゃんも同じように顔を赤くし、一部始終を見ていた女将は「あっついなぁー。」といって笑いながら旅館の中に入っていった。じゃあまたねとお互い笑いながら離れた。



父親の元に戻ると父親は良くやったと笑いながら頭を撫でた。父親に頭を撫でられたのは初めてかもしれない。


「俺は息子達に思っててまだ伝えられてないことがあるんだ。」

手を繋いで歩きながら父親が慶彦に言った。慶彦は父親の顔を見上げるが父親はすっと前方を眺めていた。

「息子なら父親より人生を楽しめ。」

父親はすごく満足そうな顔になっている。

「お前に伝えられて幸せだよ。」


慶彦は返事をする代わりに強く父親の手を握った。

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