第一章 この世のオモテとウラ 2

 死はすべての生物に平等で、生はいつでも理不尽で、そのバランスの悪さを思い知ったのは、物心つく時だったと思う。

 ろくでもない時間を過ごしたな。家族と仲良く過ごしていた時間はほとんどなく、両親の怒号が寝る時のBGMで、妹の泣き声のせいで眠れなくて、いつもふたりで夜中、散歩をした。近所の公園で遊んで、母親が迎えにきて帰る。ゆっくり眠るのは深夜と学校の時間。授業をサボって寝るため、保健室に入り浸る。あまりにも眠すぎて、倒れることもあったらしいが覚えてない。

 慢性的な睡眠不足のせいか、家庭環境のせいか、感情表現がうまくできず、できた友人にも気味悪がられる。そんな俺を面白がって接してくるやつもいた。

 おとなしい顔して、こわいことするよね、と当時、付き合っていた友人から言われたことがある。

 だって、ムカつくから殴るだろ、そりゃ。そう笑顔で言った俺を、友人は失笑するばかりだった。

 俺の頭のネジがどこか常人と違うと気づいてからは、少しだけ態度を改めた。

 高校に入って、適当に人とつるみ、オモテの顔を浮かべて、いかにも能天気で今が楽しい高校生男子です、って公言するように生きていた。

 けれど、家に帰ればそういうわけにいかず、でも、こっちが本来の俺であって、生きにくいと思っていたウラの世界が、いつの間にか生きやすく感じていくのに薄ら寒さを覚えて、オモテとウラに対する意識がどんどん乖離していった。

 一個下の妹、詩意シイも、きっとそう思っていただろう。

レイは、うまく生きててズルいよね』

 ゴミと布団の境目がない空間にだらしなく座ってスマホを眺める詩意は、中三にして人生を諦めていた。学校に行かず、ゴミ溜めの中で無為に過ごすので、哀れに感じることもしばしばある。

 お前もそれくらい器用になればいいんじゃない。そう言ったら、腹に蹴りを入れられた。それがきっと、まだ無邪気にできた最後の兄妹ゲンカだっただろう。

 これが死の世界だろうか。死というのは、くだらない日々を思い出すのだろうか。

 死んでも意識があるなんて、なんの罰ゲームだよ。さっさと次の人生につれてってくれないかな。

「おい。おい。おいって。起ーきーろ!」

 そう思っていると、頬を叩かれる感触がした。徐々にその力を感じ、顔をゆがめる。

「もー。早く起きろってば。死にたくねぇんだろ?」

 うるせぇ。さっきの男か。死ぬときくらい、安らかに死なせてくれよ。

「ったく、仕方ねぇな……斧田澪! 起きろ!」

 脳にビリビリとした刺激を与えるような怒声が聞こえ、俺はハッと顔を上げた。

「え?」

 体が軽い。痛みを感じない。視界も良好だが、目の前の景色を捉えて脳内で理解するには難儀だった。

 霧が漂う世界は、荒れ果てた大地。森林はなく、とにかく空気が渇いていて、砂埃が舞っている。

「おう。おはよう、ねぼすけ」

 横に立つ男は、真っ黒な服。だが、なんとなく現代っぽくない。

 黒い詰め襟シャツの上から黒い羽織、その上からサポーターみたいなベルトをしていて、袖をまくっている。黒袴に黒いブーツといった格好。

 髪型はクセが強い黒髪で、鋭い眼光とシャープな顎が特徴的だった。

「説明はあと。お前が寝てる間に、エグいやつが来た。お前のせいだからな」

「は? なんだよ、それ」

「あれ、見てみ」

 男がすっと長い人差し指を前方に向ける。

 霧があり、俺は目を細めながら見つめた。霧の向こうに、何かうごめく物体がある。それが蔓だと分かるのに時間がかかった。触手のようにうねっていて、気味が悪い。

 そいつは砂埃を巻き起こしながら移動していた。

「植物?」

「ただの植物じゃねぇ。業魔イルだ」

 イル。馴染みのない言葉が出てくる。そんな植物があるのか。

 男は舌打ちすると、手に持っていた長い棒──大太刀の柄を握った。

「レイ、お前を運びながら、あいつと殺り合うのは無理だ。だから、せいぜい死なねぇように、逃げろ」

「はぁ?」

 意味分かんねぇ。そう思っているのもつかの間だった。

 金属をこすったような甲高い悲鳴が聞こえ、俺は耳を塞いだ。胃の中がひっくり返りそうなほど気持ち悪い音とともに地響きが起こる。

 砂埃が舞い、ダンプカーでも襲ってくるんじゃないかと思うほど、巨大な物体がこちらへ走ってくる。そう、走ってくる。黒く長い蔓をしげらせた球根が根を張りながら近づいてくる。目がないくせに、確実にこちらを狙っていて、その蔓を振るおうとする。

 男はまっすぐにそれを見据え、次の瞬間、素早い動きで飛び上がった。大太刀を振り上げ、蔓を切り刻む。

 蔓がのたうつ。球根は怒るように蔓をみだりに振り回した。それをも男は軽々と避けて飛び、宙返りしたかと思えば、大太刀を振るった。

「レイ! ぼさっとすんな!」

 呼ばれてハッと我に返る。

 頭上に飛び散る蔓が鼻の先すれすれに落ち、地面に食い込んだ。これをまともに食らっていたら死んでいたかもしれない。一歩遅れて後ずさり、この異常な光景にようやく体が順応した。

 走る。安全な場所を探す。逃げる。

 息を切らして走っていると、自分の怪我がまっさらな状態になっていることに気がついた。

 いや、考えるのは後だ。今はとにかく、あれから逃げる──

 しかし、安全な場所というのは、この荒れ果てた大地に存在はせず、とにかく身を隠す場所がない。あっても頼りない岩だけで、そこに身を隠しても安心はできなかった。

 走る。息が荒れていくと、あの夜のことを思い出した。

 学校から帰ると、親がいつものようにケンカしてるんだろう。そう思っていた。

 その日は、彼女と『オモテとウラ』の話をしたあとで、幾分か機嫌が良かったから、まっすぐ家に帰るより、公園で寝るほうがいいなと思っていた。しかし、母から帰宅命令が下り、仕方なく家に帰ったのだった。

 そして。

 帰るなり、何かを飲まされた。睡眠薬だったんだろう。

 意識を手放してから次に目を覚ますと、そこは車の中だった。横には詩意もいた。同じように眠らされていて、俺は驚いて運転席と助手席に座る両親に聞いた。

『どこ行くの?』

 答えない両親。そのただならぬ気配に寒気がした。

 車のドアを開けて外へ飛び込もうかと考えたが、そんな勇気がなかった。

 やがて車は山奥へと入っていき、父の荒っぽい運転がさらに荒れた。タイヤが壊れそうなほどガタガタの道を行けば詩意も起きて、俺の服を掴んでいた。

『澪、ここどこ?』

 詩意は怯えていた。俺は答えられず、代わりに両親へ問い詰めた。

『おい、どこ行くんだよ!』

 すると、車は急停止した。

 両親が窓に目張りをし始める。

『父さん、母さん! なぁ! 何するんだよ!』

 答えは聞かずとも分かった。けれど、認めたくなかった。

 両親は顔面蒼白で、ドアを開けてトランクから何かを出す。そして、俺たちが乗る後部座席のドアを開けた。その瞬間、俺と詩意は外へ飛び出した。

『待ちなさい!』

 母の金切り声がする。

『あなた、澪と詩意が!』

 俺たちはとにかく山の中を走った。走る。逃げる。草木をかき分けて、とにかく見つからないような場所へ逃げる。途中、詩意がころんだ。その時だった、父が詩意の髪の毛を引っ張った。

『澪! 澪! 助け……助けてぇっ!』

 詩意が父の手で引きずられていく。父は刃物を持っていた。

『澪! お願い、助けてぇぇっ! やだ、やだ、お父さん! やだ! やめて!』

 俺は呆然とした。詩意の叫びが、だんだん苦しみを帯びていき、そのうち聞こえなくなっていった。不気味な静寂のせいで、俺の足はもう動かない。

 詩意の声が聞こえなくなってからすぐ、父の影が現れた。

『父さん……』

 何も言わない父。いや、何か言っていたかもしれない。けれど、耳に入ってこない。

 腰が抜けてしまい、でも逃げようと必死に足をばたつかせる。

『父さん、やめて……!』

 情けないことに、詩意と同じ言葉を繰り返した。

 刃物が振り下ろされる。サクッと肉が裂ける音が頭から離れない。

「……レイ」

 気がつくと、俺は岩の影にうずくまっていた。

「ごめんなさい……父さん、ごめん。逃げて、ごめん。だから、だから、こ、殺さないで……」

「おい、レイ。しっかりしろ」

 肩を掴まれ、頬を叩かれて、ようやく気がつく。

 男が呆れた目で俺を見下ろしていた。

 大太刀からドロっとした黒い液体が流れ落ちる。それを凝視していると、男は大太刀を地面に突き刺して、しゃがんだ。

「まぁ、混乱するのは分からんでもない……が、お前を殺すは、この世にはいねぇよ」

 真っ黒な瞳に覗かれ、震えがだんだんおさまっていく。

「ま、殺しても死なねぇけどな、ここでは」

「え?」

 聞き返すと、男は目の前に、大人の腕ほどはある黒い根っこをぶら下げた。

「これが業魔イル。この世界にはびこる悪いやつ」

「……はぁ」

「これらがうじゃうじゃいるし、こいつらを倒していかなきゃなんねぇ。そういう世界だな、ここは。さながら、この世のウラ側といったところか」

 この世のウラ……。

 俺はすがるように、男へ聞いた。

「この世界は、なんなんですか?」

 すると、男は口の端をつりあげて笑った。

「異界都市。そう呼ばれている。なんつーか、現世と彼岸の境目ってやつかな」

 俺は目をしばたたかせた。反応に困る。

 しかし、男はこの反応に慣れたように、構うことなく後を続けた。

「んで、俺は異界都市局のモンだ。迷子課業魔対策執行部所属、名前はハチ。蜜蜂の蜂。それがここでの名前」

 男──ハチは、長ったらしい肩書を噛まず、なめらかに言ってのけると立ち上がった。

「レイ。お前はこの世に足を踏み入れた。自分の意思でな。だから、お前にはこの世での生き方を教えなくちゃならねぇ。お前はいわゆる迷子だから、局員の俺が担当し、お前を然るべき場所へ届けてやる」

「然るべき場所……? それは、なんですか? 元の世界に戻してくれるとか?」

「まぁ、いずれはそうできたらいいよね」

「いずれ? できないんですか?」

「そう急かすなって」

 ハチはうるさそうに言った。

「とにかく、本部へ行こうぜ。こんなとこにいたら、また業魔イルに襲われる。お前はぜんぜん、ダメダメだから、すぐ食われちまいそうだし」

 ハチは俺の困惑を無視してペラペラ話した。

 説明が足りない。でも、何から質問すればいいか分からないので、とにかくこの男に従っておこうと思う。

「あ、そうだ。お前、ケンカできる?」

「え?」

「ほら、現代っ子だろ。ケンカくれぇできないと、局の連中とやってけないからさぁ。みんな頭おかしいの。お前、見た目が優等生くんだし、絶対すぐナメられっから」

「えぇ……」

 失礼なやつだな、と思うが、まぁ、見た目が優等生っぽいのは自覚している。

 学校の制服のままで、半袖白シャツと灰色のスラックス。髪型は多分、今はかなりボサボサだろうけど、普段はサラサラストレートだし、メガネでもかけたらひ弱でヒョロい男子高校生である。

 ハチは少し俺から離れ、両腕を広げた。

「一発、俺を殴ってみろ。本気でこい」

「いや、見ず知らずの人間を無条件で殴るのは、気が進まないんですけど」

「そう言わずに。んじゃ、俺が殴ってやろっか? そしたら、やる気になる?」

「やだ。もう痛い思いしたくないです」

「んじゃ、いいから、さっさとこい。ほら」

 こいつ、頭おかしいんだろうな……。

 さっき、自分でも言ってたもんな、局の連中は頭がおかしいって。でも、そのネジのハズレ具合は、嫌いじゃないし、むしろやりやすいかも。

 俺は拳を握り、力を込めてハチの顔面を狙った。

 固い肉を弾くような衝撃が、腕に伝っていき、神経が張るような心地よい痛みを感じる。

 ハチは横へと倒れ込んだ。

「あ、やべぇ。思いっきりやっちゃった」

 だって、受け止めると思ったんだ。まさか、本気で殴られてしまうなんて、思いもしなかった。

 まぁ、『こい』って言ったのはこの人だけどさ。

 ハチは目をつむっていた。

「あの、ハチ、さん……? 気絶してる?」

 ムカつくから殴るのとはわけが違うので、うろたえてしまう。

 おそるおそる顔を覗き込むと、ハチは唐突に目をカッと見開いた。

「ははははははっ!」

 笑い声を上げる。俺はその場で尻もちをつく。

 やべぇ、本当におかしいヤツだった。

「あー、それだけできれば大丈夫だろうな。うん、うまくやってけると思う」

 ハチは頬をさすりながら、スクっと起き上がった。

「いってぇ。久しぶりにいいの食らった……何年ぶりだろ。いや、ノウさんにやられたのが、昨日だったかも。分かんね。もうここにいたら時間の概念が死ぬ」

 そうブツブツ言うと、ハチはあっけにとられる俺を見た。

「よし! んじゃ、本部に行こうぜ」

「あ……はい……」

 ハチが地面から大太刀を抜いて鞘におさめ、歩き出す。

 その先に何があるのか、まったく想像ができないが、俺は一抹の不安を感じずにいられなかった。

「あ、腹減ってね? メシ食ってから行くか」

 唐突にハチが愛想良く言う。

「え? ここ、メシ屋があるんですか?」

 ある気がしないので、つい素っ頓狂な声を上げた。

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