第7話 『仕返し』

 朝目が覚めると十時だった。沖縄にいたころこんな事はなかった。朝はちゃんと目覚まし通りに起きて、皆勤賞をもらうほど真面目に学校に通っていた。


 それが今日はどうしてしまったんだろう。うまく起きられなかった。それに学校に行く気が起きない。もう二時間目が始まってしまってるんだからサボってる事になる。それでもベットから身体を起こす気にはなれなかった。さっき寝返りを打った時に驚いた。身体の節々が痛くてぎしぎしいっている。理由ははっきりしている。あの忌まわしい昨日の事件だ。ジャスパー達に手足を縛られ長い距離無理やり引きずられ、リンクの寒いエイチのロッカーに半裸にされて閉じ込められた。なんとも無いはずが無かった。学校をサボってしまう事に罪悪感を感じさせないほどマチの心を憔悴させ、尋常じゃない精神状態にさせてしまったのも全て昨日のせいだった。


 マチは頭がぼーっとして何も考えられなかった。そんな中いつまでも浮かんでくるのはあのエイチの顔だった。

 もの凄く怒っていた。一つも笑ってなくて・・・でも、なんでなんだろう。あの時ロッカーを開けてエイチは私を笑い者にするはずだったのにそうしなかった。ジャスパーが望んでいた通りになると思ってたのに。エイチは誰にも見られない様にロッカーを閉めて皆がいなくなってから質問攻めにしたわ。その結果、Sにもあのひどい格好を見られずに済んだし、他の部員からも笑い者にされずに済んだ。こんな私が自分のロッカーに入れられていたのがすごく恥ずかしかったのよね。

 凄く怒ってた。あんなに怒りを目に宿している人を見た事が無い。本気で怒ってた。ジャスパーは仕返しされるのかな?怖いわ・・・・その仕返しを思うと私はジャスパーじゃなくて良かったと思ってしまう。

 エイチはその辺の男じゃない。きっと仕返しも半端じゃない。想像もつかないけど。さすがに彼女を救おうとは思えない。あんなにひどい目に遭わされたんだもん、当然よね。

 マチは一点をじっと見つめて考えた。そしておもむろに起きあがると、痛む体を押して制服に着替え始めた。

「――――やっぱり行かなきゃ。ジャスパーが私なんかよりひどい目に遭っちゃうかもしれない」

 マチはゆっくりと寮の部屋の扉を閉めて学校に向かった。

 ロアンナはどうしているかしら?

 心配だわ・・・・



 学校に着くとマチは大きなため息をついた。復讐に駆られるエイチが巻き起こす惨事を思うと猫の様に背中が丸まった。

 しかし、想像とは逆に校内は静まり返っていた。いつもと変わらない雰囲気。何も起こっていなかった。考えてみればあの事件はジャスパー達とエイチとマチしか知らないのだ。

 騒ぎにならなくて当然なのかしら?なんだか納得できない。怒り心頭で復讐に燃えるエイチがこんなに静かにしてるかしら?それにジャスパー達が騒いでないのもおかしい。大騒ぎしてるはずでしょ?私に大恥を掻かせてリストから追い出すのが目的だったんだから。ジャスパー達はどこにいるのかしら?私がこんな時間に来たのが遅すぎたの?騒ぎが収まった後?それにしては静かだわ不気味な程。

 ゴーン、ゴーン――・・・

 三時間目の終わるチャイムが響いた。教室までの道のりマチはハラハラしながら下を向いて歩いた。廊下に出てくる人々の反応をちらちらと見ては何を言われるか、どんなふうに嘲り笑われるのか身構えた。おかしい。やっぱりいつもと変わらない。

 みんな私を無視して通り過ぎるだけ。指差す人もいなければ、大声で馬鹿にする子もいない。

 教室に入ると、ロアンナが一早くマチを見つけ近寄って来た。

「どうしたのよ!心配したわ。風邪?」

 ロアンナはマチが午前中、授業を無断欠席したのを心配して駆け寄って来た。マチはロアンナの表情をじっくり観察した。

「ロアンナ・・・それだけ?」

 ロアンナは何を言われたのか良くわからなかったらしい。

「え?私、何か変なこと言った?三時間も授業に出ないなんてどうしたのかと思って、先生も連絡受けて無いって言うし」

「やっぱり・・・心配してくれて有り難う。でも、その、昨日私に起きた事件、あの、何か全然知らないの?」

 マチは他の誰にも聞こえないように小声で話した。

「――――事件?マチ、何かされたの?」

 ロアンナも小声になる。物凄く心配そうにロアンナはマチの顔を覗きこんだ。

 本当に知らないんだわ・・・・ロアンナはこう見えても色んな情報に敏感な方だし、あんな事件が広まっていれば絶対私に飛んで来てくれるはず。



 ジャスパーはいつもつるんでいるエリーとフランソワの二人には突然エイチに食事に誘われた事を自慢した。


 今朝、校内が騒然としていると思ったのに誰も騒いでいなかった。おかしいと思ってホッケー部のロッカーに昨日の監禁の痕跡を探しに向かった。そこで偶然にも憧れのエイチにばったり遭遇した。

「エイチ!昨日、ロッカーで何かあったみたいだけど?」聞いてみた。

「さぁ?何のことだ?」

 エイチは何も知らないみたいだった。

 あの女、自力で這い出したのね!忌々しい!

 そして思ってもみない事が起きた。エイチが食事に誘ってきた。


 他の人には今は言わない。邪魔されでもしたら大変だもの!明日たっぷりチアのリカに自慢してやるんだから。何年もエイチを追い掛け回しているくせに未だに振りむいてもらえないあのリカに!

 三人はB棟のトイレに入って化粧直しをしていた。

「でも、理科室棟なんて変なところで待ち合わせなのね」

「きっと、他に見つかると騒がれるからじゃない?」

「そうよね、エイチを想ってる人なんて大勢いるんだから。本当にやったわね!ジャスパー!」

「ええ。有り難う。良いデートになりそうよ!」

 ジャスパーの顔はいつになく血行がよく赤みを帯びていた。

「でも、驚いたわね、あの子が自力でロッカーから這い出してたなんて。頭に来るわ」

「でもそのお蔭で私は彼と話せて、食事にも行ける事になったのよ?彼女のお蔭よね!」

「あはははははははは!」

 笑いが止まらない。ジャスパー達三人は化粧室を出た。口紅はシャネルの秋の新色。美しい顔立ちが際立って見えた。

 

 エイチとの食事。あのエイチに食事に誘ってもらえるなんて!デートに誘ってもらえるなんて! 憧れのエイチとデートよ!

 ジャスパーは有頂天になっていた。


 B棟を壁伝いに進んで行くと小さな広場があり、薔薇やコスモスに似た花が沢山植わっている。その小園を抜けると大きな石で造り上げられた古びた建物が現れた。

 丁度B棟の影になっていてよく見えない。壁は古い大きな石が積み重ねてあるので目地のところにコケが蒸し、屋根には沢山ツタが這っていた。

「ジャスパーうまくいくと思う?」エリーが言う。

「あのハンドクルーに誘われたのよ?すごい事じゃない!彼、本気かもよ」

「でも、エイチは昔から特定の女を作らないので有名よ。いつも適当じゃない」

「ジャスパーは美人だし、きついとこもあるけどエイチはああ言うのがたまらないとか?」

「エイチがマゾには見えないわ!」

「それにしても、チアのリカが物凄くうらやむわよ!ずっと追い駆けてばっかりなのにエイチが食事に誘ったのはジャスパーなんだから。バトミントン部万歳ね!あははははは」

「どこかに隠れて見てましょうよ!」

「賛成。すぐ行きましょ!」

 二人は大きなモミの木の影に移動し、西口で待つジャスパーを見た。

 それからまもなく経った頃だった。ふらっとどこからともなくエイチが現れた。部活の途中で来たのか濃紺にホワイトとグレーのラインが入ったスウェットを上下に着ている。

彼が来るのを待ちわびていたジャスパーは、それを見て聞いた。

「あらエイチ!これから食事に行くんでしょ?早く着替えてきて?」

 エイチはそれには答えずジャスパーの横を通って無表情のまま言った。

「ついて来いよ」

 一人でずんずん歩き始めた。

 しばらく歩き続け、二人はどんどん理科室棟の奥に進んで行った。壁の蔦が繁茂して緑が深く益々薄暗くなった。

「ねぇ、エイチ、どこに行くの?」

「お前に見せたいものがある」

「え?」

 不思議がるジャスパーを振り返りにニッとエイチは笑いかけた。憧れのエイチを目の前に浮かれているジャスパーにとってこの笑顔に隠されている本当の意味を読み取れる冷静な判断力はなかった。

 急にエイチが立ち止まった。小さな池に掛かった木製の細い橋を渡っている時だった。

ジャスパーは『はっ!』とした。

 我に返ってこの状況を見渡した時にはすでに遅かった。

 エイチは食事に誘ったはずだった。スウェット姿で現れたことがそもそもおかしいと疑えばよかった。それにこの薄暗い理科室棟に女の子を待ち合わせに誘うだろうか?罠だ。自分は罠にかかったのだ。気付いたのが遅過ぎた。この後起こることをジャスパーは考えると身体が固まった。心臓が恐怖で縮む。

 どうして気づけなかったの!このひどい『臭い』に!

 エイチは細い橋の上をバランスよく振り返りジャスパーの腕を取った。そしてジャスパーの耳元に近づくと低い声で言った。

「なんで、あの汚いネズミを俺のロッカーに入れた?」

「!」

 やっぱりマチは入ってたのよ!エイチはそれを見つけたんだわ!じゃあなぜ周りは騒がなかったの?

 ジャスパーは真っ青になった。いつも遠くから憧れていたエイチは間近に見ると身体が大きく見たことも無いような冷たい凶暴な目をしていた。

「俺を馬鹿にしたな?上等じゃないか!」

 ジャスパーは震えた。エイチに強く握られた腕のせいで足元がつま先だちになっている。

 ここは池じゃない。池に見えても張ってあるのが水じゃないのだ。そう、ここは『肥溜め』メインの敷地全体の植木と言う植木を支える栄養原の溜めてあるところだった。秋に用務員が集めに集めた校内中の落ち葉、枯れ草、飼育されている動物達の糞尿、その他にも肥料になりそうな物は全部集めて池に沈める。

 エイチの青い目が見る見るうちに意地悪く輝き、ジャスパーを刺すように見た。

「仕返しだ。受け取れ」

 腕が離されるとゆっくりジャスパーの身体は吸い込まれるように池に横になった。

 ドブンという醜い音と共にジャスパーは強烈な悲鳴を上げ池に落ちた。

「ぎゃあああああああ!」

 牛の糞、ヤギの糞、馬の糞。腐った大量の落ち葉。物凄い匂いを発している。ここ数日間で完璧に仕上がった堆肥は表面に一枚膜を張っていたせいでこれでも匂いが大分落ちついていたのに、ジャスパーがもがきながら落ちたせいでその膜が破かれ、中に閉じ込められていたガスが一斉にそこら中に充満した。どこからとも無く大きな銀バエが現れ始めた。そして助けを呼ぶジャスパーに直ぐに群がった。このままではジャスパーは『ハエの王』にでもなりそうだった。

 エイチはそんなジャスパーを横目にチラッと見ただけですたすたと橋を渡り理科室棟の脇の道路に降り立った。そして思いっきり愉快そうな顔でジャスパーを見下すとグランドの方に向かって指笛を強く吹いて叫んだ。

「おい!来いよ!肥溜めに落ちたバカがいるぜ!見てみろ!」

 呼ばれたのはランニングをしていたホッケー部員達だった。その他の陸上の練習をしていた生徒達も興味津々で走って寄ってきた。一斉に人だかりが出来た。皆が鼻をつまんでいる。

 くさい肥溜めに落ちた女!

 女が肥溜めに落ちてるぞ!

「誰だよ!あのバカは!」

 ぎゃははははっ!ホッケー部員達が全員集まって一斉に下品な笑い声を立てた。彼らの声は大きい。直ぐにその声が野次馬を誘う。

 植木の陰に隠れていた二人のバトミントン部の仲間が現れ「ジャスパー!」と叫んで助けようとした。「助けて!早く!」もがけばもがくほど、深みにはまり匂いも充満した。二人は助け様としたがその匂いの凄さに思わず手を引っ込めた。

「何してるのよ!早く手を貸してよ!」二人は罵声と野次の中、困り果ててジャスパーの側に立ち尽くすしかなかった。なかなか手を差し出そうとしない二人に怒りが湧いたジャスパーが聞き取れないほどひどい言葉で罵り、その姿が更なる笑いを呼んであたりがうるさくなった。


 ジャスパーは卒業するまで肥溜めに落ちた女として語り継がれるだろう。元はと言えば自分が悪いのだ。今更反省しても遅い。そして反省できるようなら自分の不運をマチに当たったりしなかっただろう。この時点で彼女は選抜試験に二百%落選していた。糞尿に浸かった女がマネージャーになることを部員達が許すはずが無かった。


 エイチは満足そうに笑うと監督が戻ってくる時間に間に合う様に軽いジョギングでリンクに戻った。その足取りは軽く実に軽快だった。

 しかし、悪魔の様なこの男はその頭でさっき起きた事を思い出しながら自問していた。

 こんなもんじゃ足りなかったか?


 

 外は薄暗く、雲が出て星も月も見えない。マチとロアンナはすっかり意気消沈してとぼとぼと歩いた。ジャスパーに起きたことは直ぐにSNSで拡散してマチやロアンナの耳にも届いた。

 本当はマネージャーになんてなりたくない。しかし、マチには選ぶ道が無かった。

 もし、ここで諦めればカナダの冬を前に家を無くし凍え死ぬ羽目になる。生きるためには戦うしかない。

 これは遊びじゃない。

 命がけの――――――戦争よ!

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