二〇二一年・雲間から

 本当は、やらせてくれるのかなって思ったんだ。

 翌朝、大月は笑ってそう言った。

 でも泣いちゃったから、そういうのは駄目だろって思って。

 皐醒も笑った。誰かと一緒にお風呂に入って、セックスしなかったのは生まれて初めてだよ、って。

 その日から、六畳と四畳半、和室が二つ繋がったアパートが、蒔田皐醒の仮住まいとなった。

 二階建て全八室のアパートで、どの部屋も同じ間取りであると仮定するなら、上京して独り暮らしを始めて、東京での二つ目の住まい、あるいはそこそこ歳の行った単身赴任、それともまだこどもが小さい夫婦、息子も娘ももう独立したので大きな家は手に余るようになってしまった老境の二人……、想定される住民のバリエーションは多岐に渡り、住み始めた日にその想像の通り、色々な種類の住民たちの姿を、一〇一号室、つまり公道からこのアパートの敷地に入って左手側最初のドアを開けたところにある六畳間の窓から見ることが出来た。

 大月が「どうかどこにも行かないで」と懇願の言葉を残して出て行ってから二時間ほど経過した午前十時、無為にぼうっとしているのはあんまりだと思われて、洗濯をした。二人分のパンツや靴下を干しているところに通り掛かった老夫婦は、皐醒の姿を見て一瞬「おや」という感じに顔を見合わせてから、品のいい会釈を寄越した。

 午後になって雲行きが怪しくなって、遠くから雷の音まで聴こえてきた。季節外れの夕立だろうかと洗濯物を取り込もうと窓を開けたら、幼稚園の園服らしいクリーム色のスモックを着た女の子が「まにあったー!」と大きな声で言いながら、若い母親の手を引っ張って歩いているところだった。ぽっちゃりして色の白いお母さんは「間に合ったねえ」と応じながら汗を拭く手を止めて皐醒を見た。驚きを顔に行き渡らせてから、すぐに取り繕って「こんにちは」と挨拶をくれた。皐醒が同じ言葉を返そうとしたそのときに、空に光が閃き、地響きのような雷鳴が邪魔をした。「ママー、はやくー!」という女の子の声に引っ張られて、二人が見えなくなってからまもなく、少し離れたところで玄関のドアが開き、閉まる音がした。

 前髪の長い男の子と、恋人の女の子が住んでいる部屋、という認識は、他の住民たち皆が持っているのだろう。ワンルームマンションだったらどうか判らない、……事実として、幸太郎の部屋に間借りしているころは、両隣の住民の顔も皐醒は知らなかったのだが、ここでは横の付き合いもそこそこあるようだ。ひょっとしたら大月の恋人だった女の子は、あの老夫婦や若いお母さんや女の子と多少のコミュニケーションをしていたのかもしれない。そんな一〇一号室に、唐突に見知らぬ男がやって来たのだから、しかも大月の下着を干して取り込むのだから、はて、何者だろうかと訝しく思われたとしても仕方がない。

 何者に見えるだろう?

 少なくとも恋人同士には見えないだろうし、わざわざそう見せようという気も皐醒にはなかった。存在している時点で大月の負担になってしまうことは避けられないので、表面積と体積以上にならないに越したことはない。

 それにしても……。

 皐醒はなんだかまだ夢の中にいるみたいな気持ちである。

 家の中のもんは何でも好きに使っていいからね、あとお昼ごはんは冷蔵庫の中に色々入ってるから。夜はまた弁当どこかで仕入れてくる。だから、お願いだから、どこにも行かないでね……。大月に言われるまま、昼は冷蔵庫の中でもうすぐ賞味期限を迎えそうなうどんが一玉残っているのを見付けて食べた。しかし、それ以外は水しか飲んでいない。

 昨日の朝は、幸太郎のマンションの台所で目を覚ましたのだ。身体中の骨同士が、ちょっと扱いを間違えたならたちまちばらばらになってしまうのではないかと思うぐらいに軋んで痛んで、肌のどこかしらを破いて突き出すことになってしまってもおかしくないとさえ思われた暗闇の中、思考で彷徨い、翔大の砕けた顔を思い出し、脳の自由を絶望に費やしていた。

 いまではその余韻もない。身体のあちこちに青痣が浮かんでいたが、それらはそのうち消えるだろう。

 皐醒はだって今朝、四畳半に置かれたセミダブルベッドで目を醒ましたのだ。大月の隣で、……そして誓って言うが、大月の元彼女が置いていった黄色いパジャマの上下を、ボタンだって襟元の一つ以外は全部外さない状態で目を醒ましたのだ。元気な身体に決まっている。

 前夜、どんなに「床で寝る」と言っても聞き入れて貰えなかった。なかなか寝付けないはずだと思っていたのに、ふんわりと人間のにおいのする布団に包まって具合のいい枕に頬を委ねた後の記憶はもう全くない。はっと気が付いたらすっかり朝の顔の大月に目やにの付いた顔を覗き込まれていて、「コーヒーと紅茶とどっちが好き?」と問われたのである。

 もしいまもあの部屋にいたなら、どんなことになっているんだろう? 皐醒は洗濯物の暖簾越しに、窓を打つ雨を降らせる空を見上げた。

 大月くん傘持って行かなかったな……。

 彼はいま、夕方まで配送センターで仕分けのアルバイトをして、それが五時に終わったらあの、自転車配達員。想像しやすいことだが、雨の日の方が忙しいはずだ。でも、自転車がスリップして転んだり、視界が悪くなって事故に遭うリスクも高まりそうだ、……大丈夫かな。

 誰かの身を案じるぐらいの余裕が、皐醒の中にはあった。言うまでもなく大月の垂らした蜘蛛の糸によってその高さまで引き上げられたのである。

 お釈迦様みたいな人だと皐醒は大月を思う。だからこそ彼を不幸せにしてしまうわけには絶対に行かない。

 背中を丸めて雨降りを見上げ恨んでいる時間に終止符を打つ力も湧いてきた。スマートフォンをちゃぶ台に乗せて正座する。もちろん、幸太郎からの電話は着信拒否にしてあった。……もちろん、とは言うが、大月にそうするよう薦められてからずいぶん迷ったのである。しかし、最終的には皐醒は素直に従った。そうでなければ一体どれほどの着信が重なっていたことだろう?

 この期に及んで皐醒は、幸太郎が何か罪を犯すことを恐れていた。そこまで馬鹿ではないはずだけれど、正直、倫理の面で信頼が置ける相手ではないことは、パートナーであった以上、皐醒が一番よく判っている。

 ロックを解除しては、皐醒がなかなか操作しないものだから眠りに落ちてしまうスマートフォンを三度起こして、更に深呼吸を二度挟んでから、とある番号に発信する。呼び出し音二回の間に、数えきれないほど「やっぱやめようかな」と思ったが、蓄積する躊躇が逃走行動に変わる前に、向こうが電話に出てしまった。

「あ……、ご無沙汰してます、えーと」

 あちらのスマートフォンには当然こちらの名前が表示されていたはずである。けれど大月が「皐醒くん」と呼ぶこの名前ではない。

 困ったことがあったら力になるからいつでも掛けてきなさい。

 宿木橋を離れるとき、皐醒を抱き締めてそう言ってくれた人だ。

 しかるに、幸太郎と暮らし始めて以降、急激な勢いで転落していく期間には一度も連絡しなかった。落っこちていく皐醒には、皐醒自身の体重のみならず重力加速度までもが乗っかっているのだ。彼は皐醒よりは背が高く、細身でありながら「喧嘩で負けたことは一度もない」そうだが、それでも差し伸べられた手を掴んでうっかり巻き込んでしまうことは避けたかった。

 こうして地獄の底から蜘蛛の糸に引き上げられた末でなければ、皐醒には電話の一本も掛けることは出来なかったのである。

「……これは驚いた。本当に君か」

 穏和な声が、嬉しさに華々しく彩られた。「久しぶりだね、美しい人」

 彼は皐醒を、彼しか呼ばない名前以外に、そう呼ぶ。これだって、彼しか呼ばない。都合二つの名を皐醒は彼に授けられたに等しかったし、どちらもわりとお気に入りだ。ただ、美しい人はどう考えたってあなたの方でしょとも思っていた。

「ごめんね、ずっと電話しなくて……」

「また発音が良くなったようだ」

「そうかな。ずっと喋ってなかったから下手になったって言われたらどうしようって思ってた。老師は元気?」

「無論、元気だとも」

 彼は皐醒の「老師」だった。具体的に言えば中国語の。

 蕭凱龍、という名前の人である。あちらの言葉で読めばシャオ・カイロン、こちら風に読むならショウ・カイリュウ。

 皐醒が大学に、まだまともな学生として通っていたころ、第二外国語で選択したのは中国語だったのだが、ずいぶん苦戦した。日本語の話せない彼との初対面で、……正直なところ、綺麗だけどちょっと怖そうな人だなとは思ったのだけど、覚えたての「私は中国語を勉強しています。しかし、なかなか上達しません。もしよかったら、私を助けてくれませんか」というフレーズを勇気を出してぶつけてみたら、にっこりと微笑んで応じてくれて以来の仲である。

 とても、とてもとても美しい人だ。烏の濡れ羽色ってこういう色かぁ、と思う深い黒髪は癖なく長く背中まで下ろされていて、かっちりとしたスーツや上背を見てもなお、女性である可能性を否定出来ない。目はあくまで静かで穏やかであり、特に皐醒は彼の指が好きだった。だから、危地に差し伸べられたとしても、乱暴に掴むことなんて出来やしなかった。その指は、竹で出来た伝統の横笛に素晴らしく美しくて、また物哀しいメロディーを奏でさせるために在る。

「長いこと連絡しなくてごめんなさい」

「構わないよ。便りのないのは良い報せとも言うからね」

 実際には、相当にろくでもない目に遭っていたのだが……。

「実は……、老師に相談したいことがあって」

 仕事を探している、と皐醒は正直に打ち明けた。宿木橋にいたころ付き合っていた人と別れて、でも、違う人のお世話になっているのだけど、いま俺は仕事をしていなくて、彼の暮らしを支えるために、出来ることは何だってしたいんだ……。

「でも、今の宿木橋で働くのはきっと難しいっていうのは分かってる」

 最後に皐醒はきちんと付け加えた。老師が重々しく頷く気配が伝わってきた。

「その通りだ。間もなく夜の営業が再開出来ることにはなるだろうが、まだ当分は感染状況を見ながら探り探りということになるだろう。……しかし、君の働いていた店は?」

 それは、ちょっと……、言葉に詰まった皐醒に、「そうか。何か事情があるのだね」と老師は察してくれた。

「では、……そうだな、皐皐」

 本当は、皐醒と四つしか歳が離れていない老師は、幼児を呼ぶときのように皐醒にそんな愛称を授けてくれた。

「君はパソコンに詳しかっただろう。私のスマートフォンの設定を全部やってくれたことには感謝してもしきれない」

「あんなのは誰でも出来るよ……。でも、うん、パソコンはまあ、得意な方」

「このところ、私は画面に向かって仕事をする時間が増えている」

 えっ、と思わず声を上げてしまった。老師はスマートフォンでさえ、「指先から魂を吸われている気がする」なんて言うほど苦手意識を持っていたのに。美しい横顔をひきつらせて人差し指でぽちぽちやっているところを想像して、失礼ながら込み上げてきた笑いを噛み潰す。

「笑っているのだな、皐皐。まあいい、私自身も不慣れで似合わぬことをしているという自覚はある……。恥を忍んで言うとだな、君が私の『老師』になる番が来たということだ」

「でも、俺はあなたに老師になってもらうとき、一銭も払ってないよ」

「構うものか。私はこの国で、生まれた国の言葉を舌に乗せて甘味を味わう喜びを君から貰った、それだけで十分だとも。そしてね、私の方が君よりも多少はお兄さんなのだから、代価を払うのは当然だ。まあ、あまり多くは払えないが」

 老師は、都内屈指のゲイ・タウンである宿木橋界隈にいくつも店を持つ人物のパートナーである。マスターや中寉はその人物のことを「オーナー」と呼んでいるが、皐醒は彼が老師のパートナーであることを知っているので「丈夫」と呼ぶことにしていた。もしくは、苗字にちなんで、「ミスター・グリーン」と。老師は中国人だが、オーナーはどこだったか、ヨーロッパの方の国から出てきた金髪碧眼の、西洋人にしてはあまり背が高くなくて、老師より二センチだけ背が高いという事実をとても大事にしている。

 皐醒には詳しいことはよく判らないが、とにかくものすごいやり手であるらしい。五年ほど前に宿木橋に姿を表すなり、後に皐醒が働くこととなる『緑の兎』をはじめとするあちこちの店を買い上げた。それからというもの、宿木橋の治安がよくなったという話だから、端的に言って好人物なのだろう。

「丈夫は元気? あの人、いつもマスターと一緒に俺の悪口言ってたでしょう」

「それは君のことを憎からず思っていたからさ。君がいなくなって上之原と中寉の二人だけになったとき、彼は寂しがっていた。何か事情があるのだろうけれど、たまには君の声を聴かせてあげてやっておくれ」

 どうしても『緑の兎』の話になると、ちょっと胸が捩れる。そりゃ俺だって昔みたいに楽しくあの店で働ければいいけれど、……自分の気持ちを優先して降りてしまった後なのだ。

 と、電話の向こうで物音がした。

「噂をすれば影というやつだ」

「だれ? ……お前がそっちの言葉で喋る相手なんて一人しかいないか」

 聴こえてきた言葉のここまでは英語で、

「皐醒、珍しいね、元気にしてる?」

 これは日本語。「代わるよ」と老師の声がした。

「お久しぶりです、旦那様。仕事のできない俺です」

「うん。久しぶりにその声を聴いた。結婚したんだろう?」

 まだこの国ではそういう法整備が進んでいなくて、「原始国家じゃあるまいし」と悪口を言っていたくせに、悪い冗談だ。

「結婚して、離婚して、でもいまは別の人のところにいます。ああそうだ、旦那様も見たことがある人ですよ」

「へえ、誰だろう?」

「了くんたちのライブにいた、『ドアストッパーズ』のボーカルの大月くん」

 オーナーは少し記憶の糸を辿る時間を使って、「……ああ! あいつか。あの、前髪の長い子」と声を上げた。

「へえ、お前はああいう感じの子が好みだったのか」

「好みっていうか、……まだ付き合ってるわけじゃなくて、居候をさせてもらってるだけです」

 皐醒はきちんと、老師のパソコンの先生をやることになったと伝えたし、そう言えば当然「だったらあの店に戻ればいいのに」と返される。

「マスターと了くんには黙っておいてくださいね」

 オーナーは「あいよ」と軽く請け負ってくれた。

 電話を切って、

「ひとまずは、よし」

 と独り呟く。

 皐醒は自分の人生が暗いものであることを、かなり早いタイミングで予感していた。全体を見渡したとき、小学校五年生にもなって公衆の面前でおしっこを漏らすという経験をした人がどれぐらいいるのかは判然としないが、まああの時点か、あるいは女子の前でパンツを下ろされたぐらいの時期から、あ、俺ってすっごい不幸かも、と思うようになったのは当然だろう。

 もっと言えば、女子更衣室のロッカーに閉じ込められて自分の身体から漏れ出したものを下着と制服のズボンにこびりつかせて朝を迎えた末に、同学年の女子たちにその醜態を目撃されたことのある人間がどれぐらいいるだろう?

 同じ日に、目の前に恋人が落ちてきて死ぬ瞬間を見たことがある人間が。

 恋人の身体が砕ける音を聴いたことがある人間が。

 俺は幸せになれないんだな。

 それでも、生きていかなきゃいけないんだな。

 理解しないでいられた方がずっと幸せだということも理解した上で。

 父も母も最早いないに等しく、信頼できる人はごく僅か、……いてくれるだけで嬉しいし、彼らには自分の宿痾たる不幸が伝染しないでいてくれることを心から願うばかりだ。最低限、迷惑は掛けたくない。

 皐醒は自身の性格が悪いことも自覚していた。中寉への幼稚な嫉妬を抱いてしまうような自分が、心優しいはずもない。この性格の悪さもまた、自分の不幸の原因の一つである。だからと言って皐醒は中寉や上之原を不幸にしてやろうと思うことはないのだった。棘だらけの身体を縮こませて、じっとしている方が面倒臭くない。

 もはや皐醒には幸太郎の元へ戻る気力は失せていた。一方で、幸太郎の不幸には責任を痛感している。翔大がそうであったように、幸太郎もいつかは本来の優しい人格を取り戻してくれるかもしれない。……けれど、翔大がやはりそうであったように、そうなってなお自分が一緒にいたら、結局のところ彼が翔大と同じ道を辿らないとも限らないではないか。もしそうなってしまったら、皐醒はもう生きることに執着できなくなってしまうかもしれない。

 何より、自分の身体に生えた棘が、びっしり生えた棘が、間違っても自分に優しくしてくれた大月を害することなどあってはいけない。

 側にいて、と願われた。お願いだから、どこにも行かないで、と。彼がなぜそんなことを言ったのかは判らないが、一宿一飯の恩義以上に救われた気でいる皐醒は、彼の求めるままにいるべきだと理解する。それに甘えることなく、この身体は少しでも小さく軽くなければいけない。

 背中がじんわり温かい気がして振り返ると、雲間から陽が射していた。立ち上がって窓辺に寄ると、アスファルトには大きな水溜まりがいくつも、太陽に追い立てられて速いスピードで流れる雲を映し出していた。

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