アクアリウム

ニシダ(ラランド)

第1話

 都会の夏はビル風が強く吹いて涼しかった。

 家から程近いモノトーンで統一された清潔そうな病院に向かっているところだった。ずっと制服だったから、大学に入ってから何を着て良いのかずっと迷っていた。

 大学受験で僕は両親のお眼鏡にかなう学校には合格できなかった。父親はがっかりした様子だったが、理想通りに育たなかった僕を見放すように進学を勧めた。実家から通えなくもない距離だったけれど、大学の近くにアパートを借りる金も出してくれた。毎月一定の金額を口座に振り込んでもくれる。今の生活に不自由もない。

 結局チノパンに無地のTシャツを着ている僕は、都会の中で名前のない人間になっていた。原色のサマーニットを着たり、ピアスを開けるのに憧れてはいたけれど自分なんかにそんな資格はないと自重してしまった。高校生の頃も一人だと思っていたけれど、一人暮らしをするとより一人だった。家はあるけど、帰る場所がない。ホームシックなんかじゃあない。もし仮に友人や家族や恋人がそばにいたって、僕は誰からも隔絶されている。




 今日昼ごろ起きると、久しぶりに体調が良い気がした。果たして効いているのか分からない薬を飲み続けた甲斐があったのかもしれない。普段は見ることのないテレビを付けても、タレントの笑い声が鬱陶しく感じられなかったし、いつもは面倒臭いシャワーも浴びられた。夏休みに入る前にもう一度大学に行こうと思った。今学期ほとんど授業に出ていないけれど、今日行かなければもう二度と行けなくなる気がした。授業に出なくても良いから、図書館に行ってみるとか、校内のグラウンドでサッカー部の練習をぼんやり眺めてみるとか、とにかくキャンパスに入らなければと思った。

 

 他に行くところがないから、経済学部に行ったけれど学問に一切興味が持てなかった。人生で初めて好きになった女が色んな男と寝ているという噂が聞こえてきて、他人にも興味が持てなくなった。塾講師のバイトは自分より良い大学に通う同期たちが羨ましくなって辞めた。他人が怖いというより、他人と関わるたびに苛まれる劣等感に腹が立った。

 カウンセリングにも通ったけれど、担当の女性カウンセラーが色っぽく見えて、ふつふつと欲情を感じた。けれどカウンセリングが終わっての帰り道、ネットで彼女の名前を調べると一流大学を卒業したことが分かり途端に怒りが込み上げて、その女の首を絞める妄想をした。結局その一回行ったきり、二度と行っていない。多量に摂取すれば死ねる薬の用法用量を守って未だ生きながらえている。


 僕の部屋にはペットボトルや冷凍食品の包装、使うことのない教科書、しまい忘れた冬服などが散乱していた。部屋の中からまだ着られる洋服を探す。リュックサックは数日前に病院に行ってから、使っていない。背負うとやけに重く、飲みかけのペットボトルが入れっぱなしになっていることを思い出した。外には出られたのに、ペットボトルを取り出すのはどうにも面倒臭くて駄目だった。


 最寄駅から電車で二駅ほどで大学に着く。大学名を冠した駅名をアナウンスで聞くと急に、決意が揺らぎはじめた。電車が止まって扉が開く。僕の後ろに立っていたベビーカーを押した女性が、すみませんと言って通り道を作って欲しそうにしていたので、横にずれるくらいならと前に進んだ。なんにせよ電車を降りられた自分自身が尊かった。駅のホームの階段に向かう途中、前を歩く男子高校生の会話が耳に入ってきた。


「日本ってさ、海外に比べて街中のゴミ箱少ないらしいよ」


「へぇー、なんで?」


「昔バラバラ殺人があってさ、死体がゴミ箱に捨てられたんだって。その後撤去されたらしいよ」


 バラバラ殺人と聞いて、思い出した。

 指だ。

 ずっと忘れていた。なんで忘れていたのか、あれが僕の人生で一番刺激的な出来事だったはずなのに。思えばここ最近は昔を振り返ることすら無くなっていた。

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