第38話

 幸運なことに、そこからは流れるように話が進んでいった。


 千加さんの奢りで昼食を食べる僕に面接とも言えないような簡単な質疑応答をして、店長は「じゃあ明日からよろしく」と席を立った。


「お疲れ。よかったね、遥くん」


 肩を叩いて千加さんが労いの言葉をくれる。僕の人生初の面接は、呆気なく採用をもらえたらしい。学校にも行っていない人間がアルバイトなんて、自分でもどうかしてるんじゃないかと思う。けれどこの時ばかりは、彼方さんに会うため、という推進力が僕を動かしていた。

 千加さんの車から降りる直前、一応、保護者のサインをもらってくるようにと一枚の書類をもらった。あと、千加さんは仕込みの段階から手伝っているため明日からは自分で電車に乗って来るように、とも。

 どうやら交通費の補助もあるらしく、千加さんの方から給料の支払いも日給制にできないかかけ合ってくれると言ってくれた。そちらの方が日々のやりくりはしやすいので助かる。

 やはり、彼方さんとずっと一緒にいるだけあって、彼女の面倒みのよさには目を見張るものがあった。


「それじゃ、また明日ね」


 きっと自分も疲れているだろうに、そんな素振りは少しも見せずに千加さんは明るく言う。


「はい、また明日」


 僕は玄関先で、千加さんの車が見えなくなるまで手を振った。


 千加さんからもらった書類を渡して、夏休みの間だけアルバイトをしたい旨を伝えると、叔母もすんなりと了承してくれた。


「アルバイトかあ、いいなあ」


 憧れるような言い方をしながら書類に目を通す彼女に、つい口を挟みたくなる。


「おばさんもパート、やってるでしょ」


 僕が会話を続けるのが意外なのか、叔母はほんの少しだけ驚いた顔をした。でもそれは一瞬のことで、すぐに彼女の目は書類に戻る。


「やってるけど、そうじゃなくて。今の遥くんが働くってことと私が働くってことでは、全然眩しさが違うってこと」


 眩しさ、という言葉の指すところはいまいち分からなかったけれど、いつになく力強い口調になんとなく気圧された。


「とにかくさ、無理はしなくていいけど、一生懸命やってみて。応援してるから」


 サインを終えた書類を手渡しながら、叔母は最後にそう言った。僕は頷くことくらいしかできなかったけれど、きっとそれでいいのだろう。

 これからも、僕と彼女たちの関係が目まぐるしく変わることなんてない。そして、それでいい。

 『応援してるから』という叔母の言葉は、僕の背中を決して強引ではない力で押してくれた。少し前までは受け入れる余裕のなかったその優しさが、今は不思議と心地よかった。

 次の日、アラームよりも先に目が覚めた。起きた瞬間から血液が微かにざわめいているのを感じた。僕は自分で思っていた以上に、単純なつくりの人間らしい。

 焦燥感を落ち着けるようにのんびりと支度をして、結局は予定通りの時間に家を出て店に向かった。

 

「おはようございます」


 なんと言おうか悩んだ末、僕はそう頭を下げながら店の扉を開けた。店は仕込みの段階から既に忙しそうで、とても僕の挨拶に応える余裕なんてなさそうだった。


「あ、遥くん? ちょっとこっち来て!」


 千加さんの声が飛んできて、慌てて僕は彼女の元へと向かった。すぐにエプロンをつけるよう指示を受け、そのまま開店の準備を手伝うことになった。

 一時間ほど経ってから店は開いた。

 僕は主にオーダーを受けるのが仕事だった。千加さんと同じ配属にしてくれたのは店長の気遣いらしい。


「ああ、メニューの名前はなるべく短く書いた方がいいよ。厨房もみんなこれで覚えてるし」


 そう言って千加さんに渡されたメモ書きには、一通りのメニューの略称が並べられていた。おそらく僕のために準備してくれていたのだろう。


「お客様、何名様ですか」


 今まで他人の口からしか聞いたことのない台詞が、自分の頼りない声で再生される。それでも次第に、恥ずかしいという感情は麻痺してあまり気にならなくなった。


『千加から聞きました、いきなりバイトって、遥って案外行動力すごいよね。初日、頑張れ』


 小休憩の際、彼方さんからそんなメッセージが入っていた。昨日、僕たちは連絡アプリの交換もしたのだ。

 文章化されていても、彼方さんの声で脳内再生されるから不思議だ。


『はい。彼方さんも、』


 そこまで打って、訂正する。


『はい。まだ色々慣れないですけど、楽しいです』



 十七時の閉店まで客足は途絶えなかった。

 初日ということで、今日はほとんどフルタイムだったが、明日からは十五時で退勤するシフトになっていた。店から彼方さんの病院までは一時間ほどかかるので、少し早めに終わらなければ面会時間に間に合わないからだ。

 だがまあ、仮に彼方さんとの予定がなかったとしても、僕の心もとない体力ではその辺りがちょうど限界のラインだろう。一日働いただけでも全身が軋むような感覚があった。


「おつかれ」


 閉店後、呆然と立ち尽くす僕に千加さんが缶コーヒーを手渡してくれた。それを受け取りながら、なんとか僕は会釈を返す。


「クタクタだねえ。まあ私もだけど」


 彼女はそう言うけれど、僕に比べればまだまだ余力を残しているのは分かった。

 店長によると、今日のような忙しさが一ヶ月半ほど続くらしい。千加さんはここで働き始めてちょうど一年と言っていたので、去年もこれを味わっているということになる。

 想像しただけで身震いする過酷さだ。

 彼女の発言に同調しようとしたところで、ポケットの中の携帯が震えた。


『かっこいい!』


 全く文脈の分からないメッセージとともに、彼方さんからなんらかの画像が送信されてきていた。思わずタップすると、それは客から注文を受けている僕の姿を盗撮したものだった。

 犯人は探すまでもなかった。


「いやあ、喜んでもらえて何よりだね」


 まだ何も言っていないのに、千加さんは自慢げにそう胸を張った。

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