第29話

 今日もこの辺りは猛暑日並みの気温だと、ずっとつけっぱなしにしてあるラジオの天気予報は言っていた。何一つ家の外に出る理由がない僕には縁遠い話だけれど。

 締め切ったカーテンの向こうの暑さを想像しながら、この冷房の効いた六畳間でたまに絵を描いたり、積みっぱなしになっていた本を整理したりしていた。どちらも半端なままだった。

 ベットの隅に投げた携帯の、ブラックアウトした画面に目をやる。そこに何もないことを思い出して、今度は枕の下敷きにした。


 彼方さんから連絡が来なくなって三日が経った。僕はその間、一歩も外に出ていなかった。別に彼女からの連絡を一心に待ち続けたいだなんて、そこまでのことは思っていない。ただ、僕という人間の在るべき形に戻ったというだけだ。

 変わったことと言えば、前よりも鉛筆を握る時間が増えたくらいで、あとは、佐紀からの電話を二度無視しているということくらい。

 まだ彼女は僕と同じ無為な夏休みの渦中にいるのだろうか。そう案ずる気持ちはあるものの、僕には何もできないのだからしょうがない。

 僕は一度枕の下に追いやった携帯を取り出して画面をつけた。

 待っているつもりはないと言い聞かせてはいるが、このままでいるのは精神衛生的に最悪だ。せめてどのくらいの進捗だとか、それくらい訊いてもいいんじゃないか。十人も登録されていない連絡先を何度もスクロールしながら、彼方さんに電話をかけるための言い訳を並べ立てる。

 あと親指を数ミリ動かせばいい、というところで全てが愚かしくなって、やめた。携帯が目につくのも嫌になり、ベッドの下に滑り込ませる。そして今度は携帯の代わりに、自分の頭を枕の下敷きにした。


 この三日間で、何度同じことをやったか分からない。自分がここまで他人の存在に依存するだなんて、考えたこともなかった。

 目を瞑ると、脳裏に映像が流れる。それこそ、この数日で何度も見た記憶の再放送だ。

 僕が自分の意思で涙を流せなくなったと告白したあのときの彼方さんの表情が、あまりにも鮮明に思い返される。驚き、というより、全てを失ったような虚脱感があの顔にはあった。隠しきれない失望、後ろめたさ、罪悪感、どれであっても、僕が今まで飽きるほど見てきた表情だ。

 なんであなたがそんな顔をするんだ。僕はあのとき、きっとそう言いたかった。

 この三日間、ずっと考えていた。だから今なら、それがどれだけ愚かなことか理解できる。

 要するに、彼方さんだけはこの世界の中で唯一僕の全てを受け止めてくれる、なんて勝手な妄想に、僕は頭の先まで浸っていたのだ。


 どのくらいの時間が経っただろう。僕は完全に眠ってしまっていた。頭は覚醒しているものの、目を開ける気にはなれない。どうせ開けたところで、閉め切った部屋の暗闇があるだけだ。

 ふと、違和感に気づく。

 瞼の向こう側、真っ暗なところからアラームのような音が鳴っていた。一瞬夢かとも思ったそれは、間違いなく僕の家のインターフォンの音だった。

 まだ僕の他には誰も家にいないらしく、かと言って玄関先の来客が諦める様子もなかった。

 数分経ち、さすがに異常を感じ始めた僕は、カーテンの隙間から外の様子を窺った。案の定、外はかなり薄暗い。家の前には街灯があるものの、角度の問題で来客者の姿は確認できない。

 ただ、向こうは違ったらしい。

 カーテンを開く僅かな動作を、来客者は見逃さなかった。そして間もなく、僕の視界にはこちらを向いた男の姿が映る。


「未鳴、降りてきてくれよ」


 窓越しでも彼がなんと言ったのかは分かった。けれど、返事ができなかった。声が出なかったのだ。

 そこにいたのは、かつて僕が全てを奪った同級生、林孝司だった。

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