第21話

 佐紀の発言にもあった通り、この美術館はカフェスペースも充実していた。

 数あるメニューの中から、僕はなんとなく食べやすそうなものを選んだ。食欲どころではない何かで胸の中が溢れ返りそうだった。佐紀は貝のパスタとカフェオレを注文していた。


「体調、少しは落ちついた?」


 僕の様子がおかしいのを、一種の体調不良ではないかと案じている様子で佐紀が訊ねる。

 確かにあの絵を目にして以降、なんだか視界がぼんやりとして、頭もまともに働いている気がしなかった。体感的には、病気や発作と似たようなものだ。

 けれどまあ、原因がはっきりとしているだけ、それらと比べればマシなのだろう。


「うん、全然問題ない」


 目の前のサンドイッチを口に運ぶ。掴んだ指の跡が残るほど柔らかいパンの間に程よい塩気の卵ペーストが挟まれていて、あまり食欲の湧かない今でも、素直に美味しいと思えた。

 咀嚼して、飲み込む。脳が他のことに使われているからか、そんな当たり前の動作でさえ意識的になってしまう。

 母はあの絵に何を感じて泣いていたんだろう。答えに辿り着けないことは分かっていたけれど、考えずにはいられなかった。そして、それと同じくらいに、僕は彼方さんのことも考えていた。

 彼女に会いたいと、そう思っていた。


「嘘だ。ずっと上の空」


 僕は目の前の佐紀に対して、言いようのない罪悪感を抱いていた。ここに誘ってきてくれたのは彼女だ。それなのに、僕はずっと彼女ではない誰かのことばかりを頭に浮かべている。


「……ここ、母さんと来たことがある」

「え?」

「すごくぼんやりとした記憶なんだけど、でも間違いないと思う」


 なんで彼女に打ち明けようと思ったのか、明確な理由はなかった。さっきから胸にじわじわと滲んできていたバツの悪さと、一度口にすることで考えが整理できるんじゃないかという淡い期待の中間をとった行動だった。

 佐紀は何を言っていいのか分からない、という顔をした。反応から察するに、彼女は僕の母親のこともどこかから情報を得たのだろう。

 でも、構わない。別に慰めてほしいわけじゃなかった。


「すごく昔に死んでさ、ろくな思い出も残ってないんだけど、でもさっき、あの海辺の一枚絵を見たときにはっきり分かった。母さんもあの絵、見てたんだ」


 自分でも、なんでこんなに確信めいた言葉が出てくるのか分からなかったけれど、でも、母が見ていた絵があの絵ならいいと心から思っていた。そして、根拠なんてそれでいい。どうせ正解をもらえるわけでもないんだから。

 佐紀はしばらく黙って僕の話を咀嚼してから、遠慮がちに口を開いた。


「……その、思い出の中のお母さんは、もしかして泣いてた?」


 驚きのあまり、声が出なかった。両目が佐紀の姿を中心に据えて固定されているように動かない。

 それでもなんとか、僕は彼女の問いに頷く。


「やっぱりか」

「……どうして分かったの?」


 まだ唇は麻痺しているみたいに薄く痺れていた。ふと、佐紀の人差し指が僕の方を向く。彼女の目は、どこか少し遠くを見ているみたいだった。


「さっきからずっと、遥くんが泣きたそうな顔してるから」

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