第15話

 大手を振って推薦するだけあって、確かにナポリタンは美味しかった。

 思い返してみれば、僕は外で食事をしたことがほとんどない。別に嫌いだとかそういうのではなく、むしろ小さなころはかなり外食に対して好意的だったような気もする。けれど、今の家において食べたいものを口にするなんて習慣はないし、家族総出で出かける、なんてこともそうそうないので、なんとなく機会がなかった。


「美味しいでしょ」


 お手本のように、口の端にケチャップのオレンジ色をつけた彼方さんが言う。この人は、多分本気でこうだから怖い。


「はい。あと……口の周り、ついてますよ」

「食べ終わってから拭くからいいの」

「はあ」

「ピーマン、小さいときは食べられなかったな。今は大好きだけど」

「そういうの、味覚が衰えてるだけらしいですよ」


 つい、皮肉が口をついて出る。


「知ってます知ってます。遥は夢のないことが好きなんだねえ」


 彼方さんは少し呆れたような顔をした。子供扱いをされているようで、なんだかすっきりしない。事実、僕は彼女に比べれば子供なのだけれど。

 ともあれ、二十分も経ったころには、二人とも一人前のナポリタンを食べ終えていた。薄オレンジに染まった皿は、洗うのにそれなりの根気がいりそうだ。


「じゃあ、行こっか」

「どこにですか?」

「んー、私の家? 似顔絵、色塗りたいし。それに遥も画材とか、興味あるでしょ?」

「まあ、いいですけど」


 この人は高校生を家にあげることになんの抵抗もないのだろうか。今更ではあるけれど、やはり僕たちの関係は普通ではない。

 カフェでの代金は彼方さんが払ってくれた。会計のときも、千加さんと彼方さんはひとことも交わさなかった。

 ただ、彼方さんとともに店を出ようとした僕に、千加さんは、「迷惑かけてるだろうけど、よろしくね」とだけ僕に声をかけた。


 カフェを出た僕たちは最寄りのバス停で十分後に来るバスを待つことになった。来るとき、もう少し出発を遅らせてこのバスに乗ればよかったんじゃないか、とも思ったが、あえて口には出さなかった。


「よかったんですか」

「何が?」


 きょとん、とした顔で彼方さんは訊き返す。


「いや、千加さんと、もっとゆっくり話さなくて」

「ああ、いいの。それにほら、言われたでしょ? 『よろしくね』ってさ。完全に遥のこと、私の保護者扱いだもんなあ」


 彼方さんが本当におかしそうに笑うものだから、僕は困る。

 僕には千加さんの言葉の真意も、彼方さんの笑顔の裏も、何も分からない。探るべきではないのかもしれないけれど、考えずにはいられなかった。

 だって彼女の自殺を止めたのは、紛れもない僕自身なのだから。

 死ぬのを邪魔したのだから、生きる手伝いをしないでいるのはおかしいことなんじゃないか。そんなことを、このとき僕は思っていた。彼女の存在を利用しようなんて思惑は、とうの昔に霧散していた。

 そのうち、遠くの方からバスが来て、彼方さんと僕は乗り込んだ。昨日と同じバス停に着くまで、なぜか僕たちは会話をしなかった。少なくとも僕は、そうしている方が正解に近いような気がしていた。

 バスは停まり、僕たちは昨日と全く同じ道を辿って、彼方さんのアパートの前まで着いた。


「勝手に決めちゃったけど、案外何もない家だから、やっぱりまだ恥ずかしいな」


 ここまで来て、彼方さんはそんなことを言い出す。


「昨日も来てますし、もう何も思いませんよ」

「なんかそれはそれで恥ずかしいんだよ」


 僕にはよく分からないことを言いながら、彼方さんは部屋の鍵を開ける。彼女の手に握られた鍵には、おそらく木製と思われる、蛙のキーホルダーがぶら下がっていた。

 別にどうでもいいことだけれど、彼女と蛙に関連性はあまり感じない。むしろ、そのイメージに近いのは僕の方だろう。ほら、雨を予期できるところとか、あと陰気くさいところなんか特に。

 彼方さんの部屋は、昨日とは少し違う雰囲気を纏っていた。僅かに乱れたソファの皺から、人間の気配がちゃんとした。なんだか、胸が少しだけ軽くなった気がした。


「ほら、色々あるよ」


 僕を手招きした彼方さんは、そのまま大きな引き出しを開ける。そこには絵本を描くために使われるであろう画材が所狭しと並べられていた。

 僕は言葉を失った。おそらく、この部屋の中で一番彼方さんの奥底に近いのはこの引き出しだろう。

 見たこともない名前の画材だらけだった。おそらく、絵本制作に特化しているものだろうか。学校の美術室では見受けられないような上質なつくりの筆先が、なんだか尖って見える。


「……すごい」

「やけに素直だね」


 そう言う彼方さんの顔は、なぜかすごく悲しそうで、なんというか、見ているだけで泣きたくなってくるような表情だった。とはいっても、僕の目から涙が流れることなんてないのだけれど。

 自分が感じている気持ちの正体がよく分からず、何も言えないでいる僕に、彼方さんは大きな白画用紙を引っ張り出しながら笑顔を向ける。その表情は、もうさっき一瞬覗かせた影なんて微塵も感じさせないほど完璧に作り上げられていた。


「せっかくだし、色々描いてみようか」

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