第3話

「……別に、いいですけど」


 お姉さんの縋りつくような雰囲気に呑まれたからか、または本当に彼女の誘いが嫌ではなかったからなのか、考えるより先に口が動いていた。


「やった。決まりだね」


 指を鳴らしてあからさまに嬉しそうな表情を浮かべるお姉さんの様子を、僕は何も言えずに眺めていた。彼女と会ってからの数十分間、いまいち現実に実感が追いついてない気がしていた。

 目の前の彼女は、まるで絵の中から飛び出してきたみたいに綺麗で、隙がない。多分、彼女みたいな人のことを、感情を外に出すことに躊躇いがない人種というのだろう。僕みたいな人間からすれば、どこか恐怖に似たものすら感じる。


「でも、一緒に……ってこの雨ですけど」


 当たり前だが、雨が降ると気温も下がる。半袖シャツ一枚で来てしまった僕は、正直耐え難いくらいの寒さを感じ始めていた。そういう意味でも、ここに長居はしたくない。


「じゃあさ、私の家、行こう」


 とんでもないことを口にしながらも、彼女は変わらず飄々としていた。その自然さに、思わず普通に相槌をうちそうになってしまう。


「はい?」


 肯定とも否定とも取れるような、そんな尻上がりの返事をしつつ、彼女の言葉の意味をなんとか消化して、やはり理解できない、という結論に至る。


「ほらほら、善は急げだよ」


 お姉さんはそれっぽいことを言って僕の手からスケッチブックを奪うと、それを自分のお腹に抱え込んだ。

 優しく抱かれたスケッチブックが彼女の白いワンピースに皺をつくって、わけのわからない申し訳なさが胸に湧いた。彼女が勝手にやったことだ。僕にはなんの非もない。そういう思考すら、言い訳のように思える。


「これで少しは濡れずに済むでしょ」

「あの、まだ僕……」


 言葉は届かなかった。お姉さんの左手が僕の右腕をしっかりと掴み、そのまま連れ去られるように、僕たちは雨の中へと繰り出した。

 一瞬でずぶ濡れになりそうなくらいの大雨の中を、お姉さんは僕の手を掴んだままひた走る。長い石階段も一段飛ばしで軽々と登っていく彼女のペースに合わせるので、やっとだった。

 昔観た映画にもこんなシーンがあったな。

 雨に打たれながら、現実逃避のために僕はそんなことを考えた。

 あれは、確か冤罪で投獄された囚人の脱獄劇だったか。とにかく、まともな境遇の人間はこんなことをしない、それだけは確かだった。

 階段を登り終えたお姉さんは、僕がさっき降りた駅のすぐ近くのバス停に停まっている、緑色のバスを指さした。


「あのバス」

「え?」

「あのバス、家の近くまで行くの」

「間に合いませんよ。次が来るまで待ちましょう」


 息もたえだえに僕は提案する。


「諦めちゃ、ダメなんだよ」


 隣でお姉さんがそう呟いて、僕の腕を掴んだまま走り始める。

 嘘だろ。なんでこんなことでそんなに頑張るんだ。疲れるのは誰だって嫌だろ。口に出してやりたいことは山ほどあったけど、そのどれもが言葉にならずに息切れに変わった。


「おーい! ここにいますよ!」


 お姉さんは動き出そうとするバスに向かって、恥ずかしげもなく大声を上げる。

 さっきまで海に身を投げようとしていた人間の出す声量じゃない。もしかするとあれは本当のところ、僕の勘違いだったのかもしれない。そんなことさえ考えた。

 そんな僕たちの決死の走りが届いたのか、はたまた呆れられたのか、今にも出発しそうだったバスはハザードランプをチカチカと点滅させながら、僕たちの到着を待ってくれた。


「ほら、間に合った」

「待ってて……くれてた、だけで……」


 自信満々な彼女の言葉を指摘したいが、上がり切った息がそれをさせてくれない。


「お嬢たち、急な雨で大変だったでしょ」

「へへ、本当急に降られちゃってさ。ありがとね、伊藤さん」

「いいよいいよ、今は運よく誰も乗ってなかったからさ」

「誰も乗ってないのはいつもでしょ」

「うるせえよ」


 どうやらお姉さんとこの運転手の男性、伊藤さんとやらは知り合いのようだった。にしても、話す必要のない他人とこんなふうに親しくする必要があるか?

 やっぱり彼女は僕にとって根本的に相容れない種類の人間だと再認識する。

 そもそも、運転席から一番近い席に座ろうという感性からして信じられない。バスは後ろから順番に座っていく乗り物じゃないのか。


「坊は見ない顔だね、この辺の子?」


 伊藤さんがちらりと僕の方を見てそう訊ねる。


「え、ああ……いや、違います」

「従弟なの」


 僕が言い淀んでいると、突然お姉さんがそう横から口を挟んだ。


「ああ、そういや似てるなあ」

「伊藤さん、適当に言ってるでしょ」


 へへ、ばれたかあ。そんなふうに談笑する二人を前に、僕は固まっていた。よくそんなでたらめをなんの滞りもなく吐けるものだ。

 助かったのは事実だったけれど。きっと彼女は嘘をつき慣れているんだろうな、と僕は静かに思った。


「ねえねえ、君のスケッチブック、ちゃんと守ってたんだよ」


 お姉さんは嬉しそうにそう言いながら、ずっとお腹に抱えていたそれを僕に見せた。

 彼女の言う通り、スケッチブックは表紙に水滴がついているくらいで、中身にはなんの被害もなかった。少なくとも、僕が傘代わりにしていたらこれでは済まなかっただろう。


「……ありがとうございます」


 バスは一つ、二つと停留所を過ぎていき、三つ目の停留所の名前を録音された音声が読み上げた後、お姉さんが降車ボタンを押した。


「あっ」


 と同時に、彼女は虚をつかれたような声を上げる。


「どうかしました?」

「いや、私お金持ってきてないや」

「はあ?」


 お手本のような呆れ声を返してから、僕は彼女の言葉の裏にあるものを察した。そしてその推測が正しいことを、彼女自身の声が耳元で教えてくれる。


「だって自殺する人間がお金なんか持ってても、もったいないでしょ?」

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