エピローグ ①

 何気ない日々はいつもいつも夢のよう。


 『今』という私を必死になって喘ぎながら生きている癖に。


 ふと気が付いたら全部が全部、過ぎ去った誰かの想い出の写真くらいにしか感じない。


 震えるほどの恐怖も。


 おびえるほどの情けなさも。


 息が詰まるほどの緊張も。


 確かに胸を鳴らした喜びも。


 部屋でお風呂に入っているときにふと想い出すと、何もかもが夢のよう。


 そんなことほんとにあったっけって、我ながら時々首を傾げたくなってしまう。


 社会人になって、変化というものからめっぽう遠ざかってしまった私の日常は。


 そんな風にして、だらだらと私を運んでいる。


 ちょうど一か月ほど前に、吸血鬼に襲われて。


 いや、きっとその日の朝に痴漢から救われたのが始まりで。


 次の日に、私が痴漢をひっぱたいて。


 そんなともすれば鮮烈な記憶も、気付いたらどこか遠く向こう。


 当たり前の日常に、一滴だけ混ざったワインのように。


 大きな変化を与えることなく、私という人間は生きている。


 ……いや、少しだけ変化はあったろうか。


 あの痴漢はもう出会わないし。


 会社で飛ばされる叱責は、少しだけ平気になった。


 別に何が変わったわけでもなく、なんとなく平気になった。


 親からの言葉は鬱陶しいけれどまあ大丈夫。


 世界は別に変ってない。じゃあ、変わったのは何だろう。


 眼からコンタクトを取り出して洗いながら、なんとはなしに考える。


 少しだけ変わったとすれば、それは私の見方かな。


 理不尽が迫ってきても、別に少し避ければいいと。声を上げればいいと。少しなら蹴り返してもいいのだと。そう学んだことくらいだろうか。


 あれから一度だけ痴漢にあったけれど。振り向かないまま相手の足を思いっきりかかとで踏み抜いたら、あっという間に手は引っ込んだ。


 別に世界は変わらない。


 私の捉え方が少し変わっただけ。


 一か月前に起こったのはきっとただそれだけの違いなんだ。


 名前も知らない吸血鬼との出会いが私にもたらしたのは。


 たったそれだけのことだった。









 ※








 あの吸血鬼がいい人だったなんて、正直ちっとも思わない。


 だって、やってることは、そこら辺の痴漢と大して変わらない。


 ただ、それはそれとして、彼女が与えた何かが私の見方を少しだけ変えたのは事実なわけだ。


 彼女にそんな意図があったのかは、甚だ謎な処ではあるのだけれど。


 受けた義理の一つくらい、返したところでバチは当たらないのだろう。



 「だから、会いに来ました」



 「…………はあ?」



 会社の最寄駅から三つほど離れた沿線上。


 駅地下のハンバーガーショップで、私は店員の女性―――もとい吸血鬼に声をかけた。


 ありがちなファーストフードの制服も、美人が着るとよく似合うねえと、感心しながら。私は軽く指をさす。今日の指名はお前だ、みたいな感じのノリで。


 「あ、注文はエビフィレオ単品とクーポンのポテトで。あとお冷ください」


 「いや、コスパの追及の仕方えげつな。……え、ていうか、なんでいるんすか」


 彼女は片手でレジをうちながら、口を半開きのまま、私に向かってそう問いかけてくる。


 「え、うーん会社の帰りとか休憩時間に沿線上の店を一通り回ってただけだけど」


 あの電車にわざわざ乗っているのだから、何かしらの通勤目的でいるのだろうというのは想像できた。まあ、虱つぶしだったから、一か月で見つけられたのは幸いだったね。


 「……なんか想ったよりアグレッシブですね。お姉さん……でなんすか、『お仲間』になりたいって話です?」


 彼女は他の店員にレシートを回しながら、器用に会話を続ける。まあ、幸い、混雑時じゃないから、私の後ろに並んでいる人はいなかった。


 「……うーん、とりあえずそれはいいかなあ。仕事上がるの何時?」


 「今日は21時……」


 「じゃ、それまで待ってる。お店の前で集合ね」


 次のお客が入ってきたから、それだけ言って私はそっと脇にどけた。彼女は少しばかり呆れたような視線で私を見てきていたけれど、次のお客が来たのに合わせてどうにか笑顔を持ち直す。うむうむ、プロは切り替えが違うなあ、条件反射というか。あの笑顔がゼロ円なのは少しばかりもったいない。


 そうして夕食のエビフィレオを食べ終えて、ある程度時間を潰してから、私は店の前で彼女を待った。


 逃げられるかなあ、なんて心配もしてみたけれど。意外と杞憂に終わって、彼女はジーパンとカーディガンの姿で、私の前に現れた。


 店員の姿じゃないから、よくわかるけれど、ふと見ると髪が腰に届きそうなくらい長い。しかも真っ黒でさらさらだ。夜闇の中、吸血鬼としてみる分には違和感がないけれど。街中で、素の美人姿がよく見える環境でみると、ちょっと異様な感じもする。


 微妙な顔をする彼女を連れて、私たちは駅に向かって階段を登り始めた。


 「で、何のようなんですか?」


 「んー、お礼というか、何というか」


 「はあ……、私なにかお礼されるようなことしましたっけ」


 「あんまりしてない」


 「ですよねー……」


 軽口を叩きながら、二人揃ってICカードを改札にかざす。


 「でもまあ、私的には結構変化のきっかけになったからさ」


 「そーなんですか。……じゃ、死にたいのはましになったんですか?」


 「……うーん、たまになる」


 「……なるんすか」


 「なるけど、前よりなんかマシかなあ」


 「…………」


 だって世界は何にも変わらない。


 病気は流行って。戦争は起こって。ストレスは満ち溢れて。


 相変わらず世界は、理不尽だ。


 少し変わったのは、私だけ。


 何も変わらない日常で。


 少し救いを得たのは私だけ。


 「だからさ、お礼しようと想ってさ。ずっと、君を探してたんだ」


 そう君を真っすぐ見つめてみたら、その瞳は少しだけ驚きに揺らいでいた。


 「……酔狂ですね。お姉さん」


 「まあね、非日常を体験してネジが外れちゃったかな。……で、お礼何がいい? なんでもいいよ」


 眼を閉じながら、ふらふらと歩きながらそう告げる。


 「ごはん奢ろうか? それか何か買う? あー、それとも」


 ふらっと歩きすぎたのか、暗闇の中、吸血鬼に手を掴まれた。


 それに合わせて目を開けて、そっと君を振りかえる。



 「やっぱり血がいいの?」


 

 私がそう言うと、君はどこか苦しそうな泣きそうな表情で私を見ていた。


 きっと必死に何かを我慢している。それが苦しくて苦しくてたまらない。


 そんな表情を君はしていた。


 これはあれかな、吸血したいのをじっと我慢している感じなのかな。


 向こうからすれば、お腹が空いて空いて仕方ない時に、美味しいご飯を出されて食べる? って聞かれているようなものか。


 私は何気なくふと周りを見回す。


 そこそこな街の駅のホームは21時を回ったと言っても、まだまだそれなりに人がいる。


 うーん、ここはさすがに目立つよねえ。


 私達は手を繋いだまま、そっとホームの隅まで歩み寄る。


 電車が止まる予測線を少し超えると、そこは電気もついてなくて誰もいないホームの隅っこ。


 誰もがいるのに、誰も見てない夜の影。


 そこでゆっくり振り返って、首筋をそっと晒した。


 

 「吸う?」



 そうして、私はそう聞いた。


 君はどこか苦々し気に、私をじっと見つめていた。

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