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 教育原理の教授は最悪だった。

「最初に言うが、おまえたちに単位をやるつもりはない」

最初の講義でそう言い放った。

「おまえたちみたいなクズを教師にしたら、この日本から未来が消える」

なにを基準にクズと言い切るのか、聞いてみたいと懐空かいあは思ったが、それでにらまれて本当に単位がもらえないのも困る。


 同じ高校の2年先輩で受験する大学を決めるとき、懐空の相談に乗ってくれた坂下さかした尚弥なおやに聞くと、

「あぁ……教育原理。あれ、本当に単位くれない。俺も1年の時は落とされた」

と、笑う。

「2年次に再受講すると認めてくれることが多いみたいだ。俺も去年、単位を取った。出席重視、もちろんテストも合格点じゃなきゃ、2年受けても貰えないけどね」


 同じ大学でも2年先輩、学部は違うものの、尚弥も教職を目指していた。懐空の学生生活の最初は、尚弥に案内してもらったと言っていい。キャンパス内をあちこち案内し、アドバイスをくれた。人見知りしがちな懐空が、割とすんなり大学に慣れたのも尚弥のお陰だ。


 2年も先輩で、同じ陸上部と言っても大して交流もなかった。尚弥の親切が懐空にはありがたく、感謝していた。


 だから、サークルに誘われ断ったのは心苦しかった。尚弥はラクロスのサークルに懐空を誘った。


 バイトを理由に断った懐空を、それとなく懐空の事情を察している尚弥は、そうか、と言っただけで、それ以上、懐空を誘う事はなかった。

「それにして、おふくろさん、よく家を出ること許したね」

「いいや、追い出されたんですよ」

そうか、とやっぱり尚弥は笑った。


 2週間もすると懐空にも新しい友達、と言うか知り合いとか顔見知りができた。なかでも篠崎しのざき忠司ただしとは懐空も驚くほど親しくなった。


 学食で隣り合わせた時、声をかけてきたのは忠司だった。

「さっきの授業、一緒だったよね? あ、その顔、誰だ、コイツ、って思ってるでしょ?」

と、忠司が笑ったので、素直に見覚えがない、と懐空は答えた。

「そりゃそうだよね、俺、後ろの、後ろの席だったもん」

と、さらに笑う。


 聞くと確かに同じ授業に出ている。のんびりテキストを仕舞っているとき、サッと立ち上がった懐空の顔を見たのだと言う。


「懐空、女の子にもてるだろ?」

 忠司はニヤニヤしながらそう言った。顔はニヤニヤしていたけれど、厭味を言った訳じゃないことは判った。

「俺さぁ、九州から出てきたんだよ。鹿児島って知ってる?」

「桜島のあるところだろ?」

「そうそう、その桜島があるとこ。でもずっと宮崎寄りの場所。財部たからべってとこなんだ」


 財部についての知識がない懐空は、へぇ、と言うしかなかった。聞いた事もない地名だった。

「で、彼女は向こうの ―― 宮崎の大学に行った。離れ離れに最初は泣いたけど、こっち来て気が変わった」

で、声を小さくして、

「東京の女の子は可愛いね」

と、また笑った。今度一緒にナンパしに行こう、懐空が一緒なら上手くいきそうだ、と忠司はウインクした。けれど、それ以来、忠司から『ナンパ』と言う言葉を聞かない。あれはホンのご挨拶の冗談だったのだろうと懐空は思っていた。


 何しろ明るく、なんとなく無責任な感じもするけれど、忠司は懐空の学生生活を彩ってくれると感じていた。


 花はとうに散り、葉桜がしっかり木陰を作る頃には懐空のバイト先も決まった。アパートの最寄り駅近くにあるレストランのフロア係だった。割と時給が良かったし、土日が定休だったのもよかった。平日はがっちりバイトして、土日に勉強する腹積もりだ。


「陸上部? 中学から6年間? じゃあ、足腰、しっかりしてるね。姿勢もいいし、顔もいい……言うことなし。来週から来てよ」

 オーナーシェフの奥さんが面接し、即決した。そのあと、服のサイズを聞かれ、シェフに紹介された。サバサバして客あしらいが上手そうな奥さんに対し、シェフはムスっとして無口そうだった。懐空を見ると『頑張れよ』と言ったが、仕事の手を休める事はなかった。


 店は半分ほど席が埋まっていた。電話したとき、店が空く時間帯と言われたが、それでもこれだけ入っているなら、懐空がバイトに入る時間帯は盛況なんだろう。最初はしんどいかもしれない。でも、だから時給がいいんだ、と懐空は覚悟していた。


 その日、懐空がアパートに戻ると、どこからか猫の鳴き声が聞こえた。目を凝らすと桜の木の下に猫がいる。逃げるかな、と思って近寄っても懐空を見上げるだけだ。屈んで手を伸ばすと、体を擦りつけてくる。

(人に慣れているんだな)


「お腹すいてるの?」

 懐空が言うと、タイミングよくニャアと鳴いた。途中で寄ったコンビニで買った魚肉ソーセージがある。食べるかな、と思いながら、千切っておいてやるとむしゃむしゃと食べ始めた。


 それを見ていて懐空は猫の耳が切られている事に気付く。きっちりハサミででも切らなければ付かない傷だ。

(可哀想に……誰がこんな事を)


 痛みはないのだろう。猫がその傷を気にする様子はない。懐空が与えたソーセージを食べ終わると、しゃがみ込んでいる懐空に体をこすりつけてくる。


「こんばんは」

 懐空が猫をでていると、後ろから声がした。愛実あいみだ。引越しの日以来だ。


「あ、こんばんは」

 つい、今日は早いですね、と言いそうになって、慌てて言葉を飲み込む。愛実の帰宅が大抵深夜だと気が付いていた懐空だった。このアパートじゃ、聞こうと思わなくても聞こえてしまう。隠すのもヘンだけど、指摘するのはもっとヘンだ。

「あれ、サクラちゃん。久しぶり」

猫を見ると愛実はしゃがみ込んで、懐空と並んで猫を撫で始めた。


 暗くてよく見えないけれど、今日は春らしい色のスーツだ。たぶん薄いグリーン。そしていい匂いがしている。香水だろうか?

「サクラちゃんって言うんだ?」

「わたしが勝手にそう呼んでるだけ。いつもこの木の下にいるから」

と愛実が笑う。

「それにこのコ、サクラ猫だし」

「サクラ猫?」

「うん、耳が桜の花びらみたいでしょ? 切れ込みがあって」

「そうなんですよ、誰がやったのか、可哀想に」


 すると愛実がプッと笑う。

「それ、避妊手術や矯正手術した猫に、目印のために付けた傷だよ。知らなかった?」

「え? そうなんですか?」

「うん、ノラちゃんが増えないようにだね。そしてこのコは地域猫になったの。決まった飼い主はいないけど、地域で見守りましょう、ってところかな」

樋口ひぐちさん、詳しいんですね」


 そうでもないよ、と愛実が立ち上がる。

「あんまり塩っぱい物、食べさせちゃダメだよ。体に悪いから」

そう言うと愛実は、じゃあね、と階段を昇っていった。懐空はそれを何も言わずに見送った。

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