きみの愛。ぼくの恋。すべてが「まぼろしだ」としても

寄賀あける

1部 桜の木のアパート

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 その冬は寒さが厳しく、その代わり春の訪れは早かった。厳冬を乗り越えた植物が春に咲かせる花はことのほか美しいと、どこかで聞いた事がある。それは本当なんだ、とおおかいは桜の木を見上げて思った。


 満開の桜は匂い立つような薄紅色で、例年よりもつややかに懐空には見えた。今日から僕は毎日この木を見て生活していく。桜の木は花を咲かせ、僕を歓迎してくれている、と懐空は感じていた。感じたかった。


 古ぼけたアパート、片隅にたたずむ桜はどれくらいの樹齢になるのだろう。いびつな樹形から、若い木ではなさそうだ。アパートが建つ前からここにいて、今まで何人もの住人を見守ってきたのかもしれない。今日からよろしく、心の中でつぶやいて、懐空は段ボール箱を運び始めた。


 レンタカーの荷台には段ボールが3箱。それと布団ふとんがワンセット。懐空の引越しはごく簡単に終わる。


 懐空の母親は一人で懐空を産んで、一人で育てた。父親の顔は写真ですら見た事がない。いないものだと懐空は思っていた。生物学上の問題は無視した。僕の親は母一人だ。


 その母のもとを離れたのは進学のためだ。自宅から通える大学を希望した懐空に、ダメ出ししたのは母だった。

「キミ、その大学に本当に行きたいの?」


 母は真面目な話をするとき、普段は『カイ』と呼ぶ懐空の事を『キミ』と言った。


「経済的なことだけでその大学を選ぶんだったら、かえって無駄使い。本当に行きたいのか、どうしてそこを選ぶのか、よく考えて結論を出して」


 でも、確かにお金は無視できない、と母は続けた。


「母さんが出せるお金はこれだけ。で、もし、キミが遠くに行くなら、毎月できる仕送りはこれだけ。それも考えて、キミの一番を選んで欲しい」

一冊の通帳と一枚のメモを懐空に渡しながら、母はそう言った。メモを見ると小遣い程度の金額だったが、通帳は懐空が行きたかった大学の四年間の学費を上回るものだった。思わず懐空は、化粧気のない母の顔を見た。


「キミが考えなくちゃいけないのは、このお金をどう有効に使うか、だからね」

と、母は笑った。


 化粧はしない、着飾る事もしない、懐空が知る限り男がいたこともない。その分、この母は僕のためにお金を貯めていたんだ。そんな事を母が口にしたことはない。が、懐空はそう感じた。


 一度だけ、父親が欲しいか聞かれたことがある。懐空が小学一年生の時だ。深く考えもせず、今さらいらない、と答えた。それが本音だった。母と二人の生活に不満を感じたことはない。


 物心つくころには保育園に預けられ、その頃は学校が終われば学童保育に通い、母のむかえを待った。常に誰かがそばにいる。寂しさを感じたことはない。そして大好きな母が迎えに来てくれるのを待っているのも好きだった。母の姿を見た時の、あのうれしさは幸せそのものだった。


 ひょっとしたらあの時、母には思う相手がいたのかもしれない。それきり母が父親について懐空に訊くことはなかった。


 高校生になった時、『小遣いはバイトして自分で捻出する事』と母から言い渡されて始めたバイトで貯めた金も、安いアパートを借り、最低限の家電を買い入れても二か月くらいは生活できそうなほどになっている。バイトで稼いだところで、懐空に使うあてもなく、母に渡そうとしても、今はまだその時じゃない、と受け取って貰えなかった。以前からの貯金に上乗せするばかりだったのだ。


 二回往復して、最後の荷物になった。軽めの段ボール箱は重ねて運んだ。最後はずっしりと重い布団袋だ。


 疲れを取るために眠る布団はいいものでなきゃいけない、と母が懐空に持たせてくれた。懐空に任せると、きっと安物のペラペラを選ぶと踏んだのだろう。


 大きな布団袋を抱え込むのに苦労していると、アパートの敷地に入っていく人影があった。明るい色の長い髪にウェーブを掛け、毛先をクルクルと巻いている。派手ではないが地味でもない、だが、どこかあかけている、そんなスーツを着込み、コツコツとヒールの音を響かせ歩く。


 懐空が借りたアパートは二階建てで、各階三部屋、建物の前が広めに空いていて、その奥に桜があった。そして桜のある、奥のほうに向かって階段は昇っていた。


 階段を昇り切ると戻るように廊下が続く。懐空の部屋は二階の一番手前、階段を昇り切ったところだ。角部屋で三方向に窓がある。


 したに来た時、桜はまだつぼみふくらみ始めた頃だったが、咲いた時、この窓から見たら素敵だろう、そう思ってこの部屋に決めた。二階の奥とこの部屋と、一階の真ん中の部屋が空部屋だった。


 こんなボロアパートに何の用事だろう、随分このアパートには不釣り合いな感じだな、漠然ばくぜんとそう思っていると、階段に向かっているようだ。アッと思った時には階段を昇り始めていた。手にしていた布団から手を離し、慌てて懐空は階段に向かった。部屋のドアを開け放しにしている――


「すいません、ドア、閉めちゃってください」


 階段を昇りきるところだった女性に階段の下から声を掛ける。女性は、懐空の声に驚いたようだったが、開け放したドアに気が付いて微笑んで懐空を見た。


「引っ越されてきたんですか?」

「はい……すいません、荷物、運ぶのに、つい開けっ放しにしちゃいました。じゃですよね」

「少し細めれば大丈夫。また開けておきますね」

その通りにして女性は懐空の部屋の前を抜け、隣の部屋の前で止まった。バッグをゴソゴソ探っているのは鍵を探しているのか?


「わたし、ぐちあい、隣の202。よろしくね」

「あ、あ……僕は大野懐空です。後でまたご挨拶に伺います」


 懐空が言い終わる前に愛美は部屋に入っていった。ドアを閉めるバタンと言う音さえ、懐空には綺麗な音に聞こえていた。

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