第四の死

 ……………テ……


 セピア色の奔流の中で、葉月の痛切な声はほとんど聞き取れないぐらいか細くなってしまっていた。

 ともすれば、美沙子の意識も散り散りになってしまいそうだ。しかしそれでも美沙子はたったひとつの思いを胸に、セピア色の奔流に耐えていた。


(あたしはどうなってもかまわない! でも、どうか葉月だけは……葉月だけは、助けてやっておくれよ!)


 美沙子の意識が、ゆるやかに浮上していく。

 これまでとは比較にならないほどの、のろのろとした感覚である。

 美沙子は死に物狂いで、吐瀉物のように粘つくセピア色の奔流からもがき出た。


 白い光の粒子が寄り集まって、美沙子の肉体をわずかずつ形成していく。

 いや――これは美沙子ではなく、蓮田節子の肉体だ。しかし、それこそが美沙子の望みであった。このまま元の時代に戻されても、美沙子には何の希望も残されていなかったのだった。


(今度こそ……今度こそ、絶対に正しい運命をつかみ取るんだ!)


 美沙子が重いまぶたを開くと、そこにはだいぶん見慣れてきた天井の様相が見て取れた。

 美沙子は大きく息をついてから、身を起こす。確認するまでもなく、この気怠さは蓮田節子の貧弱な肉体である。枕もとの腕時計で確認すると、時刻はやはり九時ジャストであった。


 パジャマ姿のまま寝室を出た美沙子は、そのまま蓮田千夏の寝室へと足を向ける。ふすまを開くと、ショートヘアの少女は胎児のように身を丸めて、すやすやと寝入っていた。

 その愛くるしい寝顔で心の疲弊を癒やしてから、美沙子は少女のかたわらに膝をついた。


「悪いけど、起きてもらえるかい? 一分一秒も無駄にはできないんでね」


 美沙子がその肩を揺り動かすと、少女は「ううん」と不平がましい声をあげた。

 そしていきなり、その目が大きく見開かれる。少女は弾かれたような勢いで身を起こし、美沙子の顔をまじまじと見つめてきた。


「か……母さんだよね?」


「その質問じゃあ、あたしの正体はわからないんじゃないのかい? 蓮田千夏にとっても、蓮田節子ってのはまぎれもなく母親なんだからさ」


 美沙子が皮肉っぽく言葉を返すと、少女――蓮田千夏の姿をした葉月はたちまち目に涙を溜めながら抱きついてきた。


「もう! あんまり心配させないでよ! 私を庇って、母さんが死んじゃうなんて……そんなの、なんにもならないじゃん!」


「まったくもって、仰せの通りだね。でもまあ体のほうが勝手に動いちまったんだから、どうしようもないさ。母親としての本能ってのは、理屈でどうこうできるもんじゃないってこったよ」


 葉月の体温を心地好く感じながら、美沙子はそのように答えてみせた。


「でも、あそこまで話がこじれちまったら、もう巻き返しようがないでしょ。なんとかもういっぺんチャンスをもらえたようだから、ここで挽回するしかないね」


「うん……私のときも、四回目で元の時代に戻されることになっちゃったからね」


 美沙子のもとから身を離した葉月は、乱暴な所作で涙をぬぐった。

 四畳半の寝室には、夏の朝日が差し込んでいる。その白々としたきらめきの中で葉月は大きく息をつき、凛々しい表情を取り戻した。


「でも、どうしよう? 静夫くんとの会話で、何か打開策は見つけられた?」


「うーん、そいつは難しいところだね。あたしはあいつがどれだけあんたに執着してるかを思い知らされただけだし……由梨枝さんを殺したのも、十中八九はあいつだろうと思うよ」


 美沙子がそのように答えると、葉月は「そうなの?」と眉を曇らせた。


「うん。だからあいつは家族に頼る気になれなくって、あんたに――というか、あんたの祖母ちゃんに執着することになったんだと思う。母親を殺した罪悪感やら何やらと、家族に対する申し訳なさやら何やらで、蓮田千夏ひとりに執着心のすべてをぶつけることになったってことなのかな」


 そうして美沙子が静夫とのやりとりを細かい部分まで語ってみせると、葉月は「そっか……」と唇を噛んだ。


「……でもやっぱり、静夫くんは隆介くんや孝信さんを憎んだりはしていないんだね。吉岡が勝手な真似をしたことに、すごく怒ってるみたいだったもん」


「だったらどうして、吉岡のやつは一家を皆殺しにしようとするのかねぇ。野々宮の人間は静夫にとって有害だってのが、あのイカレ野郎の言い分なんでしょ?」


「だからそれは、静夫くんが吉岡の子供だからなんじゃない? 由梨枝さんの一件がなくても、静夫くんは家族に大きな秘密を持ってるわけだから……その後ろめたさで頼ることができないって面もあるんじゃないかなぁ」


「ああ、なるほど。だったらそれだって、不倫なんざに手を染めた吉岡と祖母さんのせいじゃないのさ。……吉岡ってやつは、本当に厄介だね。確かにある意味では、あいつがすべての元凶なんだろうと思うよ」


 畳の上にあぐらをかきながら、美沙子は嘆息をこぼすことになった。


「あいつはあんたがいる前で、不倫関係を暴露したってんでしょ? それも、あたしが静夫におかしな真似をしてるんじゃないかって不安になって、暴走したわけだ。どうしてそんなに短絡的なのか、理解に苦しむところだよ」


「うん……あの日記帳がからむと、みんな嘘みたいに短絡的になっちゃうけど……それは全部、思いも寄らない事態に見舞われて、動揺したからだよね」


 静夫が最初に吉岡医師を殺したのは、父親として信頼していた吉岡医師に裏切られたというショックのためである。そしてその後は吉岡医師を殺してしまったというショックを引きずりながら、兄たる隆介の前で暴走し、逆に殺されることになったのだ。


 いっぽうその隆介は、弟である静夫が吉岡医師ばかりでなく母親をも殺したのだという告白を受けて、大きく取り乱すことになった。しかも隆介は心から気にかけていた弟に裏切られ、母親殺しの罪をなすりつけられようとしていたのだから、どれだけ逆上しても不思議はないだろう。


 孝信の場合はもっと簡単で、彼はアルコールのために精神が不安定だった。なおかつ、愛する妻を失ったという悲嘆まで抱え込んでいたため、愚かしいほど短絡的に隆介を殺めることになってしまったのだ。


 しかし――吉岡医師に、そこまで逆上する理由があるのかどうか。それが、判然としなかった。


「あいつは静夫くんの家族を一掃しようっていう計画の発案者なんだから、他のみんなみたいに不意打ちをくらって動揺することもないはずだよね。それなのに、いっつも自分から由梨枝さんとの不倫関係を暴露して、孝信さんに襲われる羽目になってるんだよ。日記帳を読んだはずの孝信さんが大人しくしてるだとか、母さんが静夫くんのところに向かったりだとか、そのていどの理由で暴走するなんて……何か、変じゃない?」


「あんなイカレ野郎に常識的な行動を求めるほうが、間違ってるのかもしれないけどね。……けっきょくは、あいつが静夫に抱いてる執着心が元凶ってことか」


「うん。たとえあいつが本当に静夫くんの父親なんだとしても……こんなの、異常だよ。あいつこそ、静夫くんの気持ちなんてこれっぽっちも考えてないみたいだし――」


 そこまで言いかけた葉月が、ふっとうろんげに眉をひそめた。


「どうしたんだい? 何か思いついたの?」


「いや……静夫くんの部屋で聞かされた二人のやりとりに、何か引っかかるものを感じたんだけど……これって、なんだろう?」


「あのねぇ。あたしがいくらあんたのことを大事に大事に思ってたって、心の中までは見透かせないよ」


「もう、ふざけないでよ」と、葉月は顔を赤くした。


「でもとにかく、厄介なのは吉岡だよ。なんとかあいつを黙らせて、静夫くんを改心させる方法はないかなぁ?」


「改心って? あいつが今さら心を入れ替えても、母親を殺したって事実は動かないんだよ」


「それだって、まだ確証のある話じゃないでしょ? もしかして……やっぱり犯人は吉岡で、静夫くんのほうがそれを庇ってるっていう可能性はないのかなぁ? あいつが実の父親だったら、静夫くんが庇おうとしても不思議はないでしょ?」


「いやいや。静夫は毎回、吉岡を殺してから母親殺しを自白してるんだよ? 殺した相手の罪をかぶるだなんて、まったく道理が通らないじゃないのさ。……いい加減、静夫を善人だと思い込むのはやめたほうがいいんじゃないのかねぇ」


 美沙子がそのように言いたてると、葉月はとても悲しげな面持ちで口をつぐんでしまった。

 罪悪感をかきたてられつつ、美沙子はそれでも言葉を重ねてみせる。


「あんただって、静夫がトチ狂う姿を見てるでしょ? 吉岡はもちろん、静夫だってまともじゃないんだよ。あたしだって、身内にあんなイカレ野郎がいるってのは我慢がならないけど……変に情けをかけたって、もう手遅れだろうと思うよ」


「でも……静夫くんがおかしくなっちゃうのは、いつも吉岡のせいだったでしょ? だから、あいつさえ何とかすれば、静夫くんも救われるんじゃないかって……私はそう思ったんだけど……」


「んー、まあ確かに、静夫がイカレてるのは吉岡の影響なのかもしれないけどさ。メンヘラは伝染るとかいう俗説もあるしね」


「メ、メンヘラは伝染る? って、何それ?」


「メンヘラ女とつきあってると、男までメンヘラ化するっていう俗説だよ。あたしの働いてる店にも、厄介なメンヘラ女がいてさ。それで、そいつと関わる男どもは、次々とメンヘラ化して身を持ち崩していったんだよねぇ」


 当時のことを思い出しながら、美沙子は苦笑した。


「でも、メンヘラなんてのは本人の気質なんだから、ウイルスみたいに伝染するわけがないでしょ? それであたしも気になって、ちょいと調べてみたんだけど……精神病理学には、感応精神病って言葉があるらしいんだよね」


「感応精神病……?」


「うん。それは、複数の人間が同じ妄想を共有するって話らしいけどね。それに関連して、鬱病の気質を持つ人間が鬱病の人間に近づくと、そいつに引きずられて鬱病を発症するケースがあるって書いてあったんだよ。だからけっきょくは、それぞれの本人が持つ気質しだいって話なんだけど……感応精神病ってのは、親密な関係である人間同士が世間から隔離されてると発症しやすいらしいんだよね」


「ああ……それはちょっと、静夫くんと吉岡の関係に当てはまるのかもしれないね」


「でしょ? あいつらは秘密の親子関係である上に、今では由梨枝さんの死にまつわる話でも秘密を共有してるわけだからね。そんなもん、社会に背を向けて二人きりで孤立してるようなもんさ。それでもともと似たような気質をしてたんなら、片方のイカレ具合がもう片方の人間に伝染してもおかしくないように思えるね」


「そっか……」と、葉月は真剣きわまりない面持ちで思案した。


「それなら……秘密を秘密でなくしちゃえば、あの二人もおかしくならずに済むんじゃない?」


「ん? どういうこと?」


「母さんの言う通り、あの二人はおかしな秘密を抱え込んでるから、どんどんおかしくなっていっちゃってるんだよ。由梨枝さんの死の真相と、由梨枝さんと吉岡の不倫関係と、静夫くんと吉岡の親子関係と、吉岡の馬鹿げた計画――それを全部いっぺんに暴露しちゃえば、あの二人もおかしくならずに済むんじゃない?」


「ずいぶん荒っぽいことを言い出すもんだね! そんな話を聞かされたら、今度は隆介クンや孝信さんのほうが暴走しちゃうでしょうよ!」


「隆介くんと孝信さんは、きっと大丈夫だよ。私が経験した四回目のときも、二人は何とかこらえてくれたもん。それよりも、静夫くんと吉岡をどうにかするのが重要なんだよ」


 凛々しい表情を保持したまま、葉月はそのように言いつのった。


「静夫くんや吉岡が暴走すると、話が無茶苦茶になっちゃうでしょ? だから、あの二人が暴走する理由を排除するんだよ。あの二人が暴れられないような状況で、すべての悪だくみがもう手遅れだって思い知らせてやれば……二人とも、大人しくなるんじゃないのかなぁ?」


「待った待った! あんたは何か光明を見出したみたいだけど、あたしはちっとも理解が追っつかないよ!」


 美沙子はその場に座りなおして、葉月の凛然とした顔を間近から覗き込んだ。


「まず、あんたはどんな結末を想定してるのさ? たとえ隆介クンたちがその場で怒りをこらえられても、静夫や吉岡を恨むことに変わりはないよね? 吉岡は由梨枝さんの不倫相手で、静夫は由梨枝さんを殺した張本人なんだろうからさ」


「うん。すべての事実を知っちゃったら……もう和解するのは不可能かもね」


「だったら、静夫は家族と険悪な関係なまま、母親殺しの罪で矯正施設送りかい? それじゃあ根本的な解決にはならないよ」


「私も、それは考えたよ。そのために、二つの条件をクリアする必要があるんだと思う」


 蓮田千夏を彷彿とさせる力強い口調で、葉月はそう言った。


「まずひとつ目は、静夫くんにお祖母ちゃんへの執着を捨てさせること。静夫くんがどんなに思いを募らせても、お祖母ちゃんを振り向かせることはできないって思い知らせるんだよ」


「それができたら、世話はないでしょ。あんたはどういう策を持ってるのさ?」


「私が、告発者になるんだよ。由梨枝さんを殺したのは静夫くんだって、私が――蓮田千夏が、告発するの」


 葉月の気迫に呑まれて、さしもの美沙子も言葉を失ってしまった。


「それで、二つ目はね。静夫くんと吉岡を、和解させるんだよ。吉岡がおかしな計画を立てて、こっそり日記帳を隠し持ったりしてたから、静夫くんはあんなに怒ることになっちゃったけど……それをどうにか、なだめるの」


「……そうしたら、どうなるんだい?」


「吉岡が、静夫くんの支えになるんだよ。家族や蓮田千夏との関係が最悪になっちゃっても、吉岡ときちんとした関係を維持できれば……静夫くんの心も救われるんじゃない? 吉岡が本当の父親なんだったら、なおさらにね」


 そんな風に言ってから、葉月はふっと微笑をこぼした。


「母さんも、あの二人が和やかに会話するところを見たんでしょ? 吉岡は本当に心から、静夫くんのことを大切に思ってるんだよ。でも……私たちが関与していない一番初めの歴史でも、母さんは吉岡のことを見たことがなかったんだよね?」


「うん。あたしの知ってる診療所のお医者は、もっと丸顔の爺さまだったよ」


「だからきっと、そこでもあの二人は決裂してるんだよ。静夫くんが吉岡の裏切りに気づいて追い払ったのか、それともこっそり殺しちゃったのか……とにかく吉岡は、静夫くんのそばにいられなくなった。それで静夫くんは誰に頼ることもできなくなって、いっそうおかしくなっちゃったんじゃない? だから……静夫くんが独りぼっちにならないように、あの二人が心置きなく親子として過ごせるような環境を作ってあげるんだよ」


「つまり……あの二人が持ってる執着心を、おたがいだけに向けさせようって計画なわけかい」


「うん。そうしたら、たとえ静夫くんが矯正施設送りになっても、吉岡が支えになってくれるはずだよ。それで二人が幸福な親子関係を築けたら、四十年後に病院を脱走したりすることもなくなるんじゃないかなぁ?」


「あんた……ずいぶん素っ頓狂なことを言い出してくれるもんだねぇ」


 美沙子はさまざまな思いに胸の中をかき回されながら、溜息をつくことになった。


「でもさ、静夫は吉岡が日記帳を隠し持ってただけでぶっ殺そうなんて考えるやつだし、吉岡は静夫の気持ちも考えずに家族を一掃しようなんて考えるやつなんだよ? あの悪魔みたいな二人が清く正しい親子関係を築く姿なんざ、あたしはこれっぽっちも想像できやしないよ。あいつらをまとめて始末しちまうほうが、百倍も簡単なんじゃないのかねぇ」


「それじゃあ隆介くんと孝信さんは、真相を知らないままずっと生きていくの? それに、あの二人は静夫くんのことを大切な家族だと思ってるんだよ。真相を知らないまま、静夫くんを失うことになったら……どれだけ悲しい気持ちになると思う?」


 そう言って、葉月は遠い眼差しになった。


「それにね……元の世界に戻ったとき、私はすごく苦しかったんだよ。私がおかしな介入をしたせいで、吉岡は死ぬことになって、静夫くんは病院送りになっちゃって……しかも、由梨枝さんの一件はうやむやのままだった。こんなの何の意味があるんだよって、私はそんな気持ちでいっぱいだったの。だからやっぱり、あれは正しい結末じゃなかったんだよ」


「それじゃあこれが、あんたの言う正しい結末だっていうのかい?」


「うん。隆介くんも孝信さんも、静夫くんも吉岡も、全員が真実を知るべきなんだと思う。その上でそれぞれの苦しみを乗り越えないと、きっと意味はないんだよ」


 美沙子はもはや、反論する気力を失っていた。

 それほどに、葉月の言葉には断固たる意志の力がみなぎっていたのだ。


(これはもう、母さんの持つ気力に祖母さんが圧倒されたってことにしてもらおうかね。じゃないと、あたしの立つ瀬がないからさ)


 そんな風に考えながら、美沙子は葉月の頭に手をのばそうとした。

 葉月はたちまち顔を赤くして、「やめてよ」とその手から逃げ惑う。美沙子としては、そんな葉月の葉月らしい仕草で心を慰めるしかなかった。

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