第二の死

 ………スケテ……


 葉月の悲痛な声を聞きながら、美沙子は再び覚醒した。

 美沙子が愕然として飛び起きると、そこで待ちかまえていたのは古びた家屋の六畳間である。

 美沙子は骨ばった腕を見下ろして、それが祖母たる蓮田節子の肉体であることを確認してから、頭を抱え込んだ。


(あたしひとりが助かっても、意味はないんだよ! 父さんが……父さんが人殺しになっちまったじゃないか!)


 それから美沙子は、ふっと違和感にとらわれた。

 蓮田節子の肉体は何事もなかったかのように、自宅の寝室の布団で寝かされている。あわや溺れ死ぬところであったはずであるのに、さえないベージュ色のパジャマを着込んで、タオルケットを腹に掛けられていたのだ。これは美沙子が初めてこの時代で目覚めたときと、まったく同一のシチュエーションであったのだった。


 それに美沙子は、五体をかき回す川の急流がセピア色の奔流に変じるさまも、しっかり記憶していた。

 セピア色の奔流――美沙子は前回もそんな異様な感覚の果てに、この四十年前の世界に送り込まれることになったのだった。


(もしかして……)


 美沙子は慌ただしく寝室を出て、無人のダイニングを突っ切り、玄関のガラス戸を開いた。

 赤錆の目立つ郵便受けに、折りたたまれた新聞が差し込まれている。それを広げて、日付を確認してみると――昭和五十七年八月十日と記載されていた。


 美沙子は唇を噛みながら、壁掛けの時計に視線を巡らせる。

 時刻は、九時ジャストである。

 この明るさであるのだから、午前であることに疑いはない。

 美沙子は息をつきながら、用済みの新聞を足もとに放り捨てた。


(間違いない。あたしは溺れ死ぬのをまぬがれたんじゃなく……また同じ時間に引き戻されたんだ)


 美沙子にはさっぱりわけがわからなかったが、それは最初から同じことだった。四十年前の時代に放り込まれて、祖母である蓮田節子の身であるという時点で、美沙子には理解の外であったのだった。


(でもまあ、それなら好都合だ。父さんが人殺しになることを止められるわけだからね)


 美沙子は持ち前の精神力でもって、支度を整えることにした。

 時間は、十分に残されている。寝室に戻って前回と同じ衣服に着替えながら、美沙子はそれがどれだけの時間であるかを計算した。


(あたしが前回この家を出たのは、九時十五分。それから十分ぐらいかけて、野々宮の家のすぐ手前でクソジジイと出くわして……診療所までは、二十分ちょい。クソジジイの診察が始まるまでは、たぶん三十分ぐらい。あいつが吉岡ってお医者を殺したのを見て、どれぐらい呆然としてたかはわからないけど……帰り道でもあいつの後ろ姿は見えなかったし、あいつはその間に父さんを呼び出したりしてたんだから、まあ短く見積もっても五分ていどってところか。で、診療所から野々宮の家に戻るのに二十分ちょいだから……合計で、ざっと二時間弱ってところかな。父さんがクソジジイとお堂の前で対決したのは、十一時になる少し前ぐらいってことだ)


 身なりを整えた美沙子は、枕もとに置かれていた腕時計も装着することにした。

 キッチンに移動したのちは、タオルにくるんだ出刃包丁を籐編みの買い物かごに忍ばせる。今回こそ、これを活用できるはずであった。


(あのお堂の前だったら、人目はない。あたしが待ち伏せをして、父さんが来る前にあいつを始末するんだ。父さんに疑いがかからないように、死体は川に流しちまうのがベストだろうね)


 その作戦でいくと、吉岡医師はけっきょく野々宮静夫に殺されてしまうわけだが――美沙子の胸に、取り立てて罪悪感は生じなかった。あの男も美沙子の父親に母殺しの冤罪をかけようと目論んでいたのだから、同情する気にもなれなかったのである。


(悪いけど、あたしはそこまで親切じゃないんでね。こちとら、自分の家族を守るだけで手一杯なんだよ)


 診療所まで往復すれば、またこの貧弱な肉体は大きく体力を削られることになる。それに、吉岡医師を救おうとすれば、その後の運命もどのように転ぶか予測もつかなかったのだった。


(あいつがこの家の前を通りかかるのは……九時三十五分ぐらいか。いちおう十分前ぐらいから、その姿を見届けておこう)


 その間に、美沙子は冷蔵庫の麦茶で水分を補給しておいた。野々宮静夫はいかにも非力そうな少年であったが、こちらもそれに負けないぐらい貧弱な肉体であるのだ。万全の体調で不意打ちでもしない限り、勝ち目は薄いかもしれなかった。


(ああ、そういえばあいつは、脇腹を怪我してたっけ。いざとなったら、そこを狙ってやろう)


 ダイニングの座席に座った美沙子は壁掛けの時計をにらみ据えながら、そのように考えた。

 これから殺人の罪を犯そうというつもりであるのに、美沙子の心には躊躇も気後れもない。美沙子は大事な一人娘を殺された恨みばかりでなく、大事な父親を殺人者に仕立てられた怒りをも抱え込むことになったのだった。


(しかもあいつは、自分の母親まで殺してたんだ。確かに元の時代でも、施設や病院でそんな風にわめき散らしてたって話だもんな。本当に、なんて最悪なやつなんだろう。あんなやつが父さんの弟だなんて、ぞっとするよ)


 そんな風に考えたとき、美沙子の頭がずきりと痛んだ。

 二つに分裂した記憶が、美沙子の頭を苛んだのだ。


(うーん。タイムリープして祖母さんに成り代わるってのも、十分に無茶苦茶な話だけど……この記憶の混乱は、いったい何なんだろう。クソジジイが人殺しとして捕まった記憶と、クソジジイがいつまでも家に居座ってた記憶……どっちも本当のことだとしか思えないんだよなぁ)


 しかしそういった事柄に思いを馳せると、頭が割れるように痛んでしまう。

 美沙子はもうひと口麦茶を飲んでから、その苦悩を打ち捨てることにした。


(あたしの記憶なんて、どうでもいいんだ。あたしはクソジジイを殺して、葉月の未来を守る。それがかなうなら、後のことはどうでもかまわないさ)


 そうして時計の針が九時二十五分を指し示したところで、美沙子は家を出た。

 体力を温存するべく、家の影から橋の向こうの道を見守る。あと十分もすれば、死にかけたナメクジのような少年がこの場所を通りすぎるはずであった。


 そうして、腕時計が九時三十分を示したとき――家の中から、目覚まし時計のベルと思しき音色が響きわたってきた。

 美沙子は銃声でも聞いたかのように、思わず身を伏せてしまう。そういえば、家の中では美沙子の母親である蓮田千夏が安眠をむさぼっていたのだった。


(高校生の母さんなんかと顔をあわせたって、気まずいだけだからね。悪いけど、スルーさせていただくよ)


 美沙子は息をひそめながら、橋の向こうを注視し続けた。

 が――腕時計の針が九時三十五分を過ぎても、野々宮静夫は現れない。

 さらにもう十分ほどが過ぎ去ったところで、美沙子の中に焦りが生じた。


(あいつは、なんで来ないんだよ? あいつはのろのろ歩いてたから、あたしが家を出る前に通りすぎるはずがないし……だからって、こんなに遅いはずがないでしょ?)


 まさか、たとえ同じ日の繰り返しであっても、同じ行動を繰り返すわけではないのだろうか? もしもそうなら、美沙子の立てた作戦は根底から覆されてしまうのだった。


(まいったなぁ。あいつはもう診療所に向かってるのか、それとも家にこもってるのか……いっそのこと、家に押しかけてやろうかな)


 しかしそうすると、野々宮静夫ではなく野々宮隆介のほうに出くわしてしまうかもしれない。両親がつつがなく正しい運命を辿れるように、美沙子はなるべく接触を避けておきたかった。


(うーん、どうしよう。もしもあいつが診療所に向かっていないとしたら、吉岡ってお医者を殺すこともなく、父さんを呼び出すことにもならないわけだから……お堂で待ち伏せしてても、空振りだよなぁ)


 そもそも美沙子の記憶において、野々宮静夫が吉岡医師を殺害するのは、野々宮家の応接間であるはずなのだ。美沙子はただでさえ記憶が錯綜してしまっているのに、野々宮静夫が診療所で吉岡医師を殺害する歴史というのは、そのどちらとも合致しないのだった。


(でも、由梨枝さんっていう野々宮の祖母さんはもう死んじゃってるわけだから……クソジジイがトチ狂うのも、もうすぐのはずだ。あたしはあいつが警察に捕まる前に始末しないといけないのに、これじゃあ作戦も立てられないよ)


 美沙子がそのように思い悩んでいる間にも、刻々と時間は過ぎていく。

 そしてついに、時計の針が十時に達しようとしたとき――道の向こうに、ほっそりとした人影が現れたのだった。


(……来やがった!)


 美沙子は家の壁にべったりとへばりつきながら、その人影の挙動をうかがった。

 前回よりも、いくぶん足取りが軽いように感じられるが――間違いなく、野々宮静夫だ。

 そして野々宮静夫は、道を通りすぎずに橋を渡ってきたのだった。


(なんで、こっちに来るんだよ!)


 美沙子は頭を引っ込めて、買い物かごの出刃包丁に手をのばしつつ、耳をすませた。

 しばらくして、けたたましいブザーの音が鳴り響く。この家の、来客を告げる騒音である。


(このクソジジイ……まさか、母さんに何かする気なの?)


 野々宮静夫は、蓮田千夏に恋心を抱いているのである。

 前回の体験でその事実を知ってしまった美沙子は、いっそう強い力で出刃包丁の柄を握りしめることになった。


「遅れちゃって、ごめんね。これでも、急いできたんだけど……」


 野々宮静夫の声が、うっすらと聞こえてくる。

 蓮田千夏が何か答えたようだが、そちらの声は聞き取れなかった。


「そっか……体調が悪いなら、しかたないね……ううん、いいんだよ。それじゃあ……いつか体調がよくなったら、僕と遊んでくれる……?」


 どうやら蓮田千夏は、体調不良で野々宮静夫の誘いを断ったようである。

 それでも美沙子が息を詰めて様子をうかがっていると、ガラス戸の閉められる音がした。


 足音が、家の前から遠ざかっていく。美沙子がこっそり壁の向こうを覗き込んでみると、とぼとぼとした足取りで橋を渡っている野々宮静夫の姿が見えた。

 野々宮静夫は橋を渡りきると、悄然とした様子で道の左右を見比べた。

 右に向かえば診療所、左に向かえば野々宮の家である。

 しばらく迷うように立ち尽くしていた野々宮静夫は、やがて死にかけたナメクジのような足取りで野々宮の家の方角に立ち去っていったのだった。

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