プロローグ

 令和四年八月九日――

 その日の昼下がり、私は薄暗い土蔵の中で、汗だくになりながらガラクタの山と格闘していた。

 昔の人々は、いったいどういった思惑でこのような建築様式を考案したのか。とにかくこの土蔵というやつは黴臭くてしかたがないし、窓らしい窓も存在しないため、入り口の扉を開け放しにしていてもうだるように蒸し暑い。今日のような夏の盛りには、もう地獄そのものである。ほんの小一時間こもっているだけで汗を吸ったTシャツがべったりと肌にはりついてきて、不愉快なことこの上なかった。


 数日前に誕生日を迎えた私は、十六歳の高校一年生となる。よって現在は、楽しい夏休みの真っ只中だ。今日のつい朝方まではエアコンのきいた部屋で快適に過ごすことができていたのに、この落差はいったいどういうことだろう。日本全国の女子高生の中で、今の私ほど不本意な気持ちでいる人間はそうそういないに違いない。そんな風に考えると、私は情けなくて涙をこぼしてしまいそうなほどであった。


「葉月、お疲れさん。何かお宝は見つかった?」


 と、背後から能天気な声を投げかけられて、私はいっそう腹立たしくなってしまう。それは私をこんな目にあわせた張本人、母親の美沙子だった。


「こんな場所に、お宝なんてあるわけないじゃん。全部まとめて廃品回収に出したほうが手っ取り早いよ」


「それじゃあこっちが損するばかりじゃないのさ。これまで苦労させられた分、ちょっとはいい目を見させてもらわないとね」


 母親の美沙子はへらへらと笑いながら、そんな風に言っていた。

 母は二十歳という若さで私を産んだので、まだ三十六歳だ。セミロングの髪はアッシュブロンドに染めあげて、タンクトップにショートパンツという露出の多い格好をしている。そんなファッションが似合うぐらい若々しくて美人なのだが、私は物心がついた時分からこの母親が苦手だった。

 むやみやたらとアクティブで、負けん気が強くて、好奇心が旺盛で――つまりは、私と正反対の人間なのである。どうしてこんなけたたましい人間から私のように陰気な子供が産まれたのか、どれだけ頭を悩ませても納得のいく理由は思いつかなかった。


(でも……どうして母さんがこんなに負けず嫌いなのかは、わかったような気がするな)


 私がガラクタの山と格闘しているこの土蔵は、母の実家の持ち物であった。場所は、千葉県のT市――私たちが暮らす八王子からは車で三時間ばかりもかかる、辺鄙な土地である。私たちの地元だって都心とは言い難い土地柄であるのかもしれないが、このT市というのは山林だらけの田舎であり、しかも母の実家はとりわけ山深い一画に存在したのだった。


 母にこのような実家があったことを、私はまったく知らなかった。母はずいぶんおしゃべりな人間であるくせに、自分の過去についてはほとんど語ろうとしなかったのだ。それが今日の朝、何の前触れもなしに「実家に行くよ」と宣言して、私を中古の軽自動車に押し込んで――そしてこの場所を目指す道中で、いきなり自らの半生を語り始めたのだった。


「あたしはね、六歳の頃に交通事故で両親を亡くしてるんだよ。それで遠縁の親戚に引き取られて、東京に移り住むことになったのさ」


 高速道路でぐいぐいとアクセルを踏み込みながら、母は何かに挑むような顔つきでそんな風に言っていた。


「実家にはロクでもない人間しか残ってなかったから、あたしにとってはこれが初めての里帰りってわけだね。で、そのロクデナシのクソジジイがいよいよくたばりそうだから、実家のあれこれを整理してみたらどうだいって、親切なお人が連絡をくれたわけさ」


「ロクデナシのクソジジイって……誰?」


 私がそのように反問すると、綺麗に整えられた母の眉が鋭角に吊り上げられた。


「あたしの父親の兄弟だよ。本当にもう、胸糞の悪いジジイでさ! そいつがずっと実家に居座ってたもんだから、あたしは近づきたくもなかったんだよ!」


 母の口の悪さはいつものことであったが、そのときの剣幕は常軌を逸していた。それで私も、いっそう暗鬱な心地になってしまったわけであった。


 やがて到着した母の実家は、びっくりするほど大きくて、びっくりするほど古びていた。映画か何かに出てきそうな純和風のお屋敷で、四方は背の高い土塀に囲まれている。しかし、もう何十年も手入れをされていないようで、広々とした前庭には雑草が生い茂り、ちょっとした地震で倒壊してしまいそうなたたずまいであった。


 飴色を通り越してすっかり黒ずんでいる門柱には、『野々宮』の表札が掛けられている。母いわく、昔はこの村落の大地主であったようだが、現在は田畑も売り払い、この大きくて古びた家しか残されていないのだそうだ。


「でもまあこれだけ古ければ、何かお宝が眠ってるかもしれないからね。どうせ土地代なんて二束三文で、下手をしたら相続税で損するぐらいだろうからさ。なんとか金目のものを発掘して、生活費の足しにしようって話なわけよ」


 そうして私は、この土蔵でガラクタの山を相手取る羽目になったわけだが――頭の中に渦巻くのは、母から聞かされた鬱々たる半生についてであった。

 六歳で両親を亡くした母は遠縁の親戚に引き取られて、肩身のせまい思いをしながら自力で生きる道を切り開くことになった。中学を卒業した後は経済的な援助も見込めなかったため、アルバイトをしながら夜間学校に通い、零細の編集プロダクションに就職して、ゆくゆくはフリーランスのライターにという意気込みで奮闘していたが、結婚を約束していた男に逃げられて、たったひとりで私を産むことになり――現在は、水商売で生計を立てている。これもいっぱしのライターになるための人生経験だなどと息巻いていたが、私には母のそんな強がりが虚しく感じられてならなかった。


(きっと母さんは、自分がお金で苦労してきたから……こんな負けず嫌いの人間になっちゃったんだ)


 こんなに大きな地主の家に生まれつきながら、何の恩恵にあずかることもできないまま両親を失い、引き取られた先では邪険に扱われて――それで母はこんな意固地な人間に育ってしまったのだろうと、私にはそんな風に思えてならなかったのだった。


「あたしだって、せっかくの休みを潰してまで乗り込んできたんだからね! 手ぶらじゃ帰れないから、あんたも頑張ってよ、葉月!」


 と、現在の母の言葉が私を追憶から引き戻した。

 薄暗い土蔵の中で、私は埃まみれのダンボールをあさっており、母は棚から木箱を下ろしている。母はさっきまで裏の物置をあさっていたはずだが、そこでは何の収穫も得られなかったようだった。


「頑張ってって言われても、ガラクタはガラクタだよ。母さんは、いったい何を期待してるわけ?」


「金目のものなら、なんでもいいんだよ! 骨董品だとか、値打ちもんの古本だとか、これだけ古い家だったら何かしらあるでしょ!」


「そんな値打ちのあるものは、とっくに処分されちゃってるんじゃない? 母さんが家を出た後に、たくさんあった畑とかもみんな売り飛ばされたって話なんでしょ?」


「ああ、あのクソジジイにね! うちは早死にの家系だってのに、どうしてあんなクソジジイだけ長生きしてるんだか、本当に理不尽な話だよ!」


「早死にの家系」という言葉に、私の心臓が頼りなく震えた。


「早死にの家系って? 母さんの両親は、交通事故で亡くなったんでしょ? そんなの、寿命とは関係ないじゃん」


「うん。だけど、あたしが産まれた頃には祖父さんも祖母さんも全滅してたんだよね。母方のほうは両方病死で、父方のほうは……祖父さんがアル中で、祖母さんが自殺」


「じ、自殺?」


「うん。クソジジイが、楽しそうに話してたもん。自分の母親が自殺した話を、にやにや笑いながら自慢話みたいに語ってたんだよ。最悪でしょ?」


 私は、いっそう暗鬱な気分になってしまった。

 そうして、新しいダンボール箱の蓋を開き――思わず、息を呑んでしまう。

 私はそこに、ありえないものを発見してしまったのだった。


(何これ……いったい、どういうこと?)


 それは、プラスチックのフォトフレームに収められた一枚の写真だった。

 相当に古い写真なのだろう。かろうじてモノクロではなかったが、すっかり褪色してセピア色になってしまっている。そこに映されているのは、男の子のようなショートヘアをした少女の笑顔で――その顔立ちが、私にそっくりであったのだった。


「か、母さん、この写真って……」


「写真が、何さ? どんなに古くったって、写真なんか売り物にならないでしょ」


「こ、これ、誰の写真なの? なんか、私にそっくりの顔なんだけど……」


「ああ」と、母は鼻で笑った。


「だったらそれは、あたしの母さん。あんたにとっては、祖母ちゃんだね。あんたは昔っから、祖母ちゃんに生き写しだったんだよ」


「私の、お祖母ちゃん……? 裏に、蓮田千夏はすだ ちかって書いてあるけど……」


「そうそう。まぎれもなく、あんたの祖母ちゃんだよ。旧姓ってことは、この野々宮の家に嫁入りする前の写真ってことだね」


 皮肉っぽい笑いを含んだ声で、母はそのように言葉を重ねた。


「それだけ若い頃だと、余計にそっくりでしょ? でも、似てるのは顔だけだね。あんたの祖母ちゃんは、すごく元気でへこたれない人だったもん。それでいて……ちょっと変わった人だったんだよね」


「変わった人……?」


「そう。なんか、人には見えないものが見えてるみたいな……霊感とかそういう話じゃないんだけど、ちょっと浮世離れした雰囲気だったね」


 フォトフレームに収められたセピア色の少女は、どこか透き通った微笑をたたえている。

 確かに顔立ちはそっくりだったが、私はこんな顔で笑えない。そして、自分と瓜二つの人間が自分の見知らぬ表情を浮かべているさまが、私の心を大きく惑乱させたのだった。


「そういえば、母さんはおかしなことを言ってたなぁ」


 私の混乱など知らぬげに、母が独り言のようにつぶやいた。


「由梨枝さんは、自殺するような人じゃない、ってさ。……あ、由梨枝ってのは、父方の祖母さんね。でも、その人は母さんがこの家に嫁ぐ前に亡くなってるんだから、何も詳しい事情なんて知らなかったろうにね」


 母がそのように語った瞬間、私の視界がセピア色に包まれた。

 世界のすべての色彩がぼんやりと霞んで、どろどろと溶け崩れていく。そうして私はセピア色の奔流に呑み込まれて――そのまま意識を失ってしまったのだった。

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