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 翌日の夕方、私はバスの座席に身を預けながら考えを巡らせていた。本来ならば英単語帳でも眺めて過ごすべき時間なのだが、どうにも妖怪を自称した奇怪な人物とのやり取りばかりが思い出され、集中できなかったのである。

〈夜行〉が訪れたなら、小町は喜ぶだろう。しかしその見返りは? 割に合うとは考えにくい。そもそも妖怪変化と取引などして、ろくな結果になるわけがない。

 なにを差し出してもらうかまだ決めかねている、とユイガミは言った。人間から回収できる「大切なもの」は無数に存在し、かつその力は常に変動している。もう少し様子見をしてもっとも有利なものに絞りたい、というのが彼の理屈だった。

「この場で回答を迫るのも申し訳ないと思うしね。そちらも、多少の猶予があったほうがいいだろう。次に会うときまでに、ぜひ考えておいてもらいたい」

 小町はというと、ユイガミが去った直後、何事もなかったかのように眠りから覚めた。急に眠くなったので寝てしまっただけだという。心身にどこといって異常はなく、健康そのものの様子だった。

 本当に驚いたんだから、と口調を乱した私に、彼女はのんびりとこう告げた。不思議な夢を見ていた――。

 程なくしてバスが停まった。書店でも覗いて帰ろうと思い立ち、駅ビルに足を向ける。大都会とは言い難いのだろうが、県内最大の都市である。最近はさすがに慣れてきたが、高校入学直後は賑わいぶりに驚いたものだった。通っていた中学の周辺には、田畑と民家、シャッターを下ろしたきりに見える個人商店くらいしかなかったのだ。

 目当ての書店は三階にあった。書架のあいだを漫然と行き来していると、私は突如として雷に打たれたかのような衝撃に見舞われた。反射的に身を隠す。見覚えのある、より正確にいうと平日の日中は常にちらちらと目で追っている人影が、そこにあったような気がしたからだ。

 棚の陰から慎重に様子を伺った。直感は当たっていた。途端に心拍数が上がるのを意識する。間違いなく来栖さんだ。

 幸いにして、こちらに気付いているようではない。手に取った文庫本に視線を落としながら、頁を繰っている。後姿を見つめているだけで動悸がした。すぐさま逃げ出したくも、いつまでもそうして留まっていたくもあった。

 来栖莉央さんは一年二組のクラスメイトだ。今頃はてっきり、美術室でキャンバスに向かっている最中だと思い込んでいた。美術部に所属しているのだ。

 彼女は不意に本を置き、立ち位置を変えた。まっすぐな長髪に縁取られたその少し物憂げな横顔が、視界に飛び込んでくる。硬質な星の瞬きに触れたような心地だった。

 唐突に目が合った。私が凍りついている一瞬のあいだに、彼女のほうから歩み寄ってきて、

「あ、周防さん」白い掌が顔の横で揺れる。「なんか探してたの?」

「ただ暇潰しっていうか――私、電車通学だから」

 自分でも情けないほどにしどろもどろな返答になってしまったが、来栖さんは気に留めた様子もなく、

「周防さんち、雛守だっけ? どのくらいかかるの?」

 出身地を認識されていたことに驚きつつ、「一時間ちょい」

「じゃあ朝は大変だ。私なんか徒歩十分だから、ちょっと想像できないな。雛守中から来たのって周防さんだけだよね」

「うん。でも受かったの、たぶんまぐれだと思う。数学が壊滅的だったし」

「私よりましだと思うよ。自己採点する気も起きなかった。電車まで、まだ時間あるの?」

 私は頷き、「今日は特に、予定もないし。帰りは何時でも」

「そっか」彼女は笑み、ごく自然な調子で、「じゃあさ、このあと少しだけ付き合ってくれない? 上の階なんだけど」

 ふたりで前後に並んでエスカレーターを上っていくあいだ、これは夢ではないかと疑っていた。四月から幾度となく空想してきた状況が、こうもあっさりと現実になってしまうとは。

 むろん来栖さんが、私の胸中を把握しているはずはない。たまたまクラスメイトを発見し、声をかけた。一時期とはいえ隣席同士で、同性ゆえの気安さもあった。ただそれだけの理由なのだろう。ここにいるのが私でなくても、きっと構わなかったに違いない。

 そうと頭では納得しつつも、私は舞い上がっていた。理由はどうあれ、いまこの瞬間、彼女はすぐ隣にいる。

 男子に対して、この種の感情を抱いたことはない。単なる趣味でも、あるいは矯正すべき病でもないことを、私は自覚している。それが自分と受け入れて、できるだけ正直であろうとしている。なかなか難しいことではあるけれど。

 CDショップのフロアが見えてきたタイミングで、来栖さんがふと口を開き、

「周防さんは部活、入ってないんだっけ?」

「いちおう文芸部だけど、あそこって厳しくないから。たまに読書会があるのと、あとは文化祭に出す部誌作りに間に合えば。来栖さんは――美術部だよね。今日は休み?」

 彼女は小さく笑い、「今日は自己鍛錬」

 来栖さんでもやはりそういうことがあるのかと思った。「普段、どんな絵を描いてるの?」

「コンクール向きのやつだよ。廊下によく貼ってあるでしょう? なんとか啓発週間とか、ああいうの。ねえ、この曲知ってる?」

「ああ――クイーン?」

 流れていたのは〈自由への旅立ち〉だった。映画がヒットして何度目かのブームが訪れているためだろう、彼らの曲はあちこちで耳にする。

「これクイーンなんだ。知らなかった。詳しいんだね」

「叔父さんが洋楽好きで、ちょっと影響されて。小さい頃からよく聴いてる」

 そんなふうに雑談を交わしながら、生活雑貨のフロアで下りた。迷うことなく足を進めていく来栖さんに追従する。やがて彼女は私を振り返り、「あそこ」

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