二〇一六年十二月三日 2016/12/3(土)14:39

 土曜日のせいか、多くの見舞客が出入りしている。大きな荷物を抱えている中年男性、子どもにマスクをつけさせている若い母親、その一人一人が、慈しみの心を抱いている。


 ――わたしだけ、違う。


 澄子は、一階の売店で念のためにマスクを買った。どういう病気かわからないが、最低限のマナーは必要だろう。


 そこへ、エレベーターホールの病棟案内図が目に入る。


 ――。


「……しまった。病室がどこか聞いてこなかった」


 家族ではないのだから、看護師も見知らぬ女に教えてはくれないはずだ。


 ――柿坂さんなら、知っているだろうけど。


 しかし、やはり気が引けた澄子は、塩山を介して確認することにした。そのついでに、世話になりっぱなしの運転手に、飲み物も買っていこうと再び売店に足を向けた時だった。



 店から出てきた細身の女性とすれ違う。



 その生気が抜けた顔に、澄子は見覚えがあった。


「あっ」


 思わず上げた大声に、女も、周りの見舞客も何事かと見つめてきた。慌てて口を覆うと、唯一、女だけが笑みを浮かべた。


「あら」


 そして、わずかに会釈をした。その意外な行動に、澄子は立ち尽くした。


 一度、顔を見られているとはいえ、初対面なのだから当たり前の仕草のはずだ。それでも、澄子は相手の真意が読めず狼狽した。


「誠司くんの、彼女さんよね」


 女――林芽衣が少しだけ上目使いで澄子を見つめた。


「い、和泉澄子と申します」


 ようやく発した言葉が、ただの自己紹介になってしまった。


 相手の得体の知れなさに、澄子は完全に飲み込まれた。



 仕方がない。目の前にいるのは――元犯罪者なのだ。


 女が柔らかく微笑む。


「はじめまして。林芽衣です。本当は、お外のテラス席でお話したかったけど、少し寒いわ。日当たりが良い場所があるの。そこでも良いかしら」


 芽衣が廊下の奥を指差す。澄子は慌てて引き止めた。


「あ、あの……どうして、わたしが……ここに来るって……」


 すると、芽衣は嬉しそうな顔をした。


「だって、中学生の頃から、ずっと誠司くんにお願いしてきたんだもの。彼女が出来たら会わせてねって」


「……」


「全然連れてきてくれなくて、寂しかったわ。ちゃんとアプローチしているのかしらって、心配になるくらい。それが、ようやく叶ったのよ?この前、塩山さんの引っ越し手伝いのついでに、あの子が私にも会いに来てくれて……。ふふ、そうしたら、大切な人が出来たって言うじゃないの。私、嬉しくて嬉しくて」


 早口で喋り過ぎたのか、芽衣は胸のあたりをおさえ、呼吸を落ち着かせた。しかし、尚も興奮したように話し続けた。


「それで、もしかしたら近いうちに彼女が会いに来てくれるかもしれないと思って、ナースステーションにも『女の子が訪ねて来たら、部屋へ通して』ってお願いしてあるんだから」


「え?」


「冗談よ」


 芽衣はニコニコ笑いながら澄子に手招きをした。


「昨日、誠司くんからメールが来たのよ。もしかしたら、今日はあなたが会いに来るかもしれないって」


 ――。


 戸惑いは消えないが、患者を立ちっぱなしにさせるわけにもいかない。澄子はおとなしく芽衣の後をついていった。


 エレベーターで連れてこられたのは、椅子が二脚だけ置かれた小さな休憩スペースだった。大きな窓から午後の日差しが入り込んでいる。


「ここは、意外に知られていないのよ」


 芽衣があたりを見渡すと、澄子に小首をかしげた。


「えっと、澄子ちゃん」


「……は、はい」


「悪いんだけど、あそこの自販機で飲み物を買ってもらえる?」


 細い指先には、小銭があった。


「そんな、自分で払います」


 澄子が拒むと、芽衣は尚も小銭を押し付けてきた。


「使って欲しいのよ。私は、もうじき必要なくなるかもしれないし」


 ――。


 芽衣は変わらず柔らかな笑みを浮かべている。その言葉、その表情に、胸が潰されそうになった。


「はい、いただきます」


 澄子は、言われるがまま、小銭を受け取った。


 ――わからない。


 自販機の前で飲み物を選ぶフリをしながら、澄子は芽衣の方をうかがった。

 ボンヤリと窓の外を見つめる横顔は、間違いなく病人のものだったが、あの柔らかな笑みはどこから来るのか。


 澄子は出会った人々の言葉を思い出した。


 香織は、あの女――芽衣と柿坂が、身体の関係を持っていると言っていた。


 一方で、塩山の老夫婦は、芽衣が柿坂の新しい母親として愛情を注いだと信じている。


 そして、塩山は芽衣が元は犯罪者だと教えてくれた。


 ――本人は……何を話してくれるのだろう。


 澄子は、紙パックのウーロン茶とリンゴジュースを手にしながら、芽衣の元へ戻った。


「どうもありがとう。ごめんなさいね、せっかく来てもらったお客さんに、こんなことさせて」


「いえ……」


 澄子は芽衣の隣に座った。重たい沈黙を覚悟したが、芽衣は立て続けに話し始めた。


「澄子ちゃんは、おいくつなの?まだ若そうだけど」


「わ、若くはないですよ……えっと」


 ――今日が誕生日なんて、言えない。


「三十九歳です」


「あら、誠司くんと同い年かしら」


「柿坂さんの方が、一つ上だと思います」


「あの子は早生まれだから……学年が上なのね」


「そう、だったんですか」


 澄子が知らない柿坂の情報を芽衣は持っている。きっと、それはたくさんあって、澄子が知りようもないことも――。


 澄子は気分が落ち込みそうになるのを、必死に振り払った。


 一方で、芽衣の顔からは笑みが消えない。本当に、澄子との会話を楽しんでいるように見える。花火祭りの時に値踏みするような表情とは違う。


 ――どうしよう。


 澄子は、大きく息を吸うと、意を決して芽衣に向き直った。


「あの、林さんとお呼びすれば良いですか?」


「ううん、芽衣が良いな。名字は何か落ち着かない」


 その理由はあえて聞かない。澄子は小さく頷き返した。


「芽衣さん……鈴峰町の花火大会で、お会いしてますよね」


「そうね。とても浴衣が似合う子だなって思ったわ」


 やはり、笑みを浮かべている。その不思議なあどけなさに、澄子はどんどん自信を失くしてきた。


 ――本当は、みんなの話が嘘だったりするの?


 澄子の迷いなど知るはずもなく、芽衣がリンゴジュースにストローを挿した。


「私の目に狂いはなかったわあ。誠司くんの大切な人は、やっぱり貴女だったのね」


「え?」


「花火大会のステージ、あの子ったら、演奏しながらずっと澄子ちゃんのこと気にしていたもの。ふふ、無意識なのかもしれないけど、やたらと装飾音ばかり入れて……やっぱりカッコつけたいわよね。でも、演奏自体には心がこもってなかったわ。下手くそ」


 困ったように眉をしかめると、芽衣はまた笑った。


 ――柿坂さんが、ステージの上からわたしを気にしていた?


 そういえば、馬のいななきを鳴らした瞬間があった。あれは偶然かと思ったが、ちょうど、澄子が香織と芽衣の存在に心が乱された時と重なるかもしれない。


 ――もしかして、ずっと見てくれていたの?


 すると、芽衣が背もたれによりかかり、大きく息を吐いた。


「それに比べて、香織ちゃんはガツガツし過ぎよ。見た目が良くても若くても、時には仇となるのねぇ。私もあの子は苦手だわ」


 芽衣が楽しそうに笑った。澄子は、少し不快になり、つい言葉を返した。


「……そんな言い方は……」


「だって、本当のことだもの。あれじゃあ、誠司くんは安心できないわ」


 澄子はその言葉に捉われた。


「安心できない……?」


 ――。


 少しこめかみが痛くなる。


「あの、それはどういう……」


 しかし、それには答えず、芽衣は柔和な笑みを浮かべたまま、満足げにうなずいた。


「誠司くんと仲良くしてくれてありがとう。本当、嬉しいわ」


「……」


 澄子の中で、あらゆる人間たちの言葉が錯綜する。


 ――わからない。


 犯罪者だと聞いた。


 それなのに。


 ずっと柔らかい笑みを浮かべているその顔に、一ミリの悪意がないのだ。


 もちろん、それすらも隠し通されていたら、太刀打ちできない。


 その芽衣の笑みが、少し悲しげなものに変わった。


「ああ、でも。残念……。せっかく知ってもらいたかったのに……」


 深いため息を吐かれる。


「ちょっとだけ誠司くんから聞いたわ。澄子ちゃんは、昔から男が苦手みたいね。お付き合いも経験がないのかしら?」


「……」


 澄子は、唐突な問いかけに上手く反応できなかったが、芽衣は納得したようだった。


「だとしたら、身体が締め付けられて、ジュースが搾り出されるようなアレの感覚を味わったことないのね。でも、女の私でよければ……試せるかしら」


 芽衣が、澄子の左手をさすっている。


「……え?」


「あなた、四十前なのに、お肌が綺麗だわ。ちゃんとお手入れしているのね」


 ――。


 向けられた眼差しは、あの花火の夜と同じだった。値踏みをするような目つき――。


 それは、熱を帯びて、怪しい色気があった。


「やっ」


 澄子は反射的に手を振り払った。


 芽衣は、笑いながら肩をすくめた。


「ごめんなさい。冗談よ」


「……」


「手を出すなって、誠司くんにも注意されたんだったわ」


「は、はい?」


「こっちの話。ああ、ちゃんと本題に入らなきゃ」


 芽衣は壁にかかった時計に目をやり、肩をすくめた。


「そうは言ってもねえ……誠司くんから構わないと言われてはいるけど、本当に何から何まで話して大丈夫なのかしら」


 澄子は、どうにか気持ちを落ち着かせ、女を見つめ返す。


 すると突然、芽衣は澄子に向かって頭を垂れた。


「ごめんなさい。全部、私が悪いのよ。だから、誠司くんのこと……嫌わないであげて」


「え?」


 芽衣は、リンゴジュースを一口飲むと、悲しそうに笑った。


「誠司くんが、あんな風に怖い顔して素直じゃないのは、昔、パパが自殺しちゃったからなのよ。澄子ちゃんも誠司くんとは色々と苦労しているんじゃない?」


 切り出された言葉は、澄子の予想以上に赤裸々なものだった。


 ――ちょっと、待って。


「あ、あの」


「そもそも、パパが死んじゃった理由はね」


 戸惑う澄子をよそに、芽衣はいたずらをした幼子のような顔で、小さな口から舌をのぞかせた。



「見ちゃったのよ。私と誠司くんのセックスを」



 ――。


 あっさりとその事実は告げられた。


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