第一章 誘拐 ⑦

       7


 凜と子陣、秦影と皇城司の武官たち二十人は、南天門近くに先回りし、ひそかに舟数そうに分かれて乗って陳運の動きを見張っていた。

「あれじゃない?」

 日が暮れて、夜の闇が広がりつつある中、月が皎々こうこうと三人の男を照らした。小走りでこちらにやって来る。

「年寄りが陳運。右の太っているのが長男の陳清。背の高い猫背が陳柏です」

 秦影が小声で言う。

 彼らはほろのある小舟に乗り込み、かじを取る。

「追うぞ」

 舟はゆっくりと北に向かって動き出す。

 水は夜の闇を含んで底まで真っ暗だった。川辺に植えられた柳が微風に揺れている様はなんとも心もとない。両端の店の提灯ちようちんの灯りが揺れ、酒楼に入ろうとする人々の笑い声や笛の音がどこか遠くに聞こえてくる。

「見失いそう。もっと近づいたらどう?」

「こちらに気づかれたらまずい」

 どれくらい息を潜めて陳炭鋪の舟を追っていただろうか。

 気づけば、街の灯りは消え、騒がしい繁華街から寂れた場所へと移っていた。川幅がやや広くなり、夜風に薄着の肩が冷える。

 陳炭鋪の舟が岸についた。

 杭州城の北端の寂れた場所だ。灯りもない野っ原が広がっている。陳家の三人は陸に上がると、提灯に火もつけず秋虫の鳴く草むらの小道を慎重に歩いて行く。

「行こう」

 凜たちも舟を岸につけた。

「のろのろするな、さっさと手を出せ」

 凜が舟の上でもたついていると、子陣が手を差し出した。凜はその手を掴んで舟から下りる。口は悪いが子陣は悪い人ではない。

 舟が大きく揺れたが、彼がしっかり支えてくれたから、転ばずにすんだ。

「ありがとう」

「しっ。静かに」

 道には水を含んだ草が茂り、むっとする湿気があたりを包んでいた。

 スニーカーではなく絹の靴で歩くのは、なかなか根性がいることだった。なにしろ地面はアスファルトではない。デコボコの道に石がごろごろしている。石が足の裏に容赦なく突き刺さり、凜は顔をしかめた。

 ――昔の人、タフすぎでしょう。

 武官たちは重そうなよろいを来て武器を持っているのに、息を切らしもせず舗装されていない道をどんどん行くので、凜は尊敬し始めさえした。

 ――そういえば、悠人はどうしてるかな……。

 黙々と歩いていると、今まで考えまいとしていたことを思い出してしまう。

 ――スマホさえあれば、悠人のSNSを見られるのに。

 もしかしたら、凜が死んだことなどなかったように過ごしているかもしれない。それどころか凜の葬式に咲良と仲良く参列している可能性すらあった。

 ――そんなの見たくない。

 二人がいつから凜をだまして付き合っていたのか考えるだけで胃がよじれるような感覚に襲われる。二人して凜にバレないかハラハラしながら秘密の関係を楽しんでいたのだろうかと思うと、行き所のない怒りで我慢ならなくなった。

 思えば、派遣で働いていた化学メーカーでは、ひたすら発注の仕事をしているだけなのに、おつぼねに目をつけられて陰険な嫌がらせをされた。しかも時給は千数百円。都内でこれでは生活できない。ボロアパートは誰も呼べないほどみすぼらしかったし、いつもきちんと割り勘の悠人と背伸びして出かけるのは負担だった。

 凜の中で現代に帰りたいという気持ちと帰りたくないという相反した思いがわいていた。でも状況を考えると、現実に向き合う勇気はまだない。

「凜」

 突然、凜の後ろえりを子陣が掴んだ。考え込んでいて陳親子が無人と思われる廃屋に入っていったのを見逃していたらしい。

 彼は人差し指に当てる。

「静かにしていろ」

 命令形で話されるのは腹が立つが、子陣の部下たちが、皆草むらに身を隠すのを見て、凜も慌てて頭を低くした。

 しばらく様子を窺っていると、黒衣の男たちが六人ばかり現れた。

 そのうち一人は手を縛られているのか、動きが鈍く、後続の男たちになんどもかされている。月明かりでかすかに横顔が見えた。

「縛られているのが張黄です」

 秦影が似顔絵を手に断言する。

「包囲しろ」

 子陣の指示に武官たちが身をかがめて廃屋の周りに移動する。凜もゆっくりと石段を上って柴門さいもんに近づいた。

 手入れが行き届いていないため、石と石の間に濡れた草が生えていて、底がゴムでない靴で上ると滑るのでたった数段なのに凜は苦労する。

「裏から回ろう。ドジるなよ、妹妹」

 やっとの思いで石段を上り終えると、野っ原にぽつんと建っているその廃屋は屋根が半分朽ち、かわらが落ちている。しかし建設当時はなかなかの建物だったのだろう。柱は六つ並び、黒漆が塗られている。

 半分破れたまま門に貼り付けてある黄色い紙は、お札なのだろうか、風でぺらぺらしていた。

「凜、俺の後ろにいるんだ」

 子陣がつかに手を当てる。

 凜はつばを飲み込みながら頷いた。

 中の様子はよくわからない。そっと子陣が窓に近づいて覗いた。凜も続く。

「張黄を引き渡そうとしている。奴は陳赫を殺した犯人ではないようだな……」

 賊は張黄を突き飛ばすように陳運に渡した。

 あたりに緊張が走り、皇城司の武官たちの目が子陣に集まる。

「行け!」

 彼が合図に手を上げると、武官たちが抜剣して駆け出した。

 剣と剣がぶつかり合う音と怒号が建物の中から聞こえる。

「待て!」

「この!」

 建物から逃げ出て来た無精ぶしようひげ髭の男を子陣が追いかける。

 彼が剣を抜くと、あれほどうるさかった秋虫たちは殺気を感じたのかぴたりと鳴くのをやめた。

 剣を構えた二人は柄を握ったまま動かない。

「逃がしはしない」

 子陣は鋭い眼差しで賊を一瞥いちべつした。

 剣が月の光を集めてあやしげに輝く。

 先に動いたのは、黒衣の大男だ。地を蹴って懐に入ろうとする。

 子陣は横腹を狙われるも、すんでの所で避けて難を逃れた。

 剣と剣が激しくぶつかり合う。

 押し合うも、力は大男の方が強いのか、子陣は渾身こんしんの力で踏ん張っている。

 子陣は相手の剣を押しやって後ろに退いた。

 凜は、子陣は相手を殺すのではなく、生きて捕らえるつもりであることに気づいた。

 だから容赦のない大男と違って剣が守りに入ってしまうのだ。急所を外した場所を狙わなければならないから完全に彼は不利だった。

 とはいえ、殺したのでは意味がない。凜をかどわかした理由を知りたいというのが、この捕り物の理由だ。子陣は後退しながらも巧みな剣さばきで確実に、相手を追い詰めていた。

 ――こんなはずじゃなかったのに。

 軽い気持ちでついて来てしまったが、まさか真剣で斬り合う場所に遭遇するとは思ってもみなかった。後悔先に立たず。木の陰に隠れていたが、劣勢の子陣を見てはいられなかった。

かしら!」

 しかも、そこへ大男に助けが現れた。陳炭鋪の裏口に入っていくのを見かけた、あの細身の狡猾こうかつそうな小男だ。

 子陣は大男の方にかかりきりで後ろから剣を振りかざす小男に気づかない。

 凜は落ちていた石をとっさに掴む。

「危ない!」

 凜は、空高く叫んで、力任せに石で小男の頭を殴った。

 確かな手応てごたえがあり、男がぐったりと気を失って倒れる。次の瞬間、子陣が凜に襲いかかろうとしていた男の肩をばっさりと斜めに斬った。

「凜、大丈夫か!?」

「大丈夫、だと思う……。怪我はしていない……」

「無茶をして、お前は馬鹿か!」

 凜は馬鹿呼ばわりされるのをもっともだと思った。

 あと少しで殺されていたかもしれない。

 傍らには血を流してうめく人がいて、建物の中からは皇城司の武官たちが、黒衣の男たちを縛り上げて連れてくる。

「お待たせいたしました」

 秦影がきびきびと拝手して足元に男たちを一列に並ばせた。中には陳親子もおり、決まりの悪そうな顔を伏せる。

「一匹、逃げられたか」

 捕らえられた賊は四人しかいない。一人に逃げられたようだ。

「申し訳ありません」

 子陣はため息を吐きながら剣をさやに収めるも、失態を恥じている秦影を非難しなかった。

「頭と思われる男は捕まえたから面目は立つ。気にするな。それよりこれが誰だかわかるか」

 秦影は、子陣に肩を斬られて呻いている男のまげを掴んで灯りの方へと顔を向けた。

元健げんけんという盗賊の頭です」

「あの杭州を騒がしている盗賊か」

「御意」

 無数の灯りが遠くからこちらに近づいてきた。凜は身構えたが、子陣は朗らかに言う。

「皇城司の武官たちだ」

「味方なの?」

「ああ。待機していた隊だ。網は張ってある。逃げた者も捕まえるだろう」

 集まったのは百ばかりの武装した者たちだった。

 中には騎馬の者もいる。馬にもよろいを着せている重装備だ。

「遅くなりました」

「こいつらを全員、拷問にかけろ。誰が凜を拐かしたか吐かせるのだ」

「はっ」

 盗賊の一味は無理やり立たされて、連れて行かれた。

 しかし、ただ一人両手を合わせて許しを請う者がいる。

「郡王殿下、お許しを……我らは盗賊と関わり合いはないのでございます。息子が拐かされ、取り戻そうとしただけのことです」

 陳炭鋪の主人、陳運だ。

 皆、彼らが被害者であるとは分かっている。だが、勅命で動いている皇城司のたびたびの協力要請に応じなかったばかりか、犯人たちの要求をあっさり飲んだのは、捜査を妨害したのと同じことだ。

 子陣は渋い顔で言う。

「話は役所で聞こう。なにを渡し、なにを話したか――」

「金です。奴らの要求は金です。身代金として数百貫渡しました」

「つまり賊たちは、凜のことも金目当てで誘拐しようとしたということか……」

 成王府の令嬢ともなれば、きっと数百貫ではすまなかったはずだ。金のない成王府は要求に応じられなかっただろうと思い、凜はぞっとした。

「全員、連れて行け」

 子陣は厳しい声で部下に命じた。そして立ち止まると顎に手を置く。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「気になることがあるなら言ってよ」

「ちょっと引っかかったんだ。なぜ、陳運は『数百貫』と言ったんだろう?」

「はっきり金額を言わなかったことが気になるの? 調べれば幾ら渡したか分かるはずよ」

「ああ。そうだな」

「それより、陳家の人々も拷問されるの?」

「いや、話を聞くだけになるだろう。ただ張黄に関しては陳赫の死について聞かなければならない」

 子陣は凜を見て少し疲れた笑みをもらす。

「父上が心配しているだろう」

「ええ……」

「怖かったか」

「当たり前でしょ……真剣で人が斬られるのを見たのよ。地面も血だらけだし……」

 子陣はえりをきちんと直し、すその乱れを整えた。ついた土を丁寧にはたき、しわを伸ばそうとする。

 かなり生真面目で潔癖な性格らしい。

 凜に近づくと、乱れた髪を手ででて直し、斜めに傾いている衣の肩の両端をつまむと左右に揺らして平行にする。人の服装も気になるたちのようだ。

「ありがと……」

「記憶喪失になる前は、もっとちゃんとした娘だったが――手がかかる女になったな」

「わたしはO型なの。大雑把だけど細かいことを気にしないのが美点なんです」

 彼は少し首を傾げたがすぐに凜の言葉を否定する。

「お前は小型だ。もっと食べろ。小さいのは体だけで、肝は十分大きいのは証明されたがな」

 凜はどっと疲れが出てしまい、無言のまま、連れて行かれる男たちの背を見やる。

 成果はあったはずだ。杭州を騒がす盗賊団の頭を捕まえたのだから。

 凜としては、南凜がさらわれた理由を明らかにするのは、やや恐ろしいという気持ちがないでもなかった。彼女は、どうやってあの場所に連れて行かれたのだろうか。

 そもそも自分は、なぜ陳赫と一緒にいたのだろう。何らかの理由で頭を打って気を失い、放置されて巡検に見つけられたのだろうか。

「さぁ、凜はやしきに戻れ」

 凜は迎えの馬車に乗り込み、墨を引いたような雲の間から見える月を眺めた。廃屋は捜索のために松明の灯りで煌々こうこうと照らされていた。子陣はここに残るつもりらしく、代わりに秦影が馬に乗って凜の馬車に従った。

 道の脇を流れる川のせせらぎが遠のいていく。凜はふーっと息を吐いた。

 馬車の暗闇の中で目を閉じ、南凜を呼ぶ。

「幽霊でもなんでもいいから。出てきて、南凜」

 彼女の気配はしないけれど、なぜか、心臓がドキンと高鳴る。彼女は凜の中にいるのだろうか。それとも、現代の病院のベッドで凜と入れ替わって目が覚めているところなのだろうか。貯金はしばらく無職でいられるくらいはあるから、そうだとしても心配ないけれど。

 これは夢なのか、うつつなのか。

 凜は空を見上げた。

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