第一章 誘拐 ④

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「わたしのお小遣いがどうかしましたか」

 燕じいは身を縮めて拝手したまま小さな声で言った。

「お嬢さまの具合が悪いところ、大変申し訳ないのでございますが、お小遣いを減額させて欲しいのです……成王府には金がございませんゆえに」

「え?」

 使用人は百人以上。豪邸に住み、さじも黄金なのに金がないとはどういうことだろう。

 にわかには信じがたい。横で聞いていた小葉が憤慨した。

「なぜ、凜さまがそんなことを? 浪費しているのはおきさきさま方ではありませんか。それに昨日、お嬢さまは大変な目にあって怪我をされているのですよ。時と場もお考えください」

 燕じいは若い小葉に小さくなる。

「ごもっとも。ごもっとも。しかし、凜さまが減額に応じられたと聞けば、妃方もご納得されるかと存じまして……」

 凜は南凜がいくらお小遣いをもらっていたのか知らない。減額したいと言われても、その価値も分からない。ただ、凜は水のろ過装置を今作ったばかりで少し自信をつけていた。しかも彼女は南凜ではなく、長峰凜だ。高校生のころから自分でバイトの時給の増額を交渉してきたサバイバーである。少ない派遣の時給の中から少しずつ貯金もしていた。スーパーの特売だって大好きだ。

 ――リッチでセレブな美女生活かと一瞬思ったのに。現実は異世界でも甘くはないってことかぁ……。

 ただ、イエスと言うにしろ、ノーと言うにしろ、まずは状況が知りたい。凜は腹を立てる小葉を止めて前に出る。

「成王殿下は皇帝の弟だと聞いたんですが、皇族ではないのですか」

「そ、それは……」

 しばらく燕じいは左端を紐でじた横長の帳面をペラペラとめくっていたが、意を決したように顔を上げた。

「その……こんなことを言ったら不遜ふそんではありますが、皇弟殿下と言いましても、入るお金はいつも決まった額なのでございますが、お手当より出ていくお金が多いので足りなくなるのでございます。今や、借金で借金を返しているありさまで、私はどうしたらよいやら……」

 今にも首をくくりそうな燕じい。本当に成王府はお金に困っているらしい。凜は恐る恐るたずねる。

「つまり、この成王府の家計は火の車ってことですか?」

 燕じいは、複雑な表情を浮かべただけで肯定もしなければ否定もしなかった。その通りなのだ。

「もう何年も前からでございます……」

「わたしのお小遣いを減らしたくらいで間に合うんですか?」

「いえ……その……焼け石に水ではありますが、なにもしないよりはよいかと思い、お願いに上がったのです」

「お義父とうさまはご存じなんですか」

 そうは見えない。今日の昼食は燕の巣が出て来た。火の車だと知っていたらさすがの成王も燕の巣をランチに食べてご満悦にはなれないだろう。

 どうやらこの家宰は、成王府の懐を預かっているのに、あるじに実態を報告していないばかりか浪費を諫めずに借金に借金を重ねていた様子だ。

 凜はすっと立ち上がって叫ぶ。

「ほうれんそう!」

菠薐草ほうれんそう? でございますか」

「違います。野菜の菠薐草じゃありません。仕事をする上で大切なことです。報告、連絡、相談。この三つは絶対なんです!」

「しかしながら、成王殿下は高貴なお方。金のことでお心を煩わしてはいけないのでございます」

 凜はあきれた。

「いったい幾ら足りないんですか?」

「それは……」

 なんと把握しきれていないというではないか。

 凜は呆れ果てて帳簿を見たが、まさかの縦書きで数字も漢数字なのでよくわからない。スマホもないから計算に手間取りそうだ。

眩暈めまいがする……」

 しかし、あの人のさそうな成王が困っているのなら、これからも居候させてもらうつもりの凜は助けないわけにはいかない。差し出がましいかもと思ったが、住む家がなくなったら大変だ。

「わたしは簿記三級なんです。二級はないけど、去年取ったばかりだから手伝います」

 よく分からないワードを並べられて燕じいは困惑顔だが、最後の「手伝います」だけは理解してほっとした顔をする。

「よろしくお願いいたします」

 聞けば、成王府には毎月皇帝からきまった手当が支給され、秋になれば、冊封地からも税が米で支払われるそうだ。

 米は換金され、あるいは蔵にしまわれ、道楽者の成王の高価な衣や趣味の道具に変わる。成王は金の心配などしないから、欲しいものを欲しいだけ買うので燕じいは支払いに長年四苦八苦しているのだそうだ。

「今日も有名な絵をお買い上げになったとか。もう私はどうしたらよいやら」

「郡王はどうしているんですか?」

「殿下は別に冊封地がありますし、平素は皇城司で働いておいでですので俸禄ほうろくもあり、ご自分のことはご自分でされています」

 凜は大きくため息をつき、帳簿を燕じいに返す。

「事情はなんとなく分かりました。わたしの部屋に一緒に来てくれますか?」

 部屋に戻り、棚を見ると青磁の置物があり、螺鈿らでんのチェストはちようのデザインが可愛らしい。が――こういうことを聞いた後では浪費としか思えない。困ったことだ。

 凜は円卓から丸椅子を机の横に持って来て、燕じいにそこに座るように促す。そして横に座って紙の上に線を引く。

 パソコンがないのは痛いが、そろばんを使える人はいるはずだ。エクセル画面だと思って、細かい横線も凜は引いた。

「複式簿記を覚えて欲しいんです」

「ふくしき、ぼき? ですか」

「はい。そろばんはありますか?」

 燕じいは懐からそろばんを出す。

「複式簿記は『借方』『貸方』という概念を用いて、少し複雑な帳簿を作成するものなんです」

 凜は、紙に線を引き、(土地)百両、と書き、隣に(現金)百両と書く。

「たとえば、土地を百両で買ったとします。土地という資産が増加したってことは、言い換えれば、現金という資産が減ったことになります」

「はぁ、さようですなぁ」

「だから複式簿記の場合、財産が増えたことを示す『借方』と、財産が減ったことを示す『貸方』があり、取り引きにおいてこの二つを帳簿に残すんです」

 老人は頭をかきむしり始める。文字を左から右に書く凜に戸惑っているようだ。

「うぅ……やはり孫を呼んできます」

 説明が難しい「掛け」のあたりになると、混乱したらしくえん文火ぶんかという孫を連れて来た。なかなか賢そうな青白い顔の青年だ。よれよれの小汚い白い衣に、黒の布の帽子――儒巾じゆきんというらしいが、を曲げて被っている。

「孫は、科挙を受けようと勉強している最中なのです」

 科挙がいわゆる公務員試験であるのは、凜も知っている。エリートを目指しているなら安心だ。年の頃は、二十代半ばくらいか。

「お嬢さまにご挨拶あいさついたします」

 文火は、声を上ずらせながら、大仰にそでを翻して礼をした。

「ええ。よろしくね、文火さん」

 彼女はもう一度初めから説明する。そして今日が九月十六日で月末はすぐそこだと気づき、すけをありがたく思った。なにしろこの巨大な家の家計を凜一人で把握するのは難しいし、浪費の内訳を知りたくても、この世界に領収書などあるはずもない。

「今月の分をなんとかこの帳簿に書き換えて欲しいんです」

「かしこまりました」

 寡黙に頭を下げ、説明しても呑み込んでいるのか、燕文火は訊ねてきたりもしない。

「文火さまは、万年浪人の変人で有名なんです」

 小声で小葉が告げる。有能なら変でもかまわない、と凜は思ったが――椅子に正座する。墨のついた筆を舐める、意味不明な独り言をつぶやく――と彼の奇行は激しい。風呂に入っていないのか、異臭を漂わせていた。

 それでも、すぐに凜の話を呑み込み、この世界にも会子かいしという紙幣があることや、交引という手形決済もあることを教えてくれた。手形の帳簿への記入も難なくこなしている。

「文火さんは今までの帳簿をすべて持って来てこの方式に書き直してくれますか。わたしは郡王のところに行って、お金を出してもらうよう燕じいと一緒に頼んでみるので」

 子陣は、自分で食い扶持ぶちを稼いでいるらしいし、しっかり者らしいから金はそこそこ持っているだろう。郡王などという立派な称号も頂いている。父親の一大事であるし、助けてくれないはずはない。

「でも、いったいいくら足りないんですか」

「それが……今月は百八十貫でして……」

「百八十貫? それは今月の支払い分だけで百八十貫足りないってことですか。それとも借金の総額が百八十貫なんですか」

「いえいえ、今月の支払いだけでございます」

 単位は分からないが、かなりの額な気がする。凜は小葉に訊ねる。

「どのくらいの金額なの?」

「私の一年の給金が約四十五貫です、お嬢さま」

 小葉の年収が、日本円に換算して仮に二百万円として四倍だと八百万円。三百万円とすれば一千二百万円も月に足りないことになる。

「燕じい、急ぎましょう」

 燕じいは叱られることを覚悟したのか、大人しく凜の後ろに付いてきた。しかし、次の瞬間、扉がバーンと開かれる。

「凜」

 立っていたのは、郡王こと趙子陣だ。

 体格にぴったり合った濃紺のころもを着ており、腰からは鮮やかな翡翠ひすい玉佩ぎよくはいを垂らす。君子然としてさっそうとした身の動きだ。凜たちの前に立つ彼は、中にいたのが彼女だけではないと気づくと眉を上げた。

「なにごとだ?」

 それはこちらが聞きたいのに、子陣は燕じいだけでなく、机に向かう文火までにらみ付ける。

「なにをこそこそしている?」

「こそこそなんてしてない。実は、あなたに力を貸して欲しくて会いに行こうと思ってたところなの」

 子陣は、革靴のまま部屋を横断して、机の上にある帳簿を見てため息を吐くと燕じいに一喝した。

「凜に言わずに俺のところに来い!」

 子陣は成王府の家計のことを知っていた様子だ。燕じいを叱り飛ばして、帳簿を床に投げた。小心者の燕じいと燕文火は大慌てで平伏する。

「金は用意するから案ずるな。だが、これはそなたの怠慢だからな」

 燕じいはさらに小さくなり、凜は気の毒になって口を挟んだ。

「話を聞けば、燕じいだけのせいではないとわかるわ」

「それはわかっている。だが、なぜ、こいつは凜に相談するのだ。俺のところに来ればいいものを」

「それは忙しそうだったからで……」

 凜は燕じいを庇う言葉を言おうとして口をつぐむ。問題はそこではない。

「少し、わたしにも燕じいを手伝わせてくれない? 今、帳面のつけかたを教えていたの」

「……そこまで言うなら好きにしたらいい。どうせ誰もやりたがらないことだ」

 成王には周妃以外にも幾人かの妃がいて、家のことを取り仕切ろうとしたが誰も成功しなかったらしい。成王も妃たちも浪費家で、子陣は非協力的。飢饉で収入が減ったのに、付き合いばかりは増える一方で、燕じいは誰にも頼れずにいた。このままでは、ここを辞めさせられ、家族ともども成王府から追い出されてしまうかもしれない。

 凜は、子陣の前に立つ。

「じゃ、遠慮なくやらせてもらう」

「どうなっても知らないからな」

「やるだけやってみたいの。ただの居候にはなりたくないから」

 凜は本心を言った。

 そして思う。

 やはり自分は根っからの一般人で、これからも働かずに生きてはいけないことを。ただ飯食いのお嬢さま生活など、そもそも楽しくなかったはずだ。

「それより、あなたこそ、一体なにしに来たのよ」

「そうだ! お前といっしょにいた男の身元が分かった」

 どうやら子陣は事件のことを告げに来たようだ。彼は丸椅子に座ると、よほどのどが渇いていたのか、卓の上に並べられていた茶器を手に取り、一気に呷った。

「いっしょにいた男って……わたしの横で亡くなっていた人?」

 剣で背中からぐさりと一突きにされて殺されていた人物だ。暗かったから凜はよく顔を見てはいなかった。

「ああ、そうだ。炭を扱う商賈しようこ陳炭鋪ちんたんほの次男、陳赫ちんかく三十五歳。数日前から行方しれずになっていた」

「それがなんでわたしと一緒にいたのよ? 知り合いだった、とか?」

「それについては今、捜査している」

「あなたも巡検けいさつなの?」

「ちがう、皇城司は陛下直属の調査機関だ」

 少し誇らしげに子陣は言い、皇城司は宮廷の警備も担当する皇帝直属の秘密警察だと説明する。彼はその長官の幹辦皇城公事という官職に臨時でついている。つまり皇族でありながら公安のトップも兼ねているというところか。

 彼は真顔になった。

「凜。頼みがある」

「え?」

「調査に協力して欲しい」

 凜は突然の申し出に驚いて目を丸くした。

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