第二章 玄永家の一族 ③

 十咬がれてくれた茶を一口飲んで、智世は二人の顔を見た。

「それで、何かご用があっていらしたんじゃ」

「あ、その前に。智世さん、俺たちに敬語はやめてください。智世さんは俺たちの大将の奥方様なんで」

 また線引きだ。しかも妙な言い方をする。家主のことを大将だなんて。

 彼らが着用している黒い制服──内務省の警察官が着用する制服のはずが、何だかまた軍服のように思えてくる。

「わかりま……、わかったわ」

 初対面の相手に敬語を使わないなんて気が引けるが、食い下がられそうなので素直に従うことにする。

 すると二人は何やらくばせをした。そして十咬が口を開く。

「家内で最年少とはいえ男の僕が世話係なんて、ご不便をお掛けして申し訳ありません」

「いいのよ。私、自分のことは一通り自分でできるから。十咬くんになるべく面倒をかけないようにするね」

「……本当は女中の誰かをつけられればいいんですけど、あいにく、女性の中には僕と同等に動ける者がいなくて」

 あれ、と智世は首を傾げる。今の言い方は何だか奇妙だ。何か、身の回りの世話のことだけでない話をされたような──

 しかしそれを問いただす間もなく、茨斗がにやにやと笑う。

「半人前のお前が『僕と同等に』ねぇ」

「う、うるさいですよ茨斗さん」

「そういう台詞せりふは宵江さんにちゃんと認めてもらえてから言ったほうがいいんじゃない?」

「ちょっ、智世様の前でやめてくださいってば」

 そうですよ茨斗、と不意に扉の外からつややかな声が同調した。

「男は女性の前ではいいかつこうをしたいんですから、させてあげましょ」

 言いながら、華やかな色柄の着物に前掛けをした長身の美女が、軽食を携えて入ってくる。まるで男装の麗人のような雰囲気のある人物だ。前からだと結い上げているようにも見えるからちやの髪が、実は短髪だからだろうか。

 思わずれる智世に、そのどこか中性的な人物は微笑みかけてきた。

「女中頭のといいます。どうぞよしなに」

「は──はい。よろしくお願いします」

 流里さん、と十咬が頰を膨らませる。

「智世様に余計なことを言わないでください」

「おや、照れたんですか? かわいいですねぇ」

「だから、そういうことを言うのをやめてくださいと──」

 言いかけた十咬の言葉を、またもや扉の外から遮る声がする。

「おいお前たち! 流里の野郎を見かけなかったか! あいつ経理の作業をほっぽって──」

 叫びながら駆け込んできたのは、茨斗たちと同じ黒い制服に身を包んだ青年だった。いかにも神経質そうな顔立ちの、恐らくは宵江よりも長身の美形だ。肩で息をしながら智世の姿を認めるや、青年はがばっと音が出るほど勢いよく頭を下げた。

「大変失礼いたしました! 奥様の御前だというのに!」

「い、いえあの、お顔を上げてください」

 慌てる智世に、茨斗が青年を指さす。

「あー智世さん、この人はこうさん。玄永家のお財布担当です」

「誰がお財布担当だ! 経理と言え経理と! 大体茨斗、お前が子どもじみた菓子だ何だと無駄遣いするからこんな日にまで俺は着替えもろくにせずに──」

「流里さんに用事があったんじゃないんですか?」

「ハッそうだった! 流里、仕事を途中で放り出して奥様のところに行くなんて、大体お前ときたら今日は宵江様の一生に一度の晴れの日だから正装でという話だったのに、またそんなビラビラした女物の着物で!」

「あーはいはい。うるさいですよ紘夜」

「誰がそうさせている!」

 言い合う──というより、一方的に小言をくどくどと並べ立てる紘夜を流里が受け流しているだけのようにも見えるが──二人に圧倒されている智世に、十咬がこそっと耳打ちする。

「騒がしくて申し訳ありません」

「それはいいんだけど、その、大丈夫なの?」

「はい。あの二人はこれが普通なんです」

 それに智世は、紘夜が口にしたいくつかの文言が非常に気になってしまった。声を潜めて十咬に問う。

「あの、仲の良いお二人のことに口出しするのは無作法かもしれないけれど、紘夜さん、いくら何でも女性を野郎呼ばわりはどうなのかしら」

 するとなぜか十咬は目をしばたたかせた。

「いえ、だって流里さんは──」

 しかしそうしているうちに、流里が紘夜に引きずられて部屋を後にしようとしたので、智世は十咬の言葉を遮って軽食の礼を言わねばならなかった。流里も紘夜も、忙しい仕事の途中だというのにわざわざ顔を見せに来てくれたようだ。さっきは目深にかぶった制帽とがいとうで判別がつかなかったが、きっと婚礼にも列席してくれていたのだろう。その礼を言う隙もなかった。

 流里が持ってきてくれたあんみつを遠慮なく食べながら茨斗が言う。

「嵐の後みたいですねぇ」

 まったくその通りである。

 ちなみに十咬は智世のの支度をするため、流里たちに続いて出て行った。今は茨斗と二人きりだ。

「……それで、えっと」

 智世が再度促すと、茨斗はちらりと智世のほうを見た後、屈託なく笑った。

「別に用ってほどでもなかったんですけどね。まぁ宵江さんのことは心配ないから、智世さんにはここを我が家だと思ってくつろいでもらえたらなーって」

 それを伝えようと思ってここに来たんですよ、と言って、茨斗は寒天を口に運んだ。

 智世はさじを持った手を止めた。

「……ありがとう。会ったばかりの、ほとんど見ず知らずの私を気遣ってくれて」

 正直なところ、初対面とはいえ夫に、こんな大きな屋敷に一人で置いていかれて、身の置き場のない思いをしていたところだった。流里や紘夜、そして十咬があんなふうに接してくれたのも、智世の緊張を解くためなのだろう。

 すると茨斗は匙をくわえたまま言った。

「いや、見ず知らずっていうか──」

「え?」

「んー。なんでもないです」

 首を傾げて先を促してみるが、茨斗にはその言葉の先を続ける気はないようだ。

 やや居心地の悪さを感じ、智世は部屋を見回してみる。

「あの、玄永様のお屋敷ってとっても立派なのね」

「でしょう? 宵江さん、跡を継いだばっかですけど、立派にご当主やってますよ」

「宵江様って、どんなお仕事をしていらっしゃるの?」

 問うと、茨斗は片まゆを上げた。

「その話、宵江さんとしました?」

「少しだけ。でもはぐらかされてしまって」

「じゃ、俺からは言えないですね」

 宵江さんが話すのを待ってください、と茨斗は言った。

 わかっていた──が、智世は肩を落としてしまう。

 宵江も使用人たちも、とてもいい人なのだろうということは少し話しただけでわかった。だが、疎外感は否めない。よその家から輿こしれしてきた身でずうずうしいのかもしれないが、もう少し──自分にだって、知る権利があるのではないか。

 はあ、と知らずため息が漏れた。と、茨斗が急に慌てたように身を乗り出す。

「違いますよ! 智世さんを軽んじてるわけじゃないですからね!」

「え……」

 茨斗はがしがしと頭をいた。

「あーもう、宵江さんがあんなだから……。結納の件とか見合い写真の件とか、あの人まだちゃんと智世さんに説明してないですよね?」

「ええ……。結納の日は急なお仕事が入られたって聞いたわ。お見合い写真は、とにかく出せないって」

「あーーもーーー」

 茨斗は頭を抱えた。

「そりゃしょうがないことだけど! だけどそんなの一刻も早く弁解しないとダメだろー!」

 茨斗は──宵江と、何だかとても距離が近いように見える。地位や役職の距離ではない。心の距離がだ。

 茨斗は膝の上で両手を組んで、その上でうなれた。

「……部下の俺にはその辺りのことを宵江さんより先に説明することはできないですけど、他に何かありますか? 心に懸かってること。答えられる範囲でなら答えます」

 うめくようなその言葉に、智世は意を決して口を開いた。

「……一つ、あるわ」

「何ですか?」

「あの……どうして宵江様と私、寝室が別なんでしょう?」

 ぽかん、という擬態語が非常に似合う表情で、茨斗が顔を上げた。

「……今何て言いました?」

「わ、私」

 智世はみるみる真っ赤になる。

「そ、それなりに覚悟して来たの。だってその、お嫁入りってそういうことだし」

 茨斗は口を開けたまま智世を見ている。智世は恥ずかしさで居たたまれなくなった。

「それに、こんな立派なお屋敷のご当主が夫ということは、跡取りを産まなければならないってこと……でしょう」

 語尾が思わずしぼんでしまう。真っ赤になってうつむいた。さすがに笑われてしまうだろうか。同性相手ならばいざ知らず、同年代の男性の、しかも初対面の相手にこんな話をしてしまうなんて。

 しかし予想に反して茨斗は笑うでもなく茶化すでもなく、智世にまっすぐ向き直った。

「智世さん。うちの主人は、ちょっと不器用なんです」

「それは……」

 知っている。婚礼の折、表情や声音ににじむ喜びをあんなに不器用に抑える人は初めて見た。

 茨斗は続ける。

「ここだけの話、今夜新婚の花嫁を置いて飛び出していかなきゃならない仕事があるなんて、俺は聞いてません」

 え、と智世は顔を上げる。

 茨斗は少年のように笑った。

「これ、俺が言ったって宵江さんには内緒にしててくださいね。──婚礼の夜にあなたを怖がらせないようにするにはどうしたらいいかって、流里さんあたりに散々相談してたみたいですよ。俺、宵江さんのおさなみなのに相談してもらえないのひどいですよね。ま、俺に相談したら当の智世さんにベラベラしゃべっちゃうからだと思うんですけど」

 まぁどっちにしてもしゃべっちゃうんですけどね、と茨斗は悪戯いたずらっぽく肩をすくめた。

 智世は思わず頰に両手を当てた。

(用もないのにわざと外出した。私を……怖がらせないように)

 それはつまり。

(……大事にしてくれているということ? 私を)

 ──そんな理由で、婚礼の夜に花婿が花嫁を置いてどこかに行ってしまうなんて。

「ね? 不器用でしょ? だからほっとけないんですよね」

 茨斗は言いながら、ぱくぱくとあんみつを食べる作業に戻る。

 智世はかすれた声で彼に問う。

「……宵江様はどうして、初対面の私をそこまで気に掛けてくださるの?」

 茨斗は手を止めずに答えた。

「それは本人にいてくださいよ。まぁ俺だったら、『奥さんがかわいいから』って答えますけどね。それと」

 宵江ってのと敬語やめてあげたほうが喜ぶと思いますよ、と、茨斗は笑った。

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