第1章 いないはずの隣人 ①


 ──その日、ふかまちなおが『民俗学Ⅱ』の初回講義に足を向けた理由は、単に『なんとなく』だった。


 尚哉はこの春から、せい大学文学部一年の学生となった。

 青和大学は、東京都区にキャンパスを構える私立大学である。大学HPの紹介文によると、学生の自由と個性を尊重するのが青和大の学風だという。

 が、尚哉からすれば、そもそも大学というのは、高校までに比べると自由も個性も十分尊重されている場所だと思う。

 何しろ履修する講義を自分で決められるのだ。必修科目はともかくとして、必要単位を満たすための一般教養科目は好きに選べる。履修案内や講義要綱と共に渡された白紙の時間割表を見て、高校と大学の違いをしみじみ感じたものだ。

 だが、時間割を自分で決められるということは、うっかりハズレの講義を取ってしまっても文句は自分にしか言えないということでもある。つまらない講義や難解すぎる講義はできるだけ避けたい。が、講義要綱だけではいまいち判断が難しい。取るかどうか迷っている講義の様子を知りたければ、初回の講義に出てみるしかなかった。

『民俗学Ⅱ』は、文学部の一般教養科目の一つだ。

 別に、民俗学にさして興味があるわけではなかった。というか、そもそも民俗学がどんな学問かもよく知らない。なんとなく、地方のお祭りや昔話の研究をしているようなイメージがあるくらいだ。

 だが、この講義については、講義要綱に書かれていた説明文がちょっと面白かった。『学校の怪談や都市伝説等から、民俗学というものについて幅広くアプローチする』うんぬんという文言だ。

 学校の怪談に都市伝説。扱う内容がまるでテレビのバラエティ番組のようで、そんなものが本当に講義のテーマになるのかと興味を引かれた。

 講義は水曜の三限。第一校舎201号教室。

 担当は、たかつきあき。文学部史学科民俗学考古学専攻の准教授だという。

 教室に行ってみると、大型の階段教室だというのに、もうほとんど席が埋まっていて驚いた。民俗学なんてそうメジャーでもないだろうに、たいした人気だ。

 教室の中は学生達の活気とけんそうで満ちている。尚哉は思わず顔をしかめた。人の多い場所は、昔からどうにも苦手なのだ。

 一瞬帰ろうかとも思ったが、せっかく来たのにそれもどうかと思い直す。講義も聴かずに回れ右はさすがにもつたいないだろう。音楽プレーヤーのイヤホンを両耳に突っ込んでプレイボタンを押し、眼鏡のブリッジを押し上げるついでに覚悟を決めて、前の方にまだ残っている空き席目指して階段式の通路を下り始めた。

 と、途中で、茶髪の男子学生と目が合った。

 名前は思い出せないが、確か、必修科目の語学で一緒になった学生だ。

 向こうも尚哉に気づいたようで、「よお」と小さく片手を挙げ、

「なに、お前もこの講義取るの?」

「あ、うん、そのつもり」

 音楽プレーヤーを止めて片耳だけイヤホンを引き抜き、尚哉はそう答えた。

「そっか、俺もたぶん取ると思う。ほら、これ教える高槻って、ちょっと有名人だろ? こいつなんて、文学部じゃねえのにわざわざ聴きに来てんだぜ」

 隣に座っている友人らしき学生を指差し、茶髪が言う。

 一般教養科目は、他学部のものでも単位になる。この教室を埋め尽くさんばかりの学生の数は、他所よその学部の学生が交ざっているせいもあるらしい。

 だがしかし、有名人というのは何だろう。テレビにでも出ているのだろうか。

 尋ねてみようと尚哉が口を開きかけたとき、「そうだ」と茶髪が尚哉の方へちょっと身を乗り出した。

「あのさ、英語クラスの連中が、今夜飲みに行こうって言ってんだけど。来る?」

「……え、もう飲み会とかするの? 早くない?」

 唐突な誘いに、思わず尚哉は苦笑いした。

 大学生というのはとかく飲み会ばかりするものというイメージがあったが、どうやら本当だったらしい。ちなみに一年生の大半はまだ未成年のはずなのだが。

「いいじゃん、親交は早めに深めとくに越したことないって。講義とかサークルの情報交換もできるしさ。で、どうする、お前も来る? 女子も何人か来るってよ」

「あー……ごめん。今夜は、ちょっと」

 尚哉があいまいに言葉を濁すと、茶髪は「そっか」とあっさりうなずいた。

「ま、どーせこの先も飲み会はすると思うから。次はお前も来ればいいよ」

「うん、ありがと。それじゃ」

 尚哉は軽く片手を振り、また階段を下り始めた。

 後ろで、茶髪とその友人が話しているのが聞こえる。

「何あの地味メガネくん。友達?」

「あー、語学一緒で。あの講義、全員英語で自己紹介させられたし、席近かったから、覚えてんの。……名前忘れたけど」

「いやそれ、覚えてるって言わねえし」

 名前を覚えていないのはお互い様だったらしい。

 二人の声を背中で聞きながら、地味メガネで悪かったな、と思う。

 大学入学を機にがらりと外見を変えておしやになる連中も多いらしいが、別に自分はそういうのは求めていない。そもそもこの春から一人暮らしを始めたので、懐事情は結構苦しいのだ。高校時代から着ているパーカーとデニムで大学に来て何が悪い。

 それに──地味なくらいが、ちょうどいいのだ。目立ちたくない。

 前から二列目の空き席にたどり着き、腰を下ろす。

 すると今度は、すぐ後ろの席の女子二人の会話が耳に入ってきた。はきはきした声の女子と、少し舌足らずな甘ったるい声の女子。

「そういえばユキ、サークルどれにするか決めた?」

「えー? まだー。でもテニスにしよっかなって思っててー」

「ユキは高校もテニス部だったしね。あたしは、アナウンス研究会が気になるけど」

「えー、いいんじゃない? カナは話すの得意だから、アナウンスとか向いてそうだしさー。あ、それよかさ、昨日言ってた合コンの話なんだけどー」

「ああごめん、あたし、金曜は予定があるんだよね」

 ふいに、はきはきしていた方の女子の声がぐにゃりと

 まるで機械にでもかけたかのように、音の高低がでたらめに狂う。元の声とは似ても似つかぬ太く低い音から金属的にきしむ高音までを不規則に行き来して。

 背筋を滑り落ちる悪寒をこらえつつ、尚哉は背後を振り返った。

 ショートカットの女子とふわふわしたロングヘアの女子だった。二人は何事もなかったかのように、会話を続けている。

「そっかー、予定あるなら仕方ないねー」

「うん、ごめんね。今度埋め合わせするから」

「いいよ、別の子に声かけてみるからさー。その代わり、次はカナも来てよねー?」

「わかったわかった、次は絶対行くって」

 再び声をゆがませながら、ショートカットの女子がこちらにさんくさそうな視線を向けた。尚哉は慌てて前に向き直る。

 そうしながら心の中で、ロングヘアの女子に向かってそっと呼びかける。

 ──今君の隣に座ってる子は、たぶん合コンは好きじゃないんだと思うよ、と。

 急に、教室中の喧騒が耳につき始めた。周囲の学生と話している者、スマホに向かって話している者、飛び交う会話。

「うっそ、マジで? 俺も高校時代はずっとバスケ部だったんだけどさあ」

「えー? リカコの連絡先? 知らなーい」

「うるせえなあ、おかんからの電話じゃねーよ、彼女からだよ彼女!」

「やだ、冗談だって! 気にすることないよ、似合ってるってその服!」

 広い教室のそこかしこで声が歪み狂い、耐えがたい不協和音と化す。

 尚哉は耳を押さえてうつむいた。後方でどっと複数の笑い声がはじける。お前らよくこんな中で笑っていられるなと思う。今度はすぐ後ろの席で、ロングヘアの女子の声が狂ったバイオリンのように派手にきしんだ。うるさい。うるさい。気持ちが悪くて息が詰まりそうだ。人の多いところはこれだから嫌いだ。やっぱり帰ればよかった。

 あまりの耐えがたさに、止めたままだった音楽プレーヤーに手をのばす。

 そのときだった。


「はい、こんにちは」


 ──その、声は。

 何の歪みもなく、驚くほど真っ直ぐに耳に届いた。濁りよどんだ空気の中に、すっと一筋だけ白い光が射したかのように。

 尚哉は、思わず声のもとをたどるように顔を上げた。

 いつの間にか、教壇に一人の男が立っていた。

 マイクを持っているからには、きっとあれがこの講義を担当する准教授なのだろう。だが、随分と若く見えた。すらりとした長身を、仕立ての良さそうな三つ揃いのスーツで包んでいる。

 男は「あれ?」とつぶやいてマイクを見下ろし、

「──ええと、ごめんなさい。スイッチ入ってなかったね」

 男の声が、マイクを通したものになる。教室内の喧騒が、笑い声に変わった。尚哉の後ろで、例の女子二人組もくすくす笑っている。

「やだ、何あれ。可愛い」

「ていうか、すっごいイケメン! あたし、この講義絶対取るー!」

 女子達は、ひそひそとそんなことを言い交わしている。

 成程、確かにあれはイケメンだ。大きな二重の目に、れいに通った鼻筋。薄い唇には親しみのわく笑みが浮かんでいる。端整なうえに優しげな雰囲気のその顔は、『甘いマスク』という小説でよく見かけるフレーズにいかにもふさわしいもののように思えた。やや茶色みがかった髪は、染めているのか地毛なのかわからない。

「あらためまして、こんにちは。『民俗学Ⅱ』を担当する高槻です。新入生の皆さんは、入学おめでとう。二年三年の人達は、今年もよろしく」

 そう言って、高槻彰良は教室を見渡して軽く会釈してみせた。

 不思議なほどに透明感のある声だった。男性にしてはやや音域が高く、マイクを通していてもふわりと柔らかに耳に届く。イケメンというのは、顔だけではなく声まで良いらしい。天は二物を与えすぎだ。

 でも──なぜだろう。

 あの声を聞いていると、なぜだか楽に息が吐ける気がする。

「ねー、高槻先生、あれで三十四歳だってー!」

「えー噓噓、二十代に見えるし! ていうか何なの、若くして准教授で、そのうえイケメンって! ねえ、独身? 独身なの? どこかに書いてない?」

 後ろの女子達は、早速スマホで高槻のことを検索しているようだ。

「あ、ほらー。やっぱ高槻先生って、前にテレビ出てた人だよー。テレビの怪奇特番でようかいの解説して『何このイケメン准教授』ってツイッターで話題になった人」

「ああ、なんか見たことあると思ってたのよね」

 後ろの会話を聞きながら、成程、と思った。先程茶髪が言っていた有名人というのは、そういうことだったらしい。

「さて、民俗学というものがどのような学問なのか、答えられる人はこの中にいるかな?──ああ、そこの君、ちょうどスマホを持っているね。悪いけど、ちょっと『民俗学』の言葉の意味を検索してもらってもいい?」

 高槻が、尚哉の背後の女子学生に向かって言った。二人がスマホをのぞきながら話しているのは教壇から丸見えだったらしい。

「あ、え、ええとー……み、『民間伝承の調査を通して、主として一般庶民の生活・文化の発展の歴史を研究する学問』……?」

 いきなり指されて動揺しつつも、ふわふわロングヘアの女子が、ネット検索した民俗学の解説文句を読み上げた。

 高槻はにっこり笑って、

「デジタル大辞泉の解説だね、どうもありがとう。でも、辞書的な解説はやっぱりちょっと堅苦しいね。民間伝承の調査を通して、って言われてもぴんとこないかもしれない。──民間伝承というのは、昔から人々の間に伝わっている習俗や伝説、昔話、ことわざ、歌や踊り、そういうものを指します。習俗っていうのは、それがどうして行われてるのかはもう皆あまり意識してないけど、それでも昔からやってるから今でもやってる、みたいなこと全般。節分の日に豆をまくとか、恵方巻きを食べるのとかもそうです。ずっと繰り返されてきた習慣、親から子へ語り継がれてきた昔話。僕達民俗学者は、そうしたものがなぜ生まれたのか、そして時を経るにつれてどのように変容していったのかを研究しています。一つの昔話が生まれた背景、一つの祭が行われるようになった理由。そうしたものを通して人々の暮らしや心のありようを知っていく学問。それが民俗学です。やなぎくにの昔話研究やおりくち信夫しのぶのまれびと論なんかは結構有名だから、どこかで読んだり聞いたりしたことがある人もいるんじゃないかな」

 徐々に学生達の私語が減っていく。

 静かになった教室に、高槻の声だけが響く。

「もしかしたら皆さんの中には、すでに僕のことを知っている人がいるかもしれないね。『前にテレビで見たことあるな、妖怪のこととか偉そうに話してたな』って。はい、確かに僕は前にそういうお仕事もしました。というのも、僕が今研究しているのは、主に怪談や不思議な話についてだからです。怖い話、奇妙な話、妖怪や幽霊──中でも僕が興味を持っているのは、現代で語られている怪談や都市伝説についてです。トイレのはなさんとか、ちょっと古いけど口裂け女とか。そういう話が語られるようになった背景や、その元ネタと思われる話を研究しています」

 正直、そんなものが学問なのかという気はした。このイケメンは、本気でそんなものを研究しているのか。

 ただ、教室内の学生達は、間違いなく、この高槻という男が話すことに興味を示し始めていた。もうスマホを見ている者も、誰かと話している者もいない。

 尚哉もまたそうだった。別に都市伝説にさして興味があるわけではないけれど、それでも、高槻が語る内容は面白そうに思えた。

 何より、語っている高槻自身が、誰より面白そうな顔をして、子供のように目をきらきらと輝かせているのだ。

 入学してから数日、幾つもの講義に参加してきた。色々な教授や講師がいたし、講義のやり方は人それぞれだった。学生達と一切目を合わせず、自分が書いた教科書をぼそぼそと読み上げるだけの教授。聞き手の理解度など一切気にせずに、専門用語を並べ立てる准教授。初回からスマホいじりや居眠りをする学生を無視して、ひたすら淡々と講義を進める講師。──それらに比べれば、この講義ははるかに楽しい。

「それで、皆さんに、お願いが二つあります。一つ目は、皆さんにも、僕の研究に協力してほしいということ」

 高槻がそう言って、再び教室中を見回した。

「僕は『隣のハナシ』というサイトを開設しています。青和大の大学サイトの民俗学専攻のページにリンクが貼ってあるので、後で覗いてみてください。そこには、僕がこれまで聞き集めてきた都市伝説の例話とその分類を載せてるんですが、一般投稿も受け付けています。こんな話を聞いたことがある、こんな不思議な体験をした、自分の学校の七不思議にはこんなのがあった、そういう話をぜひ皆さんにも投稿してほしいんです。……あ、でも、自分で作った話や、噓はやめてください。そういうのも新たな都市伝説のネタにはなるので興味深いんだけど、分析や研究をする際にはノイズになってしまうので。ええと、つまり、どういうことかというと」

 そこで高槻が初めてチョークを手にし、黒板に向かった。

 と思ったら、書き始めたのは文字ではなく、太った蛇のようなものだった。……たぶん、蛇なのだと思う。足がなくて、尾が細くて、かぱっと開いた口から出ているジグザグの線はおそらく舌だろう。

「これ、ツチノコです」

 黒板に書いたものを指し、高槻が宣言した。

 教室内に笑いが起こる。天はあの男に画才は与えなかったらしい。

「ツチノコについては今後の講義であらためて扱うので、今日はノートは取らなくていいからね。──知ってる人も多いと思うけど、ツチノコは、一九七〇年代に日本でブームになったUMAです。体長は三十センチから八十センチくらい、頭は三角で胴体は太くて短くて、尻尾しつぽは細い。実はツチノコについてはかなり古くまでさかのぼることができて、古事記や日本書紀には『ノヅチ』という野の神の名称が出てるし、江戸時代にへんさんされた『和漢三才図会』にも『つちへび』という名前でツチノコと思われる蛇が載ってます。目撃例は東北から九州まで幅広くあって、今まで最高で三億円の賞金が懸ったくらいなんだけど、いまだにその正体はよくわかっていません」

 ツチノコの絵の横に、高槻がすらすらと『古事記 ノヅチ(野の神)』『和漢三才図会 野槌蛇』と板書する。絵の下手くそさ加減に比べれば、字はかなりれいだ。

「それでね、たとえばある人が、『よこはま市でツチノコを目撃しました!』っていう報告を、僕のサイト宛てにしてくれたとします」

 黒板に書いたツチノコを、曲げた指の関節でこんこんと高槻がたたいた。

「そうすると、僕はとても喜びます」

 また教室内に笑いが起こる。

「次に僕は、その報告の裏付けを取ろうとします。報告をくれた人と会えるなら会って、目撃した場所に案内してもらう。で、しばらくそこでツチノコを探します」

 さらに教室に笑いが満ちる。尚哉もつい吹き出しそうになった。しやたスーツ姿の高槻がズボンのすそをまくり、虫取り網を手に意気揚々と草むらに分け入っていく姿を想像してしまったのだ。

「さらに僕は、付近に暮らす人々に、ツチノコを見たことがあるかどうか聞いて回ります。関東だと、がわ周辺やつちうらでは目撃談が挙がってるけど、横浜でっていうのはまだ聞いたことがないからね。それはもう熱心に、僕はツチノコを探すと思います。──しかし、その後、実はそのツチノコの話が噓だったとわかってしまった」

 そこで高槻は、ツチノコの上に大きくバッテンマークをつけた。

「きっと僕は、とてつもなく落ち込むことでしょう。あんなに熱心に探したのに、というのもあるけれど、もっと大きな弊害があるからです。というのも──僕のせいで、その土地に間違った伝承が生まれてしまうかもしれないから」

 がっくりと両肩を落とし、高槻は悲しげな顔でツチノコの絵を見やる。

「僕があちこちで聞き回ったせいで、付近の住民の中に『この場所にはツチノコがいるのかも』と思ってしまった人が出るかもしれない。『大学の先生が探しに来たくらいだから、きっといるはずだ』ってね。あるいはそこからの思い込みで、何か別のものをツチノコと見誤ってしまい、『間違いなくツチノコはいる!』という話を広め出す人も出るかもしれない。そうなったら、もう滅茶苦茶です。本来ツチノコなんていなかったはずの土地に僕が行ってしまったがために、何の土地的根拠も文化的背景もなく、ツチノコの伝承が根付いてしまう。ツチノコを探しているツチノコハンターやツチノコの研究者からしたら、僕のこの行為は迷惑以外の何物でもない」

 それはまあ、確かにそうだろう。ツチノコがいるわけもない場所に、ツチノコがいるというまことしやかな噂が流れることになるのだから。……ツチノコハンターという職業が実際にあるのかどうかはともかくとして。

「というわけで、『隣のハナシ』に、意図的に創作やデマを投稿するのはやめてください。あと、ネットで読んだ話の投稿は不要です。そういうのではなくて、皆さんが直接誰かから聞いた話、自分が体験した話を投稿してほしいです。──これが、僕の一つ目のお願い。よろしくお願いします」

 ぺこりと、高槻が頭を下げる。

 そして、下手くそなツチノコの絵は残したまま、あらためてこちらに向き直った。

「二つ目のお願いは、講義の進め方にからむんだけど。僕の講義は基本的に、二回で一セットになっています。一回目の講義は《紹介編》。一つのテーマに関して、様々な例話を紹介していきます。そして二回目の講義は、《解説編》。一回目で紹介した話の結びつきやルーツ、文化的背景等を具体的に解説していきます。だから、紹介を聴かずに解説だけ聴いても、よくわからないと思う。よくわからない話を九十分も聴くのはちょっとつらいよね? なので、《紹介編》を聴けなかった人は《解説編》の講義には出なくていいです。来るなとは言いませんが、来てもあまり意味がないと思うので。──というわけで二つ目のお願いは、『講義には可能な限り毎回出ること』」

 高槻の言葉に、教室内がざわついた。意外と厳しいことを言うなあ、と尚哉も思う。いや、受講申請した講義に毎回出るのは、当然のことではあるのだろうが。

 と、高槻がにこりと笑って、

「とはいえ、皆さんは学生です。もしかしたら一生のうちで一番遊びたい時期かもしれない。バイトもあればサークル活動もあるし、恋愛だってしたいだろうし、まあ色々忙しいかと思います。もちろん、体調不良や忌引き等もあるでしょう。──なので、何らかの事情で《紹介編》を聴けなかった人のために、補講を受け付けます。原則として金曜の五限を予定していますが、それも難しければ、僕の研究室に来てください。《紹介編》で配布した資料をお渡しします。勿論、《紹介編》だけ聴いて《解説編》を聴けなかったという人も同様です」

 まだ教室内はざわついている。騒いでいるのは主に女子だ。「え、高槻先生の研究室行っていいの?」「やーん、もしかして個別指導もありー?」と、何か違う方向で盛り上がっている。

「さて、ここまでが講義に関する紹介と注意事項です。残りの時間は、普通に講義をします。──初回だし、オーソドックスな方がいいと思うので、今日は『タクシーの怪談』について話してみようと思います。たぶん誰もが知ってる怪談、タクシーの乗客が姿を消した後に座面がれているという話です。今日は《紹介編》、来週は《解説編》。もしこのテーマには興味がないと思ったなら、来週の解説を自主的にスキップするのもありです。それでは資料を配布するので、後ろの人に回してください」

 そう言いながら、高槻は一番前の列に座っている学生にプリントの束を渡した。

 尚哉の前の列には誰も座っていなかった。高槻は階段を一段上がってきて、尚哉に直接プリントを渡した。

 プリントには、怪奇雑誌や週刊誌、スポーツ新聞の記事と思われるものまで、様々な話が載せられていた。地名、年代等がわかる箇所には傍線が引かれている。

 尚哉が後ろの女子二人組にプリントを回すと、二人はプリントをいちべつして顔を見合わせ、吹き出す寸前のような顔をした。「本当にこれで講義するの?」が半分、残り半分は「でも楽しそう」という顔。たぶん尚哉も、そんな顔をしていたはずだ。

 大学というところは面白いな、と初めて思った。

 そしてそれ以上に──高槻彰良という人間を、面白いなと思った。


 高槻の講義が終わり、尚哉が校舎を出た途端、サークル勧誘という名の嵐が四方八方から襲いかかってきた。

「君、新入生だね!? 英語劇に興味はないかな!? この後、サークル会館2Aで『アマデウス』を一部上演するから、ぜひどうぞ!」

「テニスサークル『STEP』です! 一緒に汗かこう、青春しよう! 他校とコンパもやるよ! 有名お嬢様女子大とも提携してるよ!」

「映画研究会です! 毎週金曜に鑑賞会あり、自主制作映画に興味ある人はぜひ!」

「落研でーす、今週一週間は毎日夕方五時に開いてまーす!」

 両手はあっという間に押し付けられたチラシで一杯になり、何度か強制連行されかけ、慌てて校舎脇のみちに避難したときにはかばんの中まで勝手にチラシが詰められていた。何なのだろう、高校までと違って上履きやバッジの色で学年がわかるわけでもないのに、上級生達は一体何をもって相手を新入生と見分けているのだろう。

 四月のこの時期は、各種サークルにとっては新たな部員確保のための大切な時期らしい。午前中はそうでもないのだが、午後になるとサークル勧誘が激しさを増す。特に、サークルが入会受付のブースを並べているキャンパス内の目抜き通り付近は、通りすがりの新入生を待ち受ける上級生で一杯だ。

 引っ張られてずれたパーカーの肩と眼鏡を直し、尚哉は大きく息を吐いた。あの中を突っ切っていくのは、ピラニアの群れに突っ込むようなものだ。校舎の裏を回っていくしかないだろう。

 そう思って歩き出した途端、また声をかけられた。

「──あなた、新入生よね?」

 うんざりした気分で振り返ると、そこには小奇麗な格好をした男女二人組がいた。

 話しかけてきたのは、女子学生の方だ。長い黒髪を一つに束ねている。

「サークル勧誘だったら、間に合ってます」

 新聞屋を断るような口調で尚哉がそう答えると、女子学生は苦笑して、

「ああ、違うのよ。サークルって程じゃないの。私達は、なんていうかその、皆で好きなときに集まってお話とかしてるだけの、もっと気軽な集まりなの」

「そうそう、気軽な集まり。その時々でテーマを持ち寄って、ちょっとしたディベートを行ったりするんだ。いや、ディベートって程じゃないな、雑談かな」

 男子学生の方が大きくうなずいて言う。貼りつけたような笑みがさんくさい。

「……雑談するだけなら、新入生の勧誘とか必要ないと思いますけど」

 尚哉が言うと、男子学生の方はおおげさに首を振って、

「そんなことはないさ! ただの雑談でも、新しい意見というのは常に必要だからね。そう、たとえば君は、人生というものについてどう思う? 僕達は、生まれて、学習して、大学に入り、社会に出て、結婚し、そうして色々な経験をするのに、結局最後は死んでしまうだろう? それなら、人生とは何のためにあるんだろうね?」

「あの、すみませんけど、俺、哲学とかはあんまり」

「いやいや、もっと気軽な話だよ!」

「そう、気軽な話よ。……ほら、大学って、サークルに入ってないと、なかなか居場所を見つけるのも難しくて、寂しい気分になるじゃない? 私達、たまり場にしている部屋があるの。会員なら誰でも気軽に使っていい部屋よ。好きなときに来て、皆と気軽に話していってくれればいいのよ。本当に、ただの気軽なお話し会なの」

 やたらと『気軽』という言葉を繰り返しながら、二人は徐々に距離を詰めてくる。

 ああこれはもしかして、と尚哉は思った。

「──何かの宗教ですか?」

 単刀直入に尋ねると、ぴく、と男子学生の頰が一瞬震えた。

 女子学生の方は、変わらぬ笑顔のままだった。

「やだ、急に何を言っているの? 私達はそういうのじゃないわ」

 ぎゅるり、と後半の声がゆがんだ。

 尚哉はため息を吐いた。

 鞄からイヤホンを引っ張り出しながら、言う。

「……噓つくと顔が歪むって、前に何かで読んだことあるんですけど。あれって間違ってますよね」

「え?」

 尚哉の言葉に、女子学生がげんな顔をする。

 尚哉は左耳にイヤホンを突っ込み、

「宗教を一概に否定するつもりはないです。そういうのを心のり所にしてる人もいるんだろうし、それで救われる人もいるのかもしれないから。でも俺は、そういうのは信じられないし、寂しくもないんで、いいです。ごめんなさい」

 軽く頭を下げ、きびすを返して歩き出す。あ、ちょっと、と後ろから声をかけられたが、かまわず右耳にもイヤホンを突っ込んで、音楽プレーヤーをオンにした。少し前に流行はやったドラマのテーマ曲が流れ出し、すぐに後ろの声は気にならなくなった。

 サークル勧誘にまぎれて悪質な宗教の勧誘をしている人もいるから気をつけろ、という注意喚起文は、大学のオリエンテーション資料の中にもあった。

 彼らがその『悪質な宗教』の勧誘に当たるのかどうかはわからないが、ついていって試してみる気はないし、噓をついて人を誘う時点でクロだと思う。

 ──噓をつくと顔が歪むというのは、間違いだ。

 歪むのは声だ。

 といっても、そう感じるのはどうやら自分だけのようなのだが。

 あるときから、尚哉の耳は、人の噓を声の歪みとして知覚するようになっていた。

 初めて自覚したときは何が起きているのかわからず、ひどく戸惑った。音が時々歪んで聞こえる、と親に訴えたら、真っ先に難聴を疑われた。でも、幾つもの病院をはしごして、耳どころか脳まで検査しても、異常は見当たらなかった。

 そして、そのうちに自分で気がついたのだ。

 歪んで聞こえるのは人の声だけだということ。

 それも、噓を言っている人の声だけが、歪んで聞こえるということに。

 歪んだ声を聞くのはとても不快で、ずっと聞いていると気分が悪くなる。だが、それ以上に嫌だったのは、誰かが噓を言う度にそれに気づいてしまうことだった。

 人は簡単に噓をつく。保身のため、見栄のため、実にあっさりと偽りを口にする。親しいと思っていた相手だって、平気な顔でこちらを欺きにかかる。知りたくもなかった真実だ。この世は噓つきだらけで、歪みきしんだ声に満ちている。

 いっそこんな耳はつぶしてしまった方がいいのではないかと、何度も考えた。ボールペンのしんなり線香なりを耳に突っ込んだら、何も聞こえなくなるのではないか。でも、いざやろうとすると、どうしてもおじづいてできなかった。

 ある日突然始まったなら、同じように、ある日突然元に戻るかもしれない。そんな楽観も、年を経るにつれて消えせていった。

 代わりに身についたのは、せめてもの対処方法だ。

 嫌なものを聞きたくなければ、あらかじめ耳の中で別の音を鳴らしておけばいい。携帯式の音楽プレーヤーとイヤホンを発明した人は本当に天才だと思う。イヤホンから鳴り響く音楽が、外の音をあらかた打ち消してくれる。

 そして──誰かが噓をついても、いちいち傷つかないようにしたいなら。

 線を一本、引いておけばいい。

 周りの人間と、自分との間に。目には見えない、けれど絶対的な線を。

 そうして、その線の向こうには足を踏み出さないようにすればいい。

 あからさまに孤立するのは色々不都合なことも起こるから、それは避けなければならない。誰とでもそれなりに話し、笑い合って、無難な関係を築くのは重要だ。

 でも、その誰とも、決して深い仲になってはいけない。

 線を踏み越えて、相手の手を取ってはいけない。

 なぜって、その相手が尚哉に対して噓をついたとき、尚哉は必ずそれに気づいてしまうのだから。

 だから大学でもサークルに入る気はないし、『気軽なお話し会』とやらに参加するつもりもない。仲間内の飲み会にも、きっと最低限顔を出すくらいだと思う。それでいい。イヤホンと眼鏡で耳と目をよろえば、世界は線の向こうに追いやられる。誰かが誰かに噓をつく汚い日常が、自分とは無関係のものだと思えるようになる。

 ──大学は居場所を見つけるのが難しくて寂しい気分になるでしょう、とさっきの女子学生は言った。

 別に寂しいことなどない。

 線の内側の世界は、いつだって穏やかにいでいる。

 それに、大学という場所に、居場所が全くないわけではない。一人で過ごすのが好きな人間にとって最適な場所が、大学にはある。

 そう、図書館だ。

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