三章 よるべなき者たち③


*  *


 店では、帰りの遅い海里を心配して、夏神が狭い店の中を腕組みしてウロウロしていた。まさに、動物園のシロクマそっくりのアクションである。

「ただいまー」

 そんなこととはつゆ知らず、海里がムスッとした顔で店の扉を開け、客がいないことを確認してから中に入っていくと、夏神はもっとぜんとした顔でおおまたに歩み寄ってきた。両手を腰に当て、軽く威圧するように、海里の顔を見下ろす。

「ただいまと違うわ。どんだけ時間かかっとるねん。慣れん道で事故ったんちゃうかと思て、心配したんやぞ。淡海さんに電話したら、とっくに帰った言うし。寄り道しとったんか。お使いの行き帰りが真っ直ぐできへんて、小学生かアホ!」

「あ……ごめん」

 まくしたてるように叱られるのが何だかひどく懐かしい気がして、海里はそれこそ小学生のように素直に謝った。

 ミュージカルのけいやドラマの撮影で、いわゆる演出家や監督といわれる人々に「何やってんだ!」としつせきされることはあるが、それはあくまで仕事上のことであり、彼らが叱っているのは「五十嵐カイリ」だった。

 そうでなく、海里自身の私生活について叱ってくれる人は、上京以来、事務所社長の大倉美和だけだった。

 爪をむな、背筋を丸めるな、偉そうに脚を組むなという人前での態度に加え、目上の人への敬語の使い方や、毎日の食事、慣れない東京での電車の乗り方といったことまで、美和は海里に事細かに教え、休みの日をつぶして私的な外出に付き合ってくれた。

 だからこそ、海里は美和には全幅の信頼を置いていたし、彼女を年の離れた姉か、母親代わりのように感じていた。

(それなのに、事務所を守らなきゃいけないからの一言で、捨てられたんだよなあ、俺)

 捨てられた、という言葉に、寂しさと悔しさが涙に姿を変え、こみ上げてきた。

 とはいえ、いい歳の大人がそんなことで泣いては、みっともないにも程がある。それに今は、泣いている場合ではない。

 海里は涙をまぶたの奥にグッと押し戻し、出来るだけさりげなく夏神に言った。

「マジごめん。ちょっとガム買いにコンビニ行ってさ、ついでに雑誌を立ち読みしちゃったんだ」

 つい、そんないかにも自分のイメージに合わせた、適当な噓が口をいて出る。人を傷つけないさりげない噓を素早くつけるようになったのも、芸能人になってからだ。

 しやべりながら、海里はポケットに手を入れ、三枚の五百円玉を夏神に手渡した。

「でも、代金は使い込んでないぜ。ほら。淡海さんが、配達代と食器代だっつって、大目にくれた」

「使い込んどったら、一晩説教するとこや。まあ、暇なときはちょっとくらいの寄り道はかめへんけど、次からはちゃんと電話せえ」

 他愛ない噓をあっさり信じ、夏神は海里の頭を軽く小突いただけで許してくれた。そして、五百円玉を一枚、海里に差し出す。

「ほんで、これはお前への駄賃やろ。取っとけ」

「けど、寄り道……」

「それはそれ、これはこれや」

「ん……じゃ、ありがたく」

 海里は受け取った硬貨をポケットに再び入れた。

 その弾みに、指先がくだんの眼鏡フレームに触れる。

 公園を立ち去って以来、眼鏡は一言も喋らない。

 あの暗闇の中での出来事が噓のように思われるほど、眼鏡は動かず、喋らず、つまり普通の眼鏡のようにスタジャンのポケットの中にちんまり収まっている。

 乾いた、海里の体温が移って妙に温かなフレームの感触を指先で味わいながら、海里はもう一度その眼鏡を引っ張り出して、明るい場所でゆっくり見たいという誘惑を我慢できなくなった。

「夏神さん。寄り道して帰ってきて、さらに我がままで悪いんだけどさ。ちょっとだけ上で休憩してきていい? 久しぶりにバイク運転したら、緊張して目がしょぼしょぼしちゃって」

 また、海里は小さな噓を重ねる。そして夏神は、やはりすんなりとそれを受け入れた。

「ええよ。お前が帰るちょっと前、お客さんがだーっと来てだーっと帰ったからな。こういう日は、後はもうスカスカやねん。店が混んだら呼ぶし、それまでゴロゴロしとれや」

「サンキュ」

 短く言って、海里は階段を駆け上がった。

 自分の部屋に入り、ふすまを閉める。

 テーブルがないので、今朝は上げ損ねてそのままだった布団の上にポケットから引っ張り出した眼鏡を置き、自分もそれと向かい合うように胡座あぐらをかいた。

 おずおずとつるを伸ばし、そこを両手で持って、目の高さまで眼鏡を持ち上げる。

 蛍光灯の光の下で見る眼鏡は、公園で見たときよりずっと古びて見えた。

 フレームの色は黄色と茶色のマーブル模様で、黄色部分には透明感がある。

 鼻当てはついておらず、つるはくるんと大きくカーブしていた。

 レンズはやはりガラス製のようで、硬く重く、表面に細かい傷がいくつもついている。

 レンズを通して向こうを見ようとすると、部屋の壁がグニャンと曲がって見える。レンズには度が入っているようだ。

 裸眼でスクーターを運転できる程度には視力のいい海里は、軽い眩暈めまいを覚え、眼鏡を慌てて目元から外した。

「なあ、おい。お前、やっぱマジで喋んの? さっき公園でしたみたいに」

『あなた様がそれをお許しくださるならば、我が新しき主よ』

 眼鏡は相変わらず、うっとりするような音楽的な男の声で答える。

「やっぱマジだった。気のせいかもっていうのは、むなしい希望だったわ」

 海里は唇をへの字に曲げた。大倉美和には、必要以上にふて腐れて見えるので、決してするなと言われていた表情だ。

「つか、何なんだよ、お前。何で眼鏡が喋るわけ? でもって、俺はお前のご主人様じゃねえし!」

『話せば長くなります、我があるじよ』

「長くても話せ。つか、主じゃねえっつってんのに!」

『いいえ、あのまま茂みの枝に引っかかり、風雨にさらされておりましたら、わたしの老体はあっという間にひび割れ、ちりと化していたことでありましょう。助けを求めても、人は誰もわたしの声を聞いてくれず。あの場に打ち棄てられて既に一週間と二日、我が声を、救いを求める訴えをお聞き届けくださったあなた様こそ、我が新しき主にふさわしきお方。わたしにこの先、幾年の命があろうものかは存じませんが、命ある限り、全身全霊でお仕え致します』

 まるで舞台役者が古典劇の台詞せりふうたい上げるように、眼鏡はやたらエレガントな口調でとうとうと宣言する。

「いや、だからさぁ」

 海里は思わず痛み始めたこめかみを押さえようとして、両手が頭痛の種である眼鏡のせいでふさがっていることに気づき、ガックリ肩を落とした。

「とにかく、何がどうなってお前が喋るようになったのか、ちゃんと話せ! でもって、どうにかならないのかよ、これ。目も鼻も口もない奴と話すの、どこ見ていいかわかんなくて落ち着かねえよ」

 問題は眼鏡が喋っているという現実であって、見るべき顔がないことでは断じてないのだが、海里自身がそれに気付けないほど動転しっぱなしであるらしい。

 眼鏡のほうも、大真面目にこう提案した。

『目と鼻と口があるほうが、お話を聞いていただきやすいと。なるほど。幸い、まだ夜明けまでには時間があるようでございます。わたしは今や、夜の生き物。そして主の命令は、しもべに力を与えるもの。どうぞお申し付けください』

「何をだよ?」

『あなた様のお話を伺いやすい姿すがたかたちに変じるようにと。お望みのままに、犬でも猫でも兎でも……あるいは、人間でも』

 海里はビックリして目をパチパチさせる。

「人間になれんのか?」

『あくまで擬態でございますが、あなた様がそう望んでくださるのならば、おそらく。最善を尽くしてみる所存でございます』

「いちいち長い。だったら、なってみろよ」

『我が主が初めて発せられた命令です。心して務めましょう』

 そう言うが早いか、海里が持っていた眼鏡が、突然、強い光を放ち始める。金色だか銀色だか、はたまた白色だか、まぶしすぎて判別がつかないほどだ。

「うわっ」

 海里はきようがくし、眼鏡を持つ手を離してしまった。

 幸い、下は柔らかい布団である。いくら古ぼけた眼鏡でも、このくらいの高さからの落下で壊れることはないだろう。いや、それより問題は謎の光だ……と海里の思考が千々に乱れている間に、光はぐにゃぐにゃとアメーバのように伸び縮みしながら、ぐんぐん大きくなっていく。

 眼鏡の大きさから、バレーボール大、バスケットボール大、小型のトランポリン大……そして、人間が身体を丸めたくらいの大きさへと、光の固まりは留まるところを知らず、巨大化していく。

「ちょ……、ま、眩しいだろっ! いい加減にやめ……ギャー!!」

 片手で目元をかばいながら、海里は眼鏡に何が起こっているのかを見定めようとし……そして今度こそ、階下に夏神がいることなど忘れて絶叫した。

 光が薄れると共に、ゆっくり戻ってきた海里の視界に映ったものは、白人の中年男性だったのである。

 年齢は五十代半ばくらいだろうか。あるいは、白人には老け顔の人が多いので、もう少し若いのかもしれない。

 栗色の白髪交じりの髪をきっちり七三……いや、二八くらいに分けてでつけた男は、淡いブルーのシャツにネクタイ、ベージュ色のニットベスト、それにツイードの上着とズボンという、実にカジュアルだがお洒落しやれ、かつ品のいい服装をしている。

 体格はほっそりしているが、貧弱という印象を見る者に与えない。かなりの撫で肩でもあるのに、それがかえって、ジャケットのタイトなカッティングと美しく調和しているようだった。

「お……お、お、おま、眼鏡!?」

 狼狽うろたえて布団の上にしりもちをついてしまった海里を、靴を履いたまま布団の上にすっくと立った男は、にっこり笑って両腕を広げてみせた。

「おや、上手うまくいったようです。わたしとあなた様の相性は、かなりよろしいようでございますよ、我が主。喜ばしいことです」

 どこから見ても白人のがんぼうをした男の薄っぺらい唇から、眼鏡だったときとまったく同じ恭しい日本語がこぼれ落ちる。

「う……、う、うう?」

 海里は放心したように、男の頭のてっぺんからつま先までゆっくり視線を滑らせ……そして、どうにか第一声を発した。

「とにかく、何はさておき靴は脱げ。ここは日本だし、その布団、まだ買ったばっかりなんだ」

「おっと、これはわたしとしたことが。大変失礼致しました」

 そう言うと、男は布団の上から畳にいったんどき、ピカピカの革靴を脱いで、畳の上に裏返しにしてきっちり並べた。

 少しすり減った靴底が、とても「擬態」には見えず、海里はその黒い靴底と男の顔を何度も交互に見比べた。

 甘いマスク、というのは目の前の眼鏡男のような顔をさして言うのかもしれない。

 面長な輪郭、まったくたるんでいないシャープなあご、広い額、ほぼ水平のまゆと、彫りが深いので、眉とくっついて見える茶色いひとみ。あまり存在を主張し過ぎない細い鼻筋と、薄い唇。そして唇の脇に刻まれるくっきりしたシワ。

 若い男にはない余裕のある色気、成熟した知性、それにほんの少しの頑固さを感じさせる顔の造作である。

「あなた様に不快感を与えない顔になっていればよいのですが。鏡を拝借しても?」

 あまりにも落ち着き払った男の態度につられて、海里ももっそりうなずき、立ち上がった。無言でバックパックをあさり、四角いハンディミラーを出して男に差し出す。

 二つ折りのミラーのケースには、かつて演じていたミュージカルの舞台となった高校の校章がプリントされている。どうしても手放せなくて、今も使い続けているものの一つだ。

「お借り致します」

 両手で恭しく鏡を受け取った男は、鏡をあちこちに掲げ、自分の姿を素早く確認した。そして満足げに頷くと、鏡をやはり丁寧な動作で海里に返した。

 それから少し躊躇ためらった後、布団の上で長い脚を抱え込み、いわゆる体育座りの格好になる。妙に可愛らしく見えるところがむしろ腹立たしく、海里は不機嫌な顔になった。

 だがそんな海里の反応を気にも留めず、男はこう言った。

「この姿は、かつてわたしを作った眼鏡職人の姿なのです。わたしの長い記憶の中で、初めて見た人間の姿ですから、やはり印象がもっとも強かったのでしょうね。人になろうとすると、いつもこの姿になってしまいます。まあ、お話をするには適切な姿だと存じますが、如何いかがでしょうか」

「如何もクソも……!」

 海里がもう一度声を荒らげようとしたそのとき、ノックもなしにふすまが開き、夏神が姿を見せた。

「何や大声が聞こえたけど、大丈夫……うお!?」

 どうやら、眼鏡男は夏神にも見えたらしい。彼はがくぜんとして一歩下がり、それから器用に同じ足を再び動かして、部屋に一歩踏み込んできた。

「おま……イガ、何やこいつ? お前まさか。百歩譲って犬や猫ならともかく、配達の帰りに外人拾ってきたんか!?」

「えっ? 夏神さんにも見えんの!?」

「見えるもくそもおるやないか! お前が拾ってきたんか? それとも泥棒か!?」

 夏神は両のこぶしを胸の前で構え、眼鏡男への警戒心をあらわにする。夏神を落ち着かせようと、海里は慌てて腰を浮かせた。

「あ、いや、泥棒じゃない! ただ、俺が拾ったのは眼鏡……」

「眼鏡なんぞどうでもええわ! 俺は、このオッサンの話をしとるんや。ちゅうか、どうやって二階に連れて上がった!? お前、マジシャンもやっとったんか!?」

「いや、だからー! そうじゃなくて!」

 焦って布団の上にひざ立ちになったまま、海里はとにかく夏神をなだめ、事の次第を説明しようと両手を振った。

 だが、そんな海里の努力を台無しにするのんさで、眼鏡男は立ち上がり、かんぺきな角度で夏神にお辞儀をした。

「これはこれは、初めてお目に掛かります。わがあるじの……あるいは上司でいらっしゃいますか」

「わ・が・あ・る・じ・?」

 思いきり語尾をね上げて、夏神は一音ずつ区切って復唱しながら、海里の顔を前から後ろへ穴が貫通するほどの鋭さでにらみつける。

「イガ……これはどういうことやねん。ちょー、もう店閉めてくるから、そいつと一緒に大人しゅう待っとれ。じっくり話を聞かせてもらおか」

 そう言うなりクルリと身を反転させ、夏神はドスドスとついぞ聞いたことがないような大きな足音を立て、階段を下りていく。

「ああああ~」

 奇声と共にヘナヘナと布団の上につんいになった海里は、力なくかぶりを振った。

「お前が火に油を注ぐような真似すっから、怒っちゃったじゃねえかよ、夏神さん。どうすんだよ。俺、ここ以外に行くとこないんだぜ。お前のせいで追い出されたりしたら、マジ殺すからな!」

 すると眼鏡男は、ひどく困惑した様子でまゆじりを極端に下げた。それだけで、捨てられた犬のような情けない顔になるのが不思議である。

「この姿が、上司の方のお怒りに触れたのでしょうか。今すぐ、眼鏡に戻りましょうか?」

「いや、頼むからこれ以上、ややこしいことすんな! そのままでいいから、最初から順を追って事情を俺たちに話せ。夏神さんマジで怒ってたから、俺が壊さなくても、夏神さんにバラバラにされるかもだぞ、お前。俺は知らないからな!」

 急にドッと疲れが押し寄せてきたように思えて、海里はそのまま布団にボフッとうつ伏せになり、もう一度、情けない悲嘆の声を上げたのだった。


「……怒鳴って悪かった」

 しかしそれが、目の前で実際に男が眼鏡に戻り、再び人の姿に変身するのを目の当たりにした夏神留二の第一声だった。

 彼はそう言って布団の上に正座し、海里に深々と頭を下げたのである。

「確かに、お前が拾ったのは眼鏡だけやったらしい。お前は噓を言うてへんかった」

「や、やめてくれよ。こんなの信じろってほうが無理だし。つか、夏神さんにもこいつが見えて、俺、マジでホッとしたんだし」

 海里は慌てて自分も正座になり、夏神のガッチリした肩を両手でつかんで上げさせる。

「おお、麗しき上下関係ですな。いや、あるいは師弟関係でしょうか。何にせよ、まことに素晴らしい」

 そんなとぼけたコメントを発してぱちぱちと拍手したのは、もちろん、「元凶」にもかかわらずひとりだけ体育座りのままニコニコしている眼鏡男である。

「黙れアホ」

「うっせえよ!」

 彼言うところの「師弟」から口々にとがめられ、「おや、これは失礼致しました」と眼鏡男は真面目そうな顔をする。

「……とぼけたやっちゃなー」

「そうなんだよ。いいや、とにかく話を戻すぞ。これまで聞いた流れだと、お前はずっと昔にイギリスで作られて、ロンドンに留学していた日本人に買われた。そうだよな?」

 眼鏡男は妙にコンパクトに膝を抱えたままでこっくり頷く。

「さようです。わたしが生まれましたのは、おおよそ一九二〇年代。最初の主に従い、長い船旅の後、わたしは遠い異国、日本へ来たのです。……しかし、それは後から得た知識。前の主から伺ったことです。当時のわたしの記憶は、どうにもおぼろげでありまして」

 夏神と海里は、同時に早くもしびれ始めた両脚を胡座あぐらに組み直し、同じタイミング、同じ方向に首をひねる。言葉を発したのは、海里のほうだった。

「それ、どういうことだ? 最初から、こんなふうじゃなかったってこと? 最初はタダの眼鏡だった?」

「ええ、勿論そうでございますよ、我が主。わたしは最初の主にお供して日本に参りましたが、最初の主は、『これは今、欧米で大変流行している最先端の眼鏡なのだ』と様々な方に自慢する目的で、わたしをお買い求めになったのです」

「別に、眼鏡は必要ない目の持ち主やってんな?」

 今度は夏神に問われ、眼鏡男は少し悲しげにうなずく。

「はい。ですから、わたしは常に大事にしまいこまれたままで、眼鏡本来の役割を果たすことが長らくございませんでした。活躍の場を与えられたのは、次の主……最初の主のご子息に譲られてからです」

「息子さんは、目が悪かったんだ? 今まってるレンズは、その息子さんが使ってた奴なんだな?」

 眼鏡男は虚空を見て、懐かしそうに微笑んで頷く。

「はい。三十五歳から八十九歳で亡くなるまで、大事に大事に使ってくださいました。わたしが装うレンズも、幾度か換わりました。今は世間で言うところの老眼鏡、というものでございますね」

「そんなに長く!? よくったな、お前」

「お父様の形見だからと、それはもう丁寧に扱ってくださいましたからね。小さな傷はたくさん負いましたし、大怪我も何度かありましたが、その都度、職人に頼んで修繕してくださいました」

「へえ……前のご主人って、どんな人だった?」

「学者でした。中国史の研究者だったようです。堅実なお仕事をなさり、温かな家庭を築かれましたが、奥様にも、三人のお子様にも先立たれ……その都度、主が流された涙が少しずつわたしに浸みこみ、いつしかわたしの魂になりました」

 そんな文学的な表現をして、眼鏡男は口角を引っ張るように少し上げてみせる。そのわざと作った笑顔が、彼が主の悲しみを共に味わっていたことを何より雄弁に語っているようだった。

 腕組みして聞いていた夏神は、ううむ、とうなった。

「何やそういう話、聞いたことがあるわ。つくがみ、とか言うんやったっけ」

「つくもがみ? 何それ?」

 海里がたずねると、夏神は腕組みを解き、ひざがしらを指でたたきながら説明した。

「俺も専門家違うから詳しくは知らんけど、長年使い込まれた道具には、魂が宿ってようかいの一種になるとか、そういう話や。大事にせんと、付喪神はたたるんやでって、死んだ祖母ばあさんが言うとった」

「ひッ」

 海里ののどが小さく鳴る。海里のおびえを感じとったのか、眼鏡男は「いえいえそんなことは」と両手を振った。

「人生ならぬ眼鏡生最大の危機を救って頂いたのです。我が主には、既に大恩のあるこの身、如何いかようになされようとも祟ったりなどは致しませんよ」

「けど、お前の元の持ち主は、すっげえ大事にしてくれたんだろ? お前が魂を持ったことも、知ってたのか?」

 眼鏡男は、抱えた膝に細いあごを載せて頷いた。

「はい。ひとりぼっちになってしまったと思ったが、まだお前がいた……そう言って、喜んでくださいました。主の孤独を少しでもいやしたい、せめて姿だけでも人間になりたい、そう強く願うことで、夜だけはこんな風に変身することができるようにもなりました」

「夜だけ……さっきもそう言ってたな。何で夜だけ?」

 眼鏡男は軽く首を傾げる。

「わたしに難しいことはわかりませんが、それはきっとわたしが妖怪になったからだと、前の主は説明してくださいました。妖怪は、基本的に夜の生き物だからと」

「はあ、なるほどなあ……」

 海里はわかったようなわからないような顔で頷く。夏神は、「それにしても」と、眼鏡男を不思議そうに見た。

「そんなに大事にされとった眼鏡が、何で公園に捨てられとったんや? 前のご主人様と、けんでもしたんか?」

「いいえ」

 眼鏡男は悲しげにかぶりを振った。

「先々週、前のあるじは亡くなりました。書斎で本を読みながら、眠るように静かに。わたしが最期まで、お側にはべっておりました。温厚だったあの方にふさわしい、安らかな死でした」

 眼鏡男の伏せた目から、一筋涙がこぼれる。

(眼鏡も泣くんだ……)

 そんな素朴な感慨にふける海里をよそに、夏神はいぶかしげに問いかけた。

「普通、持ち主の大事にしとった品物は、お棺に入れられるやろ。お前は違ったんかいな」

 眼鏡男は、涙をぬぐいながらかぶりを振る。

「わたしは、前の主の、言うなればトレードマークであったと自負しております。わたしと主のお顔は、とても相性がよかったのです」

「似合ってたってこと?」

「まさに。皆さん、わたしを装着なさった主のお顔を一目で覚えてしまわれるので、主がわたしを外してしまうと、どなたも主を認識できない有様でした」

「そりゃまた……すげえな。本体が眼鏡くらいの勢いだな」

「滅相もないことでございます。しかしまあ、何しろ英国製でございますからね! そのへんの眼鏡とは格が違うとは申し上げておきましょう。そのようなわけで、喪主を引き受けた前の主の孫のひとりも、棺の中の主のなきがらに、わたしを掛けさせてくださいました。ところが、お通夜の席で……」

「お通夜で、むしられちゃったとか?」

「はい。お通夜に参列なさった数人のうちのお一方が、『あの先生がずっと大事にしていた眼鏡だ、きっとべつこうのいいものに違いない。金になるぞ』と言い出したのです。それを真に受けた喪主は、主の亡骸から、わたしを引き離しておしまいになりました」

「せちがらい話やな。墓泥棒みたいなもんやないか」

 夏神は憤慨してまゆを寄せる。海里は興味津々で、眼鏡男の顔をのぞき込んだ。

「いや、だけど燃やされちゃったら、ここにはいないわけだろ? ある意味、命拾いしたわけじゃね?」

「い、いえ! 主に添い遂げる覚悟はございましたよ。ですが……まあ、主はお亡くなりになりましたが、わたしは生きておりましたわけで、まあ、多少は……その、生き延びた感がなくもなく……」

「どっちだよ!」

 しどろもどろの弁解に、海里は思わず笑ってしまいながら手を振った。

「まあいいや、続けて。マジでお前、鼈甲なの?」

「いいえ、断じて!」

 眼鏡男は、海里の質問を二つまとめて否定し、膝から腕を離して背筋を伸ばした。ついでに両手で上着の襟元もピッと引っ張る。

「じゃあ、何? プラスチック?」

「とんでもないことです。鼈甲ではありませんが、プラスチックなどというお手軽な素材と一緒にされては心外の極みでございますよ!」

 そう言うと、眼鏡男は片手を海里のほうに軽く差し上げた。一本だけ伸ばした人差し指の先がたちまち透き通り、眼鏡のフレームのマーブル模様に変わる。

「うわ」

 海里は、思わず驚きの声を漏らす。目の前で変身したのだから、目の前の男の正体が眼鏡だと脳はわかっているのだが、普通の状態では決して見られない光景に、つい心がビックリしてしまうのだ。

 眼鏡男はえへんとせきばらいしてから、誇らしげに告げた。

「わたしは、セルロイド製です。一九二〇年代の最先端素材でございます!」

 どうやら、それが眼鏡男の自慢らしい。だが海里と夏神の反応は、極めて鈍かった。

「セルロイドいうたら、祖母さんの裁縫箱がセルロイド製やったな。紅白の、金魚模様とかいう奴。あと、万年筆とか……。何しか、年寄りの使うもんっちゅうイメージが……」

「あー、だけど夏神さん、今はセルロイドってけっこうレトロお洒落しやれアイテムらしいよ。セルロイドを加工できる職人がもう少ないんだってさ」

「へえ、そうなんか」

「まあ、とはいえ合成樹脂だろ? そう自慢するほどのことでも」

「とにかく! 当時は最先端だったのです!」

 強く主張して胸を張る眼鏡男に「はいはい」と投げやりに応じて、海里は自分の、小枝で軽く傷ついた手の甲を見下ろした。

「けど、その大昔の最先端眼鏡の価値が、喪主にはわかんなかったってわけか」

「あう」

 ガックリと肩を落とし、眼鏡男はまたポロリと涙をこぼした。

「彼はわたしを眼鏡屋に持ち込みましたが、鼈甲ではない、セルロイドの古い眼鏡だと言われ、失望してゴミに出してしまわれました。ところがゴミ袋が野犬に破られ、わたしはカラスにさらわれ、巣に連れて行かれる途中、何かの弾みでポロリと落とされて、あの場所に」

「うわ、何その人生らん万丈モード。それで、あんなとこにいたのか」

「はい。必死で助けを求めましたが、わたしのようなものの声をお聞き届けくださる感受性豊かな方はそういらっしゃらず……この場所にお二人もそうした方が揃っておられるというのは、まさに奇跡。前の主のお屋敷に比べれば随分と質素ではありますが、このわたし、主のおられるところが天国と心得、精いっぱいの……」

「待て待て待て。お前今、俺の家と店を一緒に思いきりけなしよったな」

「いえ、そのようなことは決して!」

 礼儀正しく失礼なことを言う眼鏡男を、夏神はジロリとにらんだ。しかし、その顔には、本気の怒りはない。このすっとぼけた眼鏡の化身に腹を立てるというのは、なかなかに難しそうだ。

 夏神は、海里を見た。

「ほんで、お前、こいつをどないすんねん。なんぼなんでも、生き物みたいにしやべりよる奴を、またゴミに出し直すっちゅうわけにもいかんやろ」

 海里も困り顔で夏神を見返した。

「まあ、ちょっとそれは人としてどうかと思うけど、ここ、夏神さんちだからさ。俺が勝手に決められないだろ。いつも人間の姿ってわけじゃないとは思うんだけど……違うんだよな?」

もちろんでございます。昼間は眼鏡の姿でしかいられませんし、夜もお望みでしたら、眼鏡のままでおります。人の姿でも、このように小さく小さくまとまって、決してお邪魔にはなりません」

 ここぞとばかり、眼鏡男は胸にももがつくほど膝をきつく折り畳み、それを両腕でギュッと抱いてみせる。

 夏神は、情けない苦笑いで肩を揺すった。

「俺は別にかめへんよ。一人おるんも、一人プラス眼鏡がおるんも、大して変わらん。せやけどお前、飯は食うんか? ただの眼鏡は飯は食わんやろけど、お前は一応、ようかいの仲間になったんやろ?」

 眼鏡男は小さくなったままで答える。

「前の主の晩酌のお相伴は、しばしば務めておりました。ですが、食さねば死ぬというわけではございません」

「せやけど、飲み食いは好きか?」

「正直申しまして、味わうという行為は、なんとも楽しゅうございますね。人の姿のときに美味おいしいものをいただくと、眼鏡に戻ってからも、セルロイドのつやがひと味違う気が致します」

 そんな正直な返答に、夏神は相好を崩した。

「そうか。そらええな。食うことが好きな奴が、俺は好きや。俺はこいつがけっこう気に入ったで、イガ」

「マジすか。……まあ、いいけどさ。手の掛からないペットだと思えばいいんだろ? けど俺、眼鏡はかけないぜ? それでもいいのか?」

 海里に問われ、眼鏡男は盛んにうなずく。

「それはもう、お心のままに。ただ、あるじに粗末にされると、わたしは弱ってしまうと思いますので……その、肌身離さずお持ち歩きいただければ」

「うわ、めんどくせえ。……まあいいや、ちょっと眼鏡に戻ってみろよ」

「かしこまりました」

 言うが早いか、男の姿はかき消え、布団の上には、セルロイドの丸眼鏡がちょこんと残る。

 それを取り上げ、片方のつるをTシャツの襟に引っかけて、海里は夏神にそれを見せた。

「肌身離さずって、つまりこういうことだろ?」

『ああ、まことに結構でございますね。このように見晴らしのよい場所に掛けていただき、我が主の愛を感じます』

「拾って一時間やそこらで、愛なんか芽生えるかよ! ここしか引っかけとく場所がねえだけだっつーの。調子に乗りやがって」

 ブツクサ言いながらも、最初はガラクタだと思った眼鏡が、むしろヴィンテージ、いやもはやアンティークの域に入った品だと聞いたあとでは、見え方が少し違ってきた気がするあたり、海里はずいぶんと単純な性格らしい。

「だせえと思ってたけど、こうして掛けてみると目立ってなかなかいいかもな、このまん丸なレンズ」

 そんなつぶやきに、眼鏡が誇らしげに答える。

『わたしは、わたしが作られた当時、チャップリン、キートンと並んで「世界三大喜劇王」と呼ばれたアメリカの名優、ハロルド・ロイドが好んで掛けておりましたのと同じデザインの眼鏡なのです。ですから、セルロイドとハロルド・ロイドをかけて、わたしの仲間たちはみな、「ロイド眼鏡」と呼ばれておりました』

「へえ……。俺はまたジョン・レノン眼鏡かと思ったけど」

「俺は大江健三郎眼鏡かと思うた。せやけど、ロイド眼鏡か。洒落た名前やな。ほな、お前の名前もロイドでどうや? それとも、前のご主人に名前をつけられとったんか?」

『前の主は、わたしのことを単純に「眼鏡」とお呼びでした。それでも勿論構いませんし、「ロイド」でしたら、なお誇らしく……』

「いちいち話がなげーんだよ、お前は。ほんじゃ、ロイドな。とりあえず、お試し期間ってことで、しばらく持ち歩いてやるよ。……あ、けど、寝るときは外すぞ」

『それはこちらからお願い致したいところです、我が主。主の御身の下敷きになって最期を遂げるというのは、わたしとしては大いに誉れとすべきところでしょうが、しかしながら』

「うっせえ! 俺の寝相をどんだけ悪いと思ってんだよ! 黙ってぶら下がってろ」

『ご命令とあらば、百年でも喜んで沈黙致しましょう』

「百年黙ってたら、俺がその間に死んじゃうだろ!」

『おや、それは確かに、いささか寂しゅうございますね』

「ああもう……!」

 早くも漫才コンビのように、み合わないようなピッタリ嚙み合っているような会話を続ける海里と眼鏡を見守りつつ、夏神は「急ににぎやかになりよったなあ……」とあきがおながらどこかうれしそうに呟いた。

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