第3話 対舞曲 陰陽師お断り

「あのう・・・どちら様でしょうか?」

 関わりたくない一心で白々しく問い返した伊吹に、怪しい術師より先に、大きな体躯の眼光の鋭い男が眉根を寄せた。

 ぎろりと音がしそうな突き刺す視線に冷や汗が背中を伝う。

「別人か?」

 どうかお願いだから別人だって言って!!

「いや、彼女だよ。間違いない」

 伊吹の願いは三秒で吹き飛ばされた。




 店の入り口を塞ぐように立つ背広姿の二人の男はかなり目立っていた。

 揃って長身である事と、背広姿であるにも関わらず少しもサラリーマンらしくない雰囲気のせいだ。

 店の常連客達が怪訝な視線を美紅と加藤に向ける。

 加藤は取引先の社員の顔を順番に思い浮かべて、美紅に向かって心当たりなしと首を横に振った。

 美紅は、二人の容姿をじっくりと眺めてどの種類の人間かを見定めつつ伊吹の隣に向かった。

 艶のある市紅茶の背広の生地は高級品。

 少しもくたびれたところがないのは、専用のクリーニングに出して定期的に手入れしているせいだろう。

 足元は綺麗に磨かれた革靴。

 向かって右に立つ鋭い鋼のような印象を抱かせる男は店に入るなり、店内をざっと 見回し客層や従業員の様子をくまなく確かめていた。

 一般人とは到底思えない。

 軍人と言われれば一番しっくりくる容姿をしている。

 左側の男は、鋼とは真逆の掴みどころのない風のような印象で、長身ではあるものの、右側の男と比べれば線がいくらか細い。

 美紅がこれまでお見合いで出会った名家の息子達と同じ部類(親の七光りボンボン)の人間だろうか。

 右側の男の方が年上のようで、左側の男は誠一とそう変わらないようだ。

 そしてその男は伊吹と視線を合わせたきり、何かを探るように反らそうとしない。

「お客?」

 接客用の花のようだと評される笑顔を張り付けて隣に並んだ美紅が小声で尋ねた。

 困った表情で黙り込む伊吹の手を引こうとした矢先。

「少しお時間頂けますか」

 軍人らしき男が内ポケットに手をやって取り出したそれを見て、伊吹と美紅は天を仰いだ。

「伊吹、あなたなにやらかしたの?」

 目の前に印籠よろしく差し出されたのは、一生に一度お目にかかるかどうかの警察手帳だった。





 一瞬のざわめきの後、美紅がこちらへどうぞ、と一行を案内したのは奥の半個室。

 カーテンで仕切られたそこは、店内からは見えないようになっており、カーテンを 閉めてしまえば大声でない限り店内には聞こえない。

 

当然のように同席した美紅に向かって、二人の男はまず最初に自己紹介を行った。

「私は、この男の所属する陰陽寮の上司で、芦屋成伴といいます」

 見た目通りの硬質な低い声で発せられた陰陽寮という名前と警察手帳が全く結びつかない。

「陰陽寮って・・・暦博士がいるところ、ですっけ?」

「ええ、そうです。天体の動きを確認し、暦を管理し、陰陽道に基づいて式占を行うのが主な仕事です、本来は」

「ですよねぇ・・でも、警察・・・?」

 人差し指を頬に添えて、小首をかしげる美女の可憐な仕草を常連客に見せてやれないことが悔しい。

 至極当然の疑問を口にした美紅にひとつ頷いて、成伴が無表情のまま答える。

「巷で出回っている偽の祓い屋や拝み屋の事をご存じでしょう?ああいう輩を摘発したり、害を為す禍付きを祓う事もあります」

「お二人は陰陽師ってことですか・・?」

 伊吹は呟いて、あの夜、目の前で結ばれた星の印を思い出す。

 彼が陰陽師だったなら、あの不思議な気配も、まじないが弾かれた事も納得出来た。

「そうです。もっとわかりやすく言えば、市民を禍付きから守る専用のお巡りさんと思っていただければ」

 平たく付け加えた伊吹と面識のある陰陽師は、成伴と比べると随分と柔らかい口調だ。

 どうしたって警察官には見えない。

「ああ、なるほど、そう言われれば良くわかりますわ」

 合点がいった美紅に愛想よく微笑んで、怪しい術師もとい陰陽師は伊吹に向き直った。

「で、お嬢さん。先日お会いしましたよね?探しましたよ。俺は倉橋有匡といいます。あの夜のお詫びをしたくて伺いました」

「・・・お詫び・・」

「私の部下が誤って術を放って一般市民に怪我を負わせたと報告を受けましたので」

 誤って・・・?

 あの夜、先にまじない言葉を発したのは伊吹のほうだ。

 有匡は、攻撃を弾き返しただけにすぎない。

 色々と誤解があるように思うが、それを口にする前に美紅がすごみのある笑顔を浮かべた。

「ああ!じゃあ、あなたがあの夜、私の親友のお気に入りの着物と帯と帯留めを台無しにして、怪我を負わせた張本人というわけですわね」

「本当に申し訳ない事をしました・・すみませんでした。お怪我の具合は?」

「い、いえ・・腰の痛みももう収まりましたので」

 ばつが悪い気分で曖昧に返した伊吹に、有匡がそれは良かったと頷いて、ところで、と切り出した。

「な・・なんでしょう・・」

「お嬢さんがあの夜、俺の戻りを待たずにいなくなった理由を教えていただけますか?随分心配しました」

「先ほど申し上げた通り、我々の仕事は偽の祓い屋や拝み屋を摘発することでもある。紛い物の護符は禍付きを呼ぶこともあるし、それを売り捌く悪質な者もいる。受けた術は初めて見るものだったと有匡から報告を受けたが・・」

 そういう目を向けられる可能性があるから、あの場から早々に逃げたのに。

 お詫びというのは口だけで、本当は伊吹の事を疑って探りにやって来たのか。

 強い呪力が無くても、禍付きが見える人間は多くはないが存在する。その中には、 伊吹の使うような微弱なまじないを売り物にして儲けを得ようとする者もいるのだ。

 これだから警察は嫌いだ。

 成伴の言葉に先にテーブルを叩いて怒りを露わにしたのは美紅だった。

「この子の身元証明が必要でしたら私と兄が喜んで保証人になりますわ!」

 大の男二人を前に恐れもせず噛みつく親友の勢いに続くように、伊吹も必死に反論した。

「・・必要であれば調べて頂いて構いませんが、あたしの収入源はこの店の給金だけですし、護符を作る力も知識も全くありません!禍付きが見えるのは祖母の血を継いだからです。怖がりなあたしに祖母が禍付きを遠ざけるおまじないだと言って教えてくれたのがあの日使ったまじない言葉です、他には知りません」

「・・・失礼、よくわかりました」

 二人の勢いに圧倒されたのか、成伴が店に来て初めて表情を崩した。

「こういう疑いを向けられるのが煩わしいから・・逃げたんです・・・あたしには親が居ませんし、友人には面倒をかけたくなかったので」

 尻すぼみになった最後の言葉に、美紅がぎゅっと手を握ってくれた。

 一人だったらこうも全力で言い返せたか分からない、友情というのは本当に有難い。

 有匡が気づかわしげな表情で何度目かの謝罪を口にした。

「・・申し訳ない」

「気分を悪くされたなら謝ります。仕事柄どうしても確認が必要なことなので、ご容赦願いたい」

 成伴の説明は彼の立場を考えればごもっともだが、やっぱり気分の良いものではない。

「いえ・・」

「それにしても、倉橋さんはあの夜、一瞬伊吹の顔を見ただけでしょう?よくこの店の女給だってお分かりになったわね」

「風呂敷包みからエプロンが落ちたのを記憶してたんでね、このあたりのカフェーを虱潰しに」

「十日目で分かって僥倖だったな」

 低く呟いた成伴が話は終わったと先に席を立った。

「彼の身元は私が保証する。今回の一件に関する賠償は警察ではなく、その男が誠意をもって行うので、着物と帯と帯留めだったか?それと治療費も存分に請求してくれて構わない、では」

「・・・よろしかったらコーヒーお召し上がりになりません?」

「いや、結構。勤務中なので。私はこれで失礼する」

 美紅の誘いを断ると軽く会釈して、中折れ帽を被ると引き留める暇もなく成伴は店を出て行った。

「刑事さんってお忙しいのね・・・で、倉橋さんはどのように伊吹に誠意を持って償いをなさるのかしら?」

 あっという間に通りの人込みに紛れてしまった成伴の背中を見送って、美紅が振り返った。

「そうですね、お気に入りの着物と帯それから帯留めを、まずは弁償させてください」






「あら、伊吹ちゃん!今日は男前と一緒なの?」

「なんだい、伊吹ちゃん!男っ気がないと心配してたけど、面食いだったのかぁ!」

「おや伊吹ちゃん!随分見目のいいお兄さん連れてるねぇ」

「やだわぁ、伊吹ちゃん、羨ましいわー。わたしがもうちょっと若かったらねぇ!」

 元町通に店を構える顔なじみの店主たちが、かわるがわる声をかけて来る。

「みんな店に戻ってしっかり店番してよ!!!」

 

 白猫屋を出てからずっとこの調子だ。

 三丁目を出る前に気力が尽きてしまいそうになる。

 伊吹の隣を歩く有匡の歩調は驚くほどゆっくりで、せかせかと早足になってしまう自分が酷くみっともなく思えた。

 

 毎日のように行きかう通りを、家族や誠一以外の男と歩いたことなんてない。

 美紅に付きまとう男性客を追い払う事には慣れているが、こうして出歩いて一緒に買い物をするなんて人生初めての出来事だ。

 着物や帯の弁償と言われて、すぐにこの状況が飲み込めない伊吹に代わって取り仕切ったのは美紅だった。

 仕事が、と言い訳する伊吹からエプロンを奪い、有匡には、伊吹が着ていた銘仙がどれだけお気に入りで、祖母から譲り受けた帯留めが家宝としてどれだけ大切にされていたかを切々と語った。

 お気に入りの銘仙は古着屋で値引きしてもらったもので、帯留めは祖母のお気に入りではあるが家宝ではない。

 美紅の説明を受けた有匡は、神妙な面持ちで申し訳ない、と頭を下げて誠心誠意お詫びをさせてほしいと言った。

 勿論ですわ!と請け負った美紅が伊吹の手を掴んで早速店を出ようとしたのを全力で引き留めたのは加藤だった。

 警察とはいえ、初対面同然の男と一緒に買い物になんて行かせられるわけがない!私が旦那様に叱られますからお願いですから店番してください!と懇願されて、渋々 引き下がった美紅に、遠慮せずしっかり買ってもらいなさいよ、でも遠くには行かないでね!と念を押されて白猫屋を出発したわけだ。

 

 店と長屋の往復だけの毎日であることを店主たちは皆知っているから、面白半分で野次馬をしてくる。

 伊吹だって逆の立場だったらやっぱり気になって店の前を掃き掃除するに違いない。

 だって立っているだけで目立つ男がすぐ傍にいるのだから。

 店主たちの視線にもからかい半分の声にも全く動じることなく有匡は通りを歩いていく。人の視線を集めることに慣れているようだ。美紅もそうなので、美男美女の特徴なのだろう。

 時折伊吹の歩調を確かめるように、視線を下げてこちらを見てきた。

 初夏の陽気の下で見る消炭色の瞳は、あの夜よりもずっと明るく鮮やかだ。

 身近にない色見に魅入ってしまいそうになって、慌てて視線を引き戻す。

 背の高くない誠一や加藤とは違う、見上げる高さには慣れそうにもなかった。



「あの・・みんな悪気はないので・・珍しいだけなので・・」

 俥で行こうかと提案された時に、遠くまで連れ出される事を恐れて断ってしまったが、素直に頷いておけばよかった。

 伊吹としては、元町通の馴染みの店で適当に着物と帯を見繕えればそれでいいと思っていた。

 元より戻ってくる予定のなかった着物と帯である。

「ああ、気にしないで、伊吹ちゃ・・さん」

「・・伊吹ちゃんでいいですよ。このあたりの人は皆そう呼びますし・・畏まられるとそのほうが困ります」

「じゃあ遠慮なく。みんなきみの事を気に入っているみたいだね」

「ほかのカフェーと違って白猫屋の女給は美紅とあたしだけですから、覚えやすいんですよ」

「覚えやすいのと、気に掛けるのは違うと思うけど・・ぶつけたのは本当に腰だけ?固い煉瓦道じゃなかったのが幸いだけど、俺もあの時は油断しきってて・・・」

「痛かったのは腰だけです。湿布貼ったら治りましたし、ご心配なく」

 胸に行く筈が予定変更してお尻についてくれた贅肉に今だけは感謝しておく。

「良かったら知り合いの診療所を紹介するけど・・もちろん、費用はこっち持ちで」

「いえ、結構です」

 不要な縁は結びたくないのできっぱりと断った。



「警察は面倒だし、これ以上関わりたくないし、俺たちの事も信用出来ない、よね」

 見事に心の内を言い当てられて、思わず立ち止まった。

 元町通を西に向かって歩くこと数分。

 小間物屋と乾物屋を通り過ぎた、白壁商店の手前で有匡がこちらを振り向いた。

「伊吹ちゃん、この店はどうかな?」

 指さした先にあるのは、来年元町通の一丁目に大きな百貨店を開店させる予定の、二階建ての元丸呉服店だ。

 独り暮らしの苦しい家計では、反物を誂えるのは到底難しい。

 父親が生きていた頃も、年に一度歳末の売り出しの時期にしか入ったことのない老舗の呉服屋である。

 紳士服に詳しくない伊吹にも分かるほど、上等な背広姿の有匡には似合いの店だ。

 気を悪くした様子もなく、返事を待つ有匡の瞳はただただ静かで。

「あ、あたしの行きつけのお店はこっちなんですっ」

 通りに面した陳列棚に飾られている華やかな檸檬色のお召が気になったけれど、振り切る。

 半結びの髪に差した青藤色の小鳥の髪飾りがシャラシャラ揺れた。




 若手の画家が集まることで有名なカフェーランクルブルーのある五丁目の一角に、昔からある古着屋、大橋屋。

 着道楽の華族や上流階級の家庭から買い取った着物は状態も良くて洒落たものが多く、若い娘たちに人気がある。

 平日の昼間とあって、伊吹たちのほかに客はいなかった。週末であれば一番繁盛する時間帯だ。

 商品の回転も早く、気に入った着物が数日後には売り切れていることもよくある。

出会った瞬間に買うのが大橋屋の鉄則だ。

 こじんまりとした店内の棚に詰められた色とりどりの銘仙を手にとっては肩に掛け、戻してはまた別のものを取る。

 同じ作業を繰り返していると、普段の休日のように一人で買い物に来た気分になってくる。

 店に入って、いつものように挨拶をすると、まだら白髪を丸髷にして愛用の老眼鏡を掛けた高齢の女店主は、皺の寄った顔を好奇心いっぱいにして伊吹にしたり顔を向けてきた。

 柳鼠の地に雲の柄の着物の裾をいつもより丁寧に整えて、にっこりと有匡に微笑んだ後、用があったら声をかけるように言って店の奥へと引っ込んでしまった。

 有匡と伊吹の関係を誤解して物凄く気を回された事はすぐに分かったが、知らぬ存ぜぬを通して買い物に集中する。

 紅に大ぶりな桜の柄の銘仙は、もう時季外れだが来年まで出番を待つのも楽しい。

元丸呉服店で反物を一枚誂える値段で、この店の着物や帯がどれだけ買えるだろうか。

 女郎花の卍繋ぎに朝顔が描かれた帯は、これからの季節に打ってつけだ。

 値の張るお召着物の棚には、前々から目をつけていた梅紫の地に菊と御所車が華やかな一枚がまだ残ってくれていた。

 思わず手を伸ばしそうになって、留まる。

「警察って印象良くないし、怖いよね」

 古着屋に足を運ぶ機会が少ないであろう有匡は、陳列台に並べられた帯締めや帯留めを珍しそうに眺めている。

 世間話のように振られて、油断してしまった。

「普通に生活していたら、関わることはないですし、出来るだけ関わりたくはないですね」

「だよね、俺も少し前まで警察官じゃなかったから、わかるよ。軍人も警官もサーベルつけてるだけで偉そうなの多いし」

「ですよねー。上司の方はいかにも警察官て感じでしたね」

 若菜色のアールデコ風の幾何学模様の帯は珍しい。

 熨斗目花色の羽が描かれた羽織は手持ちの着物にも合わせやすそうだ。

「芦屋さんは、陰陽師だけど元から警察官だからね、聞き込みも事情聴取もお手の物だよ、ああいう人が一緒だと警察官って疑われないからその点は助かってる」

「確かに・・」

 あの上司がいまも同行していたら、きっと買い物どころではなくなってしまうだろう。

 今回の一件に関しては警察ではなく、有匡が個人的に対応すると言われた時には心底ほっとした。

「視えると怖い事も多いだろうし、最近は色んな術師が出回ってるから尚更信用できないよね」

「陰陽寮がある事は知ってますけど、まさか今も陰陽師がいるとは思ってなかったので・・」

「あはは・・そうだね。そう多くはないけど、一応いるんだよ、俺はその中でも二流だけど・・」

「一流とか二流とかあるんですか?」

「もちろんあるよ。腕の良い陰陽師なら、たぶん伊吹ちゃんのまじないを消滅させるだけで対処できたはず。芦屋さんは一流だから、あの夜きみと鉢合わせたのがあの人だったら怪我させることも、着物を台無しにすることも無かったと思う。申し訳ない」

「あのう・・でも、先に術を使ったのはあたしですから・・倉橋さんが誤って怪我をさせたってわけじゃ・・」

「あの夜、俺は軽く酔っててね、思考も鈍ってて判断能力も欠如してた。普段なら、向けられた術の種類や威力をもう少しちゃんと見極められるんだよ、言い訳だけど。だから、この件は全面的に俺に落ち度がある。女の子を術で跳ね飛ばして怪我させるとか・・あり得ないよ」

 着物や帯の事は確かに悔やまれたけれど、こんなに責任を感じられてしまうと逆に申し訳ない。

 大の男を虐めているような気分になってくる。

「でも、あの怖い上司の人に叱られたんですよね・・?」

「叱られる、というか呆れられたけど、当然の事だから。もし俺が君の親なら怪我させた相手を八つ裂きにするね」

「そ、そんな大層なことじゃ・・」

「力のある者が、力のない者を傷つけるのは一番しちゃいけないことだよ。しかも嫁入り前のお嬢さんに・・ほんとうに申し訳ない」

「なんか・・こちらこそ・・すみません・・・」

「え、なんで謝るの」

「良心が痛むので・・」

 警察は面倒だけれど、目の前の陰陽師は信用できない事も・・ない、かもしれない。

 これ以上この一件を引きずりたくなくて、頭を下げる。


「きみ、わかりやすいって言われない?」

「え・・・」

「素直ですごく助かるよ」

 にこっと人の好い笑みを浮かべた有匡が、伊吹の手元に視線を向けた。

「その羽織と帯、最初に見てた桜の着物と朝顔の帯、あとはさっきから気にしてる棚にある着物を貰おうか」

 適当に店内を物色しているとばかり思っていたが、しっかり伊吹が手にする商品を見ていたらしい。

 そのうえ、手に取るのをためらったお召の陳列棚にまで気づかれている。

 柔らかい雰囲気を醸し出すこの陰陽師は、決して油断してはいけない相手、だ。





 購入した着物は白猫屋に届けてもらうことにして、店の前でお礼を言って別れようとした伊吹に、有匡は今度は怪我をさせたお詫びを、と言いだした。

 湿布は三星堂薬局で買った普通の市販品だし、高額の治療費を請求されても当然払えないので、医者に見せてもいない。

 数日続いた腰痛も、今ではすっかり良くなって日常生活に問題なし。

 これ以上恩を着せられる方が困る。

 必死に辞退を申し出る伊吹をのらりくらいと交わしつつ、有匡が連れてきたのは六丁目の外れにある、近代建築物だった。

 半年前に開店したばかりの鉄筋コンクリート造5階建ての呉服百貨店三吉屋。

 洋風建築が多く並ぶ目抜き通りでもひと際大きなそれは、大食堂と最新のエスカレーターが完備された神戸の最新名所だ。

 三吉屋の主軸である呉服の取り扱いは勿論の事、婦人服や紳士服、服飾雑貨全般に貴金属、食品に美術品まで幅広く取り扱っており、最上階の催事場では新開地で人気の芝居が演じられる事もあった。

 とはいえ、あくまで富裕層を客層に設定された店舗である。

 何度か美紅に誘われたが、一度も店を訪れたことはなかった。

 百貨店といえば、全女性の憧れの場所である。

 とびっきりお洒落をして、百貨店で買い物をして、食堂で洋食を食べて、カフェーでティータイムを過ごして、新開地で芝居を楽しむのが贅沢な休日。

 食費を削ってでも可愛い服が着たい伊吹にとっては、百貨店は夢が詰まった宝箱のような存在だった。

 敷居が高すぎると回転扉の前で立ち尽くす伊吹の背中を軽く押して、有匡は平然と中に入っていく。

 履物を脱ぐ想定はしていなかったので、真新しい足袋ではない。

 百貨店に来られるなら、箪笥にしまってある四君子柄の上品なお召を着たかった!!

 おどおどと足を踏み入れた伊吹を迎えたのは、吹き抜けの天井と、複数の電気の照明で照らされた明るい店内。

 呉服店や百貨店に見られる、履物を預かる係の者が近づいてくる様子もない。

 買い物客たちは、草履や革靴のまま店の奥へと進み、商品を手に取ったり、エスカレーターで移動したりしている。

 立ったまま人を上階へ運ぶあれが噂のエスカレーター・・!!!

 一階は服飾品の売り場らしく、ガラス張りの陳列棚にスカーフやハンカチ、洋傘が展示されていた。

 通路の向こうには、オペラバックが並べられ、紳士向けの山高帽や中折れ帽、夏に向けたパナマ帽やカンカン帽が見える。

 婦人帽子の花飾りのついたクロシェに、紺のリボンが巻かれたキャプリン、セーラー服の女学生が被っているようなベレー帽も綺麗に展示されていた。

 白いレースの手袋に、フリルの可憐な洋傘。

 噛り付いて眺めたいくらい乙女の夢の世界がそこには広がっていた。

 美紅から借りるのを毎月楽しみにしている雑誌、婦女世界で紹介されているような素敵な小物たちがこっちへおいで、手に取って!と呼びかけてくるようだ。

「やっぱりこういう場所、好きだよね」

 両の目をめいっぱい見開いて売り場を眺める伊吹の様子に有匡はほっと息を吐いた。

 このまま放置されても数時間ここで楽しく過ごせる自信が今の伊吹にはあった。入店前の躊躇いが嘘のようだ。

「好きに見てくれていいよ。ご婦人の買い物は俺にはよく分からないから・・・ええっと・・」

 きょろきょろと辺りを見回した有匡が、背広姿の店員に向かって片手を上げた。

「有匡さん、いらっしゃってたんですか!今日はお買い物で?」

「そうなんだけど、緋継、今日は店に来てるかな?」

「今日はお見えになっていません。何かお手伝いしましょうか?」

「うーん・・ご婦人の買い物の手伝いを頼みたかったんだけど・・こういう時に限って居ないのか」

「玉さまですか?」

「いや、別の・・・」

 有匡が視線をこちらに向けて来たので、隣にいる店員に丁寧に頭を下げた。

 伊吹が頭を上げるより先に、店員の男が驚いた声を上げる。

「え!有匡さん!春ですね!!」

「・・・」

 ついさっきどこかで見た光景が目の前で繰り広げられている。

 先ほどの有匡を習って素知らぬ顔で陳列棚に視線を向けた。

 二度と連れ立って店に来ることはないだろうから問題ない。

「残念ながら、俺が面倒をかけたお嬢さんなんだよ。お詫びの品を贈りたいから、見立てを頼もうと思ったんだけどなぁ」

「・・あの、倉橋さん、お気遣いは・・」

 無用です、と言いかけた伊吹の顔を見て、有匡が何かを思い出したように声を上げた。

「ああ!そうか!ご婦人にはご婦人だ、ちょっと待ってて!広田さん、二階にご案内して一式持ってきて」

「一式ですね、承知いたしました」

 店に入ってくる買い物客の流れに逆らって、有匡は店の外へ出て行ってしまった。

 適当に見学して帰ってくださいと言われれば喜んで!と答えるところだが、そういうわけにはいきそうにない。

 どうすればいいんだろう・・・

「お嬢様、ご案内いたします。こちらへどうぞ」

一人残された伊吹に向かって、広田が営業用の温和な笑みを向けた。




 人生初のエスカレーターを体験して、高揚した気分のまま案内されたのは婦人服売り場の奥の個室だった。

 入り口で履物を脱いで上がる、昔ながらの呉服屋の様式だ。

 十畳ほどの和室に、洋風のテーブルと長椅子が置かれた応接らしきその部屋は、誰がどう見ても上顧客向け。

 所在なさげに視線を彷徨わせる伊吹の前に、白磁のティーカップに入った紅茶が出されると、すぐに次々と売り場から商品が運び込まれてきた。

 

 初夏の花が描かれた反物が数枚、通年で着られる柄はその倍、夏に向けた涼しげな色の絽の反物まである。

 鶴の柄の名古屋帯に薔薇の半幅帯、綸子、ちりめんの帯揚げの次には、七色の組紐の帯締め。

 モスリンやレース、花の刺繍の可愛らしい半襟は、先月の婦女世界に紹介されていたものとよく似ている。

 オペラバックにハンドバック。

 赤白の格子の鼻緒が洒落た草履が並べられると、次は洋服だ。

 アールデコの締め付けのないひざ下丈の石竹色のワンピース。

 四角い襟元が特徴の花柄のワンピースは浅縹が初夏を思わせる。

 足首で留め金を固定する踵のあるパンプスは上品な真珠色。

 レース編みのクロシェと、紺の縁取りの砂色のキャプリン。

 天鵞絨の長椅子の上に次々と並べられていく装飾品は、髪飾りから指輪、懐中時計にまで至った。

 息つく間もなく届けられる品々に、伊吹が目を回しそうになったところで、ようやく応接に有匡が顔を出した。


「ああ、届けてくれたんだ。ありがとう。後はこういうのが得意なお方に任せることにするよ」

 テーブルから転がり落ちそうな反物の山を気にも留めずにそう言って、有匡が背後を振り返った。

「このお嬢さんがこの間話した子だよ。伊吹ちゃん、いい子だよ」

 それから視線を伊吹に戻す。

「伊吹ちゃん、ひとりにしてごめんね。俺より適任を連れて来たから遠慮なく見立てて貰って」

「え?」

「なんじゃ、どうにも色合いが地味な気がするのう・・もっと派手な柄を持ってこさせんか」

 鶴の一声に反物を運んできた女性店員が二つ返事で頷いた。

「かしこまりました!ただいま!」

「言っとくけどちゃんとモデルに合わせて見立ててよ?」

「どの口が言うておる生意気な」

 足早に売り場に戻る店員に追加で指示をしていた広田が困り顔を浮かべた。

「有匡さん、玉さまが来られるなら言っていただかないと困りますよ!」

「申し訳ない・・ちょっと、すぐそこで会ったもんで」

「玉さま用の反物と帯、すぐお持ちして!」

「この前の仕入れで分けておいた金糸の帯と羽織もお持ちします!」

「よろしく頼む!」

「レース編みのショールは!?」

「薔薇の髪飾りと合わせて保管してあります!」

「よくやった!すぐに運んで!」

「ビーズのオペラバックとシフォンのサマードレスも!」

「新作のキャプリンと手袋も全部運んで!」

 店員の目の色が変わっている。

 部屋に溢れる極彩色を前に、まだ足りんと漏らしたその人が出払った店員と入れ替わりに優雅な足取りで個室に入ってきた。

 飛び込んできたのは白磁に一滴だけ朱を混ぜたような絶妙な白い肌と、ぷっくりとした深緋の唇、見たことのない紅消鼠の瞳。

 美紅もとんでもなく美人だが、目の前の美女はもう人ですらない。

 纏う空気がそもそも違う。

 神様が誤った審美眼でうっかり作ってしまった世界を終わらせる最終兵器のような美貌がそこにはあった。

「そちが伊吹か?」

「は・・はひ・・三浦伊吹・・です」

 圧倒的な迫力と色気に頭も口もやられている。

 細くて長い指先がついと顎を持ち上げて来る。

 高慢な物言いと仕草なのに、不思議と少しも嫌な感じがしない。

 全て任せて身を委ねたい気持ちにさえなる。未体験の感覚に戸惑うけれど何もかもが夢のような気分だ。

「ふぅむ・・・かわゆいのう。おなごは良いのう」

「え・・いえ・・えへへ」

 じっくり見つめられれば心臓はばくばくと騒ぎだして、頭の中は真っ白になる。

 なんかめちゃくちゃいい匂いするう・・・可愛いって可愛いってえへへ。

 どろどろと思考が蕩けて、頭の中がふやけて、やがて目の前の美女で埋め尽くされる。

 極楽浄土とはまさにこのことだ。

「玉藻前、色香出すの止めてよ」

「やかましい!伊吹や、此度の件、このまぬけのせいで辛い目に合うたのう。妾がしっかり灸をすえてやったからのう、許せよ?ん?」

「いえいえ・・許すなんてそんなー・・怒ってないですぅ・・・」

「痛いところはもう無いかえ?」

「はいー・・ありません・・えへへ・・いまは・・ドキドキして胸が・・苦しいだけですぅ」

「なんじゃ、ういやつめ。妾の尻尾で撫でくりまわしてやりたいのう」

 くすくすと鈴を転がす笑い声と共にたわわな胸にぎゅうと抱きしめられる。

「はふぅうん」

 桃より柔らかくて温かい豊満な胸の弾力は堪らない。

 店に来る暇な男性客達が通りを歩くご婦人の胸元を見ては甲乙をつけているのを見て、馬鹿かと思っていたけれど、ほんの少しだけ理解した。

 尻尾?猫や犬にあるあれか?ふわふわのやーらかい。

 どこかに動物がいるのだろうか?けれど、それより何より今は目の前の豊満な美女である。

「んふふーえへへーむにむにー・・モフモフぅ」

「ちょっと、間違っても尻尾出さないでよ!ってか働いてよ!ほらほら!伊吹ちゃんも目を覚ます」

 パン!と目の前で有匡が両手を叩いた。

 と、頭の中の桃色が一気にかき消されてしまう。

 伊吹を胸元に閉じ込めたままの玉藻前が、きゅっと唇を尖らせた。

 真下から見上げると絶景で、妖艶な唇の色に飲み込まれそうになる。

 あら、あたしエスの気はないはずなのに。

 美しすぎる美貌を前にすると性別なんて関係ないのかもしれない。

「妾は玉藻前じゃ。玉、と呼んでもええぞい」

「玉藻前・・・」

「伊吹ちゃん、みんな玉さんとか玉さまって呼んでるよ」

 どこかで聞いた気がする単語だが思い出せない。

 有匡の声に頷いて、玉さまとお呼びすることに決めた。

 お母さま、と呼ぶには若すぎるし、有匡の姉とは違う気がする。

 これはあまり突っ込んではいけない淫らな関係に違いない。

 深く考えるのはやめて居住まいを正すと、ちょうど新たな商品が届けられた。

「玉さま!こちら、瑠璃色扇柄のお着物です!」

「常盤色糸菊と小花の羽織になります!」

「黒地牡丹の名古屋帯に銀の帯締めでございます!」

 ずらりと並んだ女性店員が、手にした品を玉藻前に差し出す。

 長椅子の背に凭れてすいと視線を向けた玉藻前が、ひとつ頷いた。

「用意させよ」

「ありがとうございます!!!」

「さて、まずは伊吹のおべべを決めんとなぁ。かわゆいおべべをたーんと選んでやろうなぁ」

「え、いえ結構です!さっきも買っていただきましたので!」

「心配はいらん。有匡はああ見えて名家の倅じゃ。着物の支払いに困ることはない。 おなごは着飾る事だけ知れば良い。美しいものに力は宿る」

「玉さまはほんとうにお綺麗です・・・」

「ふふふふ・・おなごは良いのう。着飾り甲斐があるのう」

 声を聴いているだけで夢見心地の気分だし、傍に行けば白檀の良い香りが漂ってくる。

 ほれそこに立て、と指示されて壁の前に直立不動で立ち尽くす。

 運び込まれた反物を次々と広げては伊吹の身体にあてがって、玉藻前が二つの山に分けていく。

 足元に控えている女性店員が、心得た様子で転がってくる反物を回収しては戻していった。

 着物の選別が終わると衝立が運ばれてきて、洋装がずらりと用意される。

「ほれ、着物を脱げ。次は洋服じゃ!」

「え!?ちょっと待ってよ着替えるの!?」

「おぬしは馬鹿か?試着せんと似合うも似合わんも分からんじゃろうて!」

「わかったよ、わかりました!ちょっと待って俺は別室に行くから!!じゃあ伊吹ちゃん玉藻前と仲良くね!」

「え、あ、はいいいー」

 こうして、日が暮れるまで応接での試着会は続いた。




三吉屋婦人服売り場日誌。


午後、玉さまご来店。別枠保管の反物、帯をご提示。

同伴ご令嬢向け反物、帯、洋装一揃えお求め。


煉瓦色花薬玉反物

葡萄色花菱亀甲反物

花葉色御所車反物・・・


反物9枚

帯7本

オペラバック

ハンドバック各1点

クロシェ帽1点

キャプリン2点

手袋3点

ハンカチ2点

ワンピース3着

草履、パンプス各2足



晦日倉橋様にて支払い

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