大正妖恋小歌劇 ~神戸異人街異聞~

宇月朋花

第1話 開幕 ~禍付きにご用心~

 大正後期。


 多くの外国船が行き交う異国情緒溢れる港町神戸。


 洋館が立ち並ぶ旧居留地、通称【異人街】を舞台にして小歌劇の幕は上がる。








 静かな春の夜の景色が続く窓の向こうに、三ノ宮の停車場らしき明かりがぼんやりと見えてきて有匡はやれやれと肩の力を抜いた。




 倉橋有匡くらはしありまさ、28歳、現存する陰陽師の末裔の一人(二流)、現在不本意ながら陰陽寮に所属させられているが、もう一つの肩書は美術商の次男坊だ。


 呪力持ち特有の黒とは異なる消炭色の瞳を持ち、平均身長よりも頭半分程上背があり、通った鼻筋と薄い唇、垂れ気味の目尻は温和な雰囲気を醸し出しており、人好きのする顔である。




ブロマイドが飛ぶように売れる人気役者ではないが、主役をうまく引き立てる脇役にいそうな顔だ、と評されることが多い。


 平たく言えばそこそこの美丈夫だ。


 身に着けた背広も三つ揃えの仕立ての良いもので、光沢のある鉄紺の背広に合わせた首元のネクタイの華やかな栗梅茶は祝い事の為。




 そんな脇役俳優階級の有匡と同行している同僚達も皆揃って要望風采に申し分ない男ばかり。


 ここが元町通のカフェーであれば、女中たちが競い合って媚びを売りに来るだろう。




 だが、現在彼らの存在を空気のようにかき消してしまう一人の乗客が乗車していた。




 隣に腰かけている膨れっ面の傾国の美女を横目に有匡はこっそりため息を吐く。


 かれこれ10年以上眺めているが、一切老けないし美貌に僅かの陰りも見られない、彼女は出会った時と変わらず恐ろしいほどの美しさだ。




 一等車両の乗客は有匡たちを含めて十数人ほどしかいない。


 彼らの視線を惹きつけてやまない麗しの女性は、これでもその見た目を通常の三割ほど抑えていた。




が、向けられる視線は羨望と陶酔のそれで、中には涎を垂らして同伴の女性に睨みつけられた者までいる。




 他者を圧倒して屈服させる凄まじい色気と魅力を放つ美女は、インド、中国、日本を股にかけて国を混乱させた大妖怪、九尾の狐(玉藻前)その人である。


 有匡が幼いころ、土御門の本家の蔵で見つけ出した殺生石のかけらに眠っていた玉藻前は、全盛期の三分の一ほどの妖力となっていた。




 とはいえ、日本中を探しても類を見ない大妖怪である。


 偶然彼女を目覚めさせることになった有匡は、残念ながら玉藻前の魔性の魅力には囚われず、それを面白がった彼女が有匡に憑いて回るようになり現在に至っている。




妖艶な未亡人と年下のパトロンというよりは、母と子のような間柄が一番近しい。




 本日の美女の装いは紫地に束ね熨斗文様の華やかな訪問着に、乾鮭色に白薔薇の名古屋帯、帯揚げは柳染で、帯締めは山吹色、帯留めは薔薇を模したあこや真珠を合わせて、羽織は紺の橘文様。




 陶器のような白い肌に柘榴を思わせる唇、艶やかな束髪からこぼれる後れ毛にまで妖艶な香りを纏わせている。




 鉄紺と青墨と松葉鼠と市紅茶と濃鼠の三つ揃えの上等な背広姿の五人と醤色の書生姿の一人の地味な色味の中に咲く大輪の花。




 本日の全員分の装いを玉藻前と連れ立って決めた緋継の美的感覚は文句なしに素晴らしい。


 呉服百貨店の跡取り息子として、着道楽の能力を遺憾なく発揮していた。


 贅沢の限りを尽くして国を傾けた過去を持つ玉藻前の美的感覚については語るまでもない。




 仕事の一環で出席することになった今日の宴会を、玉藻前という大輪の花の護衛と考えれば完全に任務は完了だ。




 派手好きと派手好きの奇跡の共演のおかげで、今頃大騒ぎになっているであろう鞍馬山周辺には、心の中でご愁傷様ですと呟いておく。




「なんじゃ!話はまだ終わっておらんぞ!!」




 全身で疲労を感じている有匡の耳に、すかさず険のある声が突き刺さってきた。


 小さなため息をしっかり見られていたらしい。




 どうにかしてくれと視線を前に向けるが、向かいに座る凪は素知らぬ顔だ。




 女形をやらせれば人気が出そうな愛嬌のある童顔と、薄い身体にひょろりと長い手足を持つ有匡より年下の若い男。


 多田凪ただなぎ、22歳、子供の頃から神童と呼ばれたほどの呪力持ちで、妖を退治した祖先を持つ剣士の家系だが、本人の才能は剣ではなく絵筆を握ることで開花した。


 学生の頃から趣味で始めた美人画が大人気となり、今や高良蒼翠たからそうすいという雅号を知らない女学生はいない。


 出版社がこぞって挿絵を頼みたがる売れっ子画家で、倉橋美術商とも切っても切れない縁がある。




 ふわふわと宙に浮かべた指先で虚空に描くのは、先ほどまで繰り広げられていた宴会の描写か、はたまた絶世の美女か。




 それならと、はす向かいの席の緋継に渾身の目力で訴える。




 こういう場面でこそ白皙の美青年と謳われるその美貌が活躍するべきだ。


 渡辺緋継わたなべひつぎ、28歳、有匡の幼馴染でもある男は凪と同じく妖と関わりのある呪力持ちで、本職は呉服百貨店三吉屋の超有望且つ有能な跡取り息子だ。


 彼が店に立てば、ひー様目当ての女性客がこぞって押し寄せて売り上げが倍増するという伝説を持っている。


 出会った女性の全てを虜にする美貌と話術を持つと言われている男。


 この面々の中で誰よりも品よく背広を着こなす紳士は長い足を組む仕草さえ憎らしいほど絵になる。




 異人街のレディキラーよさあ行け!




 本日もお供に付いてきた、通路側の足元で控える常人には見えないように化身した英国産の魔犬、黒妖犬のチコが眩しそうに主を見上げている。




「まあまあ、そう急かさずに。有匡だって時が来れば恋人の一人や二人作れますよ、恐らく」


「恐らくってなんだ!っていうか余計なお世話だ」




 全く望んでいなかったセリフが飛んできた。しかも矛先は変わっていないし、無駄に美声で腹が立つ。




「恋人が欲しいのではない!妾は稚児ややこが欲しいのじゃ!緋継!お主の子でも、凪の子でも構わん!」




 見る人を夢中にさせる魔性の瞳に見据えられて緋継がひょいと肩をすくめる。




「まずは有匡の祝言が先でしょう」


「それすらもままならんから他でもええと言うておるのじゃ!そうじゃ、燈馬!」




 通路を挟んだ隣の座席で置物のように息を殺していた後ろ頭を短く刈り込んだ大柄な男が、教師に叱られた子供のようにびくりと大げさに震えた。


 卜部燈馬うらべとうま、29歳、現在は陰陽寮に移籍させられているが、以前は捜査課に所属する刑事だった。




凪や緋継と同じく、妖と関わりのある呪力持ちで、凪とは子供の頃からの知り合いでもあり、兄貴分でもある。


 警察は怖いと敬遠されがちだが、豪放磊落を絵にかいたような燈馬の人柄はどこに行っても歓迎され、好かれる。




 そんな彼の強気な笑顔も、玉藻前を相手にすると全くの形無しだ。




「ひえっ!オレにまで話題振ってくんなよ!そっちで盛り上がってくれ!」


「まあ順当に行けば次に嫁取りするのは燈馬ですからね、妥当な判断です」




 この場にいる人間を年功序列に並べて緋継がうんうん頷いた。




 ぶわりと隣の気配が強くなり、美女の紅消鼠の瞳に銀の光彩が走った。


 ずいと身を乗り出して、興味津々の顔つきで通路向こうの燈馬を射程距離に捉える。




 そうだ、この瞬間を待っていたのだ、誰よりもこの話題に相応しいのは燈馬に違いない。




「あの眼鏡っ娘とはどうなっておる?ん?暇さえあれば診療所に顔を出しておるくせに手も握っておらんのかえ?」


「そ、それは・・あれだよ!仕事で行ってるわけだから、顔を見に行ってるというわけじゃあ・・」




 新米警察官の頃から思いを寄せているらしい、かかりつけの診療所の女医はおっとりとした見た目とは裏腹に、錬丹術にも通じる薬師で、有匡たちも陰陽寮に配属されてから何度か顔を合わせたことがあった。


 どうせ今日も何かと理由をつけて、閉院後の診療所に押し掛けるのだろう。




 福原で適当に遊ぶ度胸はあるくせに、肝心の本命相手になると手も足も出ない燈馬はもごもごと言いよどむ。




 いけいけ押せ押せと拳を握る有匡に、緋継がくすりと口角を持ち上げた。




 適齢期の女性や女学生が見たらくらりとよろめくだろう微笑も、同僚の前では威力皆無だ。


 眉目秀麗で少々社交的すぎる色男を幼馴染に持ったせいで、尻拭いに東奔西走してきた過去を持つ有匡は冷え冷えとした目線を送り返した。




 回ってきたお見合いを自分の意志で蹴っ飛ばしたのは記憶に新しい。


 そろそろ身を固めてほしいと気を揉む両親に対して胸は痛むが、この幼馴染と玉藻前にだけは心配されたくない。




「おかげで我が家は薬の宝庫だよ。美術商から薬屋に転職出来るかもなー」


「そうじゃ!いっそ囲い込んで薬屋でもさせてやればよい!診療所は儲からんじゃろうて!」


「そういえば、海岸通りに空き家が出るって聞いたっけ・・」


「有匡、お前なあ!」




 家主権限を振りかざした同僚にジト目を向けた居候の燈馬の横で、大人しく文庫本に目を向けていた書生姿の駿牙が、眼鏡を押し上げた。


 倉橋駿牙くらはしするが、19歳、有匡の異母兄弟であり、同じく陰陽師でもあるが、ほとんど呪力を持たない三流で、今は有匡の住まう異人街の洋館から高等学校に通っている。


 母親譲りの丸顔と、有匡と同じ垂れ気味の目尻を持つ小柄な彼は、有匡たちの所属部隊の雑用係を任されていた。




「玉藻前様。その話題やめましょうよ、さっきから芦屋さんの顔色が土色になっちゃってますよ。僕、気の毒で」


「いや、駿牙私に構う必要は・・」




 駿河の前の座席で報告書に目を通して知らぬ存ぜぬを通していた最年長の成伴が実年齢よりも上に見られがちな渋顔の眉間に皺を寄せた。


 芦屋成伴あしやしげとも、30歳、高名な陰陽師を祖先に持つ直系の一流陰陽師である彼は、燈馬の昔の上司でもある、元刑事だ。




 頑強な体躯と強面が揃えば取り調べを早急に終わらせる威力はあるが、同時に婚期も遠ざけることになっており、ここ数年何度見合いをしてもうまくいかなかった成伴だが、とうとう先月嫁を迎えて祝言を上げたばかりだ。




 言葉数こそ少ないものの、誠実な人柄がようやく陽の目を浴びて元同僚たちはほっと胸を撫で下ろしたものだ。




 その結婚に二役ほど買った有匡は、なおの事感慨深いのだが、少々複雑な問題があり、成伴から微妙な距離を取られる日が続いていた。




 結婚とは人の縁である。こればっかりはどうしようもない。




 空気が読めているのかいないのか。


 生真面目な表情で訴えて来る弟を無視して、有匡は座席から立ち上がった。




 緋継が動くより早く黒妖犬チコが座席を一人分占領していた土産物の数々を咥える。




 列車が速度を落とし始める。




「さーみんな降りるよー。土産物忘れないようにね。駿牙、棚に上げた風呂敷包みも頼むよ」










 はるか昔平安の御代から、怨霊や妖といった得体の知れないものを人々は恐れ崇めてきた。


 呪詛を祓う陰陽師や、妖を退治する剣士が活躍していた治世から千年以上たった現在も、細々と、確実のその血は受け継がれ、時折ふらりと現れる【禍付き】と呼ばれる怨霊や妖から人々の暮らしを守っている。




 陰陽寮が表向き暦の管理者と成り果てた現世において、本来の役割を担っている陰陽師はごくごくわずかだ。


 明治の文明開化以降、人々の生活は一変した。


 列車が走り、外国船が新たな異国文化を運び、街には明かりが増えた。


 鉄筋コンクリート造の高層建築物が立ち並ぶ大通りでは人力車の数は減り、自動車や路面電車が人を運ぶ。


 アーク灯のおかげで街の暗がりは一気に減って、娯楽は増え、闇を好む妖は居場所を無くしその力を失いつつあった。


 大戦景気で経済が華やいで成金が増えたその後の震災と不況。


 関東の地震以降、禍付きに関する騒ぎが各地で起こるようになり、その対応の為、急場しのぎで陰陽寮の増員が行われた。


 代々陰陽寮に名前だけを把握管理されていた呪力持ちの緊急招集、そして配属。


 それに巻き込まれたうちの一人が倉橋有匡、その人である。




 陰陽師の直系である芦屋成伴を隊長し、元部下でもある卜部燈馬を副隊長とする寄せ集め部隊は、村雨隊と名付けられた。




 そこに、土御門一門の末端である倉橋有匡、駿牙の兄弟。


 燈馬と同じく妖討伐に一役買った祖先を持つ、呪力持ちの多田凪、渡辺緋継が加わった総勢六名が、異人街を中心とした神戸の守護者である。




 とはいえ、平安時代のように禍付きが往来を夜な夜な跋扈することはない。


 主な仕事といえば、外国人が禍付きと関わらないようにする為の保護結界の管理。


 禍付きの騒ぎが起これば即座に収束させて、痕跡消去。


 震災以降急激に増えた偽物の祓い屋や拝み屋の摘発。


 素晴らしいジャポニスム文化を世界に誇る美しい倭国の印象を維持する事が第一任務とされていた。


 後は、日本各地に散らばる陰陽寮の錚々たる御仁達へのご機嫌伺いが付属の仕事だ。


 地味で面倒なことこの上ない。




 しかも今日の京都遠征はほとんど押し付けられたようなものだった。


”帝都はご存じの通り復興処理に大わらわでとても宴に出向ける状況ではありません。というわけで神戸のみんな代理出席よろしく”


 届けられた電報をぐしゃりと握りつぶしたあの瞬間のやるせない気持ち。


 祝いの席の主催者は決して足を向けて眠れない偉大なる鞍馬山の大僧正坊。


 機嫌を損ねるわけにはいかないと全力装備で挑んだ結果。


 宴は大いに盛り上がったのだが、いらぬ火の粉を被ることになってしまった。






神戸ではすでに散ってしまった桜が今を盛りに咲き誇る鞍馬山の大屋敷での宴会は、大僧正坊のひ孫の誕生を祝うものだった。




停車場まで迎えに来てくれた自動車を模した朧車に詰め込まれ、山道を揺れに揺られて延々と上った先にあったのは、日本庭園を含むおよそ一千坪の豪邸だ。




 大きな数寄屋門と和風塀の向こうには、風雅を絵にかいたような二階建ての数寄屋建築が佇んでいた。


 案内された奥座敷は、手入れの行き届いた庭が見えるように開放されており、大きな赤松や、犬柘植、犬槙が存在感を誇っている。


 風が吹けばはらはらと可憐に散るのは、枝垂桜と山桜で、庭の中央の池に花びらの絨毯を浮かべていた。




 当代の大僧正坊の直系初のひ孫とあって、烏天狗も祝い酒を手に参加しており、縁のある妖や付喪神とともに列をなしてひ孫の誕生を言祝いでいる。


 京都を守護する天狗を補佐する陰陽寮所属の土岐博士も親子で出席しており、特技の弓を披露して宴会を大いに盛り上げていた。




 村雨隊の一行は、主賓である大僧正坊夫妻に挨拶をして玉藻前を預けた後は、まずは陰陽寮の上役たちへ挨拶回りだ。


 官人としての身の振り方が染みついている成伴は、率先して方々に挨拶をしては顔をつなげている。


 天狗、烏天狗、妖、付喪神、陰陽師、と人種は全くの無差別である。




 唯一の飼い犬同伴での出席となった緋継は、かなり注目を浴びていた。 




「ワタシはセント・ピーター島を守る黒妖犬、チ・コ。わが主の偉大なる同胞にして父なる大僧正坊殿の血族に大いなる幸福ととこしえの栄光があらんことを」




 ブリテンの黒妖犬としての誇りを胸に、主の誉となるべく立派に祝いの言葉も述べて見せた。






 動物の妖は日本にもいるが、海を越えてやってきた黒妖犬は見るのも初めての者ばかりだ。




 普段はただの飼い犬として緋継の傍にいるチコだが、ここではその眼光に本来の魔力をどれだけ宿しても恐れられることはない。




 産地が違うせいか、異なる妖力を持つ魔犬を間近で見ようと近づいてくる子供の天狗や女天狗には堂々と毛並みに触れさせてやった。


 生まれた時から妖やら付喪神やらと慣れ親しんできた有匡達とは違い、異国の地で魔力を持つ犬として生きてきたチコは鋭い眼差しを間抜けなくらいまん丸にして宴会の様子を眺めていた。


 妖精やら魔法やらが息づいている英国でもあまりお目にかかれない宴会らしい。




 ここぞとばかりにあれこれ大皿に盛りつけては胃に流し込んでいく燈馬と、初めて見る付喪神を持参の画帳に素描し始める絵描きの凪。




 大僧正坊の細君から趣向を凝らした自慢の庭の説明を聞かされて、聞き込み中の刑事よろしく神妙な面持ちで頷く成伴。




 女天狗や、年頃の大僧正坊の孫娘たちにちょっかいをかけられて、真っ赤になる駿牙。




 贅を尽くした料理に舌鼓を打ちつつ、一先ず元は取れたなと確信する有匡。




 適度に飲み食べしつつ、周りを取り囲む珍しい花たちとの歓談も忘れない、忠犬チコのご主人様は、やはりどこに居てもきらりと輝いていた。




 焦香の瞳に金の光を宿した忠犬が、まん丸の肉球を赤子の額に翳す姿は厳かというより微笑ましい光景だったが、新しいもの好きの大僧正坊はこの祝福を大いに喜んだ。


 緋継としても、非常に誇らしい限りである。




「主君・・茶碗や櫛までもぞろぞろ動いておりますよ!」




 大名行列のように奥座敷に詰めかける祝い客の付喪神を不思議そうに眺める艶やかな黒の毛並みの黒妖犬チコ。


 緋継の英国留学時にひょんなことから知り合って、緋継を主君と決めて心酔し崇めて止まず海を越えて日本までやってきた彼にとって、妖や付喪神は何もかもが真新しく面白いようだ。




「ああ、あちらでは見かけませんよね。そうですね・・・ブラウニーやシルキーの道具版が近いといえば伝わりますか?」




 英国に伝わる家事妖精を例えに出すと、打てば響くようにチコが頷いた。




「なるほど!家事を手伝う妖でしょうか!?」


「時と場合によるかと思いますが、主には家や持ち主を守るのが役目のようですよ」


「なんと!主君を守る!ワタシと同じお役目ですね!」


「魔力はチコくんのほうがずっと上ですよ、あなた戦えますしね」




 さらりと部下を褒めて伸ばす、こういうそつのなさは、彼の生家である呉服百貨店三吉屋の社員教育にも大いに影響を与えている。


 緋継さんのために売り上げを伸ばそう!という摩訶不思議な一体感で、元町通に昨年開店した最新式の鉄筋コンクリートの巨大百貨店の売り上げはずっと右肩上がりだ。




「主君~!!」


「折角ですから京都の和菓子も食べてみましょうね、チコくん」




 いついかなる時でも他者への気遣いを忘れない紳士の鑑は優雅にワイングラスを揺らせてみせた。






 日本庭園を青白く照らし出すのはいくつもの鬼火。


 庭に面した障子窓がすべて開け放たれたままでも寒さを感じないのは風除けの結界と室内にいくつも置かれた火鉢のおかげだ。




ずらりと並べられた採れたて山菜の天ぷらに煮びたし、祇園の料亭から運ばせたという新鮮な魚や貝、なんといっても特大の鯛のお造りが目を引く。


 さらには最近人気の洋食、ビフテキやエビフライ、ライスカレーにオムライスまで用意されている。


 大商人としての顔を持つ大天狗は、関西のあちこちに洋食屋を展開しており経営は順調なようで、次は関東進出も考えているらしい。




 今日は店の一押しメニューを持ってこさせたと胸を張っている。




 金箔が施された襖絵は、極楽浄土を悠々と飛び回る天狗の姿が描かれており、派手好きの大僧正坊に似合いの座敷となっていた。




 長崎の陰陽寮より届けられた孔雀王の大きな羽根がひと際目を引く祝いの品がぎっしりと並ぶ床の間を背に、金糸の刺繍が鮮やかな分厚い座布団の上で生まれたての男の赤子を抱く大僧正坊の目は終始垂れ下がっていた。




 料理と酒はひっきりなしに運ばれてきて、空いた皿は女中と付喪神がせっせと片付けて行く。


 酒の入った大樽を担いで飛び交うのは天狗たちだ。


 大僧正坊の妻は女天狗だが、子供たちはそれぞれ人間と婚姻を結んでおり、大きな屋敷には人間と天狗が同居している。




 やや大きすぎる鷲鼻に太眉ではあるが、十分人の中に溶け込める風貌の大僧正坊は紋付袴姿、対する奥方の女天狗はすらりと高い鷲鼻と大きな唇が印象的な美人で、最新の締め付けのないワンピースとレースのショールを身に纏っていた。


 反対に息子夫婦と孫夫婦は揃って地味な性分らしく、控え目な着物姿で客人への挨拶と給仕に徹している。




 昔は考えられなかったが、天狗が山に隠れ住む時代はとうに過ぎ去っていた。


 妖同士で集まって酒を酌み交わす機会もめっきり減り、人と同化して生きる者も少なくない現在、化身を解いて好きなだけ酒を飲んで騒げる場所は多くない。




 久々の酒宴だ、絶好の機会だと勇んでやって来た玉藻前だが、久しぶりに見る赤子のあどけない笑顔に出会って三秒で骨抜きにされてしまった。




 なんじゃこの小さくてよわっちくて可愛いの。




 思えば、有匡は出会った時すでに十歳を過ぎていたし、その後顔を合わせた緋継達も皆成人済み。


 唯一の学生といえば駿牙だが、こちらは上の兄二人を見て自分の進むべき道を早くから理解しすぎたきらいがあり、全く子供らしくない子供だった。




 封印される前の玉藻前は、帝を手のひらで転がす事に忙しかったし、妲己だったころは、酒池肉林で大わらわだったので小さな赤子に目を向ける暇はなかった。


 傾国の美女をヘロヘロにする赤子恐るべしである。




「可愛いのう~。小さいのう~。紅葉のような手じゃ」


「そうじゃろうそうじゃろう。頬はぷにぷに。目はきらきら。じいじの胸はいとおかしじゃー!!」


「笑う声は鈴のよう。妾の胸に春来るじゃ!あああああ可愛いのう」


「よその稚児も可愛いがワシのひ孫は一等可愛い。ほれよう見てみい。この目元。すっと切れ長なところ、ほれここ、ワシとおんなじ」




 ピッと深い皺のある目元を指さす大僧正坊に、玉藻前がふんと鼻を鳴らした。




「この可愛らしい口元、ぷっくりしとるじゃろう?ほれ、見てみい。ワシとおんなじ」




 これ見よがしに似ているところを主張する大僧正坊に、玉藻前はそっぽを向いた。


 構うことなくがははと豪快に笑いながらぐずりだした赤子を揺する手つきはすっかりひ孫馬鹿の好々爺だ。




「天狗に妖、異国の魔犬に付喪神、鬼に人間、いろんなやつがおるじゃろう?この世は面白可笑しいぞい」


「妾は天下一の妖じゃぞ?大きゅうなったら遊んでやろうなぁ。三吉屋でたーんと玩具もおべべも買うてやろうなぁ。宝塚の歌劇に聚楽館で歌舞伎もオペラもたーんと見せてやるからのう」


「珍しい異国の魔犬に会えたのに、茨の小鬼が来れんかったのは残念じゃのう。とんと顔を見とらんからのう」


「前回お会いした時から変わらず愛らしいままですよ。元気です。今日は舞台の初日なのでどうしても伺えないと、大層残念がっておりました」


 緋継の言葉に、大僧正坊は昔を懐かしむように目を細めた。


「山を駆け回って悪さばっかりしよった小鬼が役者になるとはのう・・して、今日の演目はなんじゃ?」


「西遊記の和製オペレッタですよ。茨は孫悟空役です。お似合いでしょう?太客も随分ついていますので」


「小鬼の孫悟空か!愉快愉快!!はっはっは!昔っから鬼とは思えん可愛らしさじゃったからのう」


「ぜひ芝居を見に来てやってください。昔なじみが来ると喜びますよ」




 有匡が玉藻前と出会ってから暫く後、緋継が福原遊郭の裏通りで拾ったのが愛らしい少年の姿をした鬼だった。


 緋継の中に眠る馴染みの血の匂いに惹かれてやってきた鬼が、緋継の人柄に惚れ込んで舎弟になり、新開地の芝居小屋で見た舞台に夢中になって、茨という名前を貰い、現在は緋継が茨のために私財を投資した劇団の看板役者である。


 すっかり現世に馴染んだ鬼は、完全に人と同化して暮らしており、福原遊郭と新開地の情報屋も担っていた。


 眉目秀麗な男は、女性のみならず、魔犬も、鬼も惹きつけるのだ。




「ああ是非ともそうしよう。人の一生はほんに短い。天狗の血が薄れればなおの事。この子の5年10年の成長を思うと、ワシはいつまでも見守ってやりたいと思う。さらに長生きしとうなる」


 太い指の腹で赤子の頬を優しく撫でる大僧正坊のにやけ顔に、玉藻前が妖艶な唇を尖らせた。


「もう十分するほど長生きじゃろうて」


 妖の寿命はまちまちだが、最低でも百年は生きる。


「いや!まだまだじゃ!こうなったら夜叉孫をこの腕に抱くまで生きるぞい!」


 あと何回元号が変わるだろうなぁと燈馬が独り言をこぼした。


「ひ孫様のためにもしっかり京都とこの国の治世をお守りくださいね、大僧正坊殿」


 ちゃっかり仕事も行う緋継の言葉に、大僧正坊はどんと胸を張る。


「もちろんじゃ!何人たりともワシの子孫の生きる世を穢させたりはせんぞ!」


「関東の地震以降、あちこちで禍付きの報告が上がっておりまして、実害が少ないのが幸いですが我々も危惧しております」




 仕事で出席しているので、と一切の酒を断ってい成伴が神妙な面持ちで切り出す。


 華の帝都東京と呼ばれるようになって久しいが、古からの守護の要は京都である。


 妖や怨霊が最も力を持って存在できた場所。


 呪力の強い陰陽師が赴任してはいるものの、その守護はやはり大天狗に委ねる部分が多い。




「大地が揺れれば眠っていたものが呼び起こされるのは道理じゃからのう」


「御所付近でも、呪詛の騒ぎがつい最近ありまして・・・不完全な呪いが見受けられる事もあります」


 土岐の申し出に、凪が初めて表情を変えた。


「僕らの偽物が出回ってるってことだよねー」


「震災からの不況で、すがるものが欲しい人間が一気に増えちまったんだろうなあ」


「心が貧しければ、貧しい魂を呼ぶ、心が寂しければ、寂しい魂を呼ぶ、自然の摂理じゃ」


 燈馬の言葉に、大僧正坊が鬼火の灯る広い日本庭園へ視線を向けた。


「神戸でも偽の祓い屋の摘発が何件かありましたよね、兄さん」


「華族の皆さんは特に信心深い方が多いみたいだから」




 駿牙の言う通り、神戸でも裕福な華族を狙った怨霊詐欺を働く偽の陰陽師が現れて、ちょっとした騒ぎになった。


 本物は地味に目立たずせっせと治安維持に努めているというのに。




「怨霊も恐ろしいですが、私は生霊のほうが苦手ですね。生きている人間の思念に勝るものはありませんから」


 世が世なら、光源氏のモデルと言われている在原業平か源融と呼ばれたであろう男がひっそりと息を吐く。


「確かに・・生きている人間が起こす事件の数のほうが、禍付きがらみの事件より数倍は多い」


「ああ、芦屋さんたちは元刑事さんでしたね」




 陰陽寮の職員である土岐親子から尊敬の眼差しを向けられて、成伴と燈馬が視線を泳がせた。


 今流行りの推理小説のような面白い事件は日常にはまず起こらない。


 軍人と警官はたいていどこに行っても恐れられるし嫌われる。


 慣れない賞賛に揃って尻の据わりが悪くなった。




「京都は神戸よりずっと現存する結界が多い。お二人のご苦労が伺えます」


「いえいえ、私どもは大僧正坊様のお力をお借りしてどうにか成り立っておりますので。村雨隊には玉藻前様がいらっしゃるから心強いことですなぁ」


「・・・ええ・・まあ」


「こうしてお目にかかれること自体が奇跡のようです。本当に麗しく、凄まじい妖力ですなあ・・・それにしても美しい」


「あの美貌なら、皇帝も帝も国を傾けますよね・・ほんとにお綺麗だ・・」


「ええ、まあ」




 座敷の奥で赤子のご機嫌取りに必死の大妖怪に村雨隊の全員が視線を送って、すぐ反らした。


 美貌と妖力は凄まじく素晴らしいが、それ以外がいろいろと面倒くさいので、深く追求しないほうが身のためである。




「少し気になっていたんですが、先日の新聞に出ていた神戸の通り魔事件、まだ犯人は捕まっていないんですよね・・?こっちでも話題になってまして」


「捜査課の連中も全力で捜査に当たってるんだけどなあ・・どうにも犯人の足取りが掴めねえらしい」




 葺合の屋敷に住む子爵が通り魔に刺され重傷を負い、犯人は逃亡途中に、豆腐売りの男と、買い物途中の女中を切り付けて、未だに捕まっていない。


 成伴と燈馬の元同僚に当たる刑事たちが寝る間を惜しんで探しているが、事件から一週間足取りが掴めないままだ。




 元町通の店は、早めに店じまいをしており、夜間の人通りは一気に少なくなった。


食堂や居酒屋は商売あがったりだと嘆いている。




「禍付き絡みじゃありませんよね・・四条の市場でひったくりが続いていて、先週しょっ引かれた犯人に禍付きが憑いていたんですよ、それで少し気になっていまして・・」




 不況になってから浮浪者も増えて、物騒な世の中だと嘆く声の中には、禍付きの仕業ではないかと言う声もチラホラ聞こえてくる。


 犯人は子爵に恨みを持つ怨霊じゃないか、だから捕まらないのでは、と異人街でも噂になっていた。




「その可能性も捨てきれませんが、確定までは捜査権限はこちらにありませんので・・」


「立場が微妙ですよね・・我々」




 全員が顔を見合わせてげんなりとため息を吐く。


 人が起こした事件は刑事が追う。


 怨霊や妖といった禍付きの類が関わっていると確証が出た時点で、捜査権限は陰陽寮に移される、というか丸投げされる。


 目に見えない怪しいものはそっちで引き受けろというのが警察本部の考え方だ。


 なので、事件現場に術式らしい後や、呪符や護符が見つかれば即座に呼び出される、いわば厄介ごと引き受け係が陰陽寮の現実だった。




 大昔のご先祖様たちは御伽噺に残る位格好よく鬼やら怨霊やらをやっつけていたのに、現世の子孫はといえばあまりにも地味でパッとしない。


 寂寥の思いを胸に、口々に励まし合う陰陽寮の面々とは打って変わって、現存する妖は平和でのんきで楽しそうな事。


 取り合うように赤子に笑いかける大僧正坊と玉藻前を見ているその場の全員が悲しい気持ちになってくる。




「稚児・・ええのう。小さいのう。可愛いのう・・」




 逞しい腕に抱かれる赤子と空っぽの自分の細腕を交互に見やって、玉藻前がブツブツ言い始める。


 有匡は嫌な予感を覚えたが気づかないふりをした。




「どうじゃー?ひいじいじは男前じゃろう?日本一の天狗ぞ?」


 自慢げに隠していた背中の羽を広げてバサバサ揺らすと、興味深そうにあちこちに視線を送っていた赤子の唇がきゅっとすぼませて不機嫌な声を上げた。


「うううー」


「おお、天狗の妖気はまだ早いか、すまん、すまんな。ワシが悪かった」


 赤ら顔いっぱいに笑みを張り付けると、大僧正坊が開いている右手を庭の外へと翳した。


 ふわふわと浮いていた鬼火が、くるくると回り始める。


「ほーれどうじゃ?坊、よう見てみい。大天狗はなんでもできるぞい」




 指を上下させると、鬼火が器用に一列に整列して、上下に揺れて日本庭園の真ん中に作られた橋の架かった池の周りを取り囲んでいく。


 まるで盆踊りか西洋の舞踏会のようだ。


 暗がりに浮かぶ鬼火のダンスに興味を持ったらしい赤子が視線で追いかけ始めた。


 それを見ていた玉藻前が、妾も!と手を挙げた。




「狐火も負けておらぬぞ!」


 言うなり青い鬼火に混ざって、白銀の狐火を出現させる。


 ぽつりぽつりと点滅させて、鬼火のさらに外側を大きく円を描くように回り始めた。


「はっはっは!こりゃあいい!」


 祝い酒ですっかり酔っぱらっている烏天狗が風を起こして鬼火を弾けさせると、庭が真昼のような明るさに包まれた。


「まだまだ甘いわ!」


「ワシも負けてはおれん!」


「ほーれ旋風!」


「狐火の雨じゃ!」


「鬼火音頭じゃー!」




 妖力の奔流が屋敷全体に広がって耐性のある者でも肌がビリビリとしびれ始める。


 基本的に天狗の屋敷に勤める者は縁故者の呪力持ちの人間ばかりなので、ある程度は問題ないが、それでも九尾の狐と鞍馬天狗の技競べとなると話は別だ。




 成伴は広い敷地を囲む和風塀に近づいて、結界のほころびに向けて九字の印を結ぶ。


 芦屋の名を正しく残す為にとせっせと働く成伴の姿は、涙を誘う。


 有匡たちからすれば、正直、千年近く前のご先祖様の功績とか威光とか面倒くさいしどうでもいい。


 緋継は主君に寄り添う忠犬に一先ず待機を命じて、内ポケットのベレッタを確かめた。


 本日未使用なので弾は全弾残っているし、いつでも使える状態だ。


 駿牙は嫌だなあと諦めの表情で懐の護符を手繰り寄せ、凪は我関せずで鬼火の舞踏会に魅入っている。




「なんか耳鳴りするんですけどー!」


「おじい様やりすぎちゃうんー?」


「女中と付喪神の皆様は屋敷の奥へ!」


「旦那様ー!守りの水瓶ヒビが入りそうです!!」


「なにい?瓶守の付喪神はどこに行った?」


「あ、それ俺が見てやるよ!護符持ってるから、案内してくれ」


「よろしんですか、お客様!?」


「構うこたねぇさ!困ったときはお互い様ってな」


「ありがとうございます!こちらです!!!」




 迷うことなく救いの手を差し出した燈馬は、人の好い笑顔を浮かべて屋敷の裏手に案内する女中の後をついていく。


 ベルト通しから小刀を取り出して、いらねえか、と呟いた。


 結界に亀裂が入ったとして、このあたり一帯を守っているのが鞍馬天狗と知っていてうかうか忍び込んでくる禍付きはいるはずもない。


 もし仮におおまぬけがいたとして、塀を越えた瞬間に消滅するだろう。




「燈馬、手が要りそうなら呼んで」


「はいよ」


 あちらは大丈夫そうだと踏んで、有匡は日本庭園で繰り広げられている、集まれ!妖かくし芸大会に視線を戻す。


「ちょっと思うんだけど・・」


「結界の意味ないでしょうねぇ、この状態だと・・チコくんは念のため虚身を」


「承知いたしました!」


「緋継さん、兄さん、さすがにまずくないですか!?結界上乗せしますか!?」


「いやいやいや、二流の俺たちには絶対無理だよ、あんな化け物並みの妖力飲み込めないよ」


「有匡、玉藻前を止めろ」


「あの輪の中に飛び込むのが命取りだよ。やるなら隊長おひとりでどーぞ」


「お大尽様も自慢のお屋敷を吹っ飛ばすようなことはなさらないでしょう」


「これ遠目から見たら絶対花火みたいに綺麗だろうねえー・・・花火の絵、描きたいなー」




 ここが管轄の神戸でなく、大僧正坊の大屋敷で本当に良かった、帝都と長崎のかの方々が不参加で助かったと成伴は心底安堵した。


 当代の一流陰陽師に一流傀儡師、一流修験者、大妖怪に大天狗が集まれば饗宴が大狂宴になりかねない。




 出会ってからこちら、玉藻前が有匡の言うことを聞いたことなんて一度もない。


 使役式神ではないから当然といえば当然だが、自由気ままな美女の振る舞いに、成伴は冷や冷やさせられることが多い。


 お上の勅命には逆らえないとはいえ、現実には存在しないものの名前を与えられた部隊の責任者というのは、芦屋の名を継ぐものとして不本意極まりない。


 有匡はそもそも説得や矯正をはなから諦めているらしかった。




 鬼火に狐火が次々と夜空に浮かび上がり、旋風であちらこちらに飛ばされる。




 辺り一帯が青と白の光の渦に飲み込まれて、宴会は途中からかくし芸大会の様相を呈した。


 こっそり結界補強して回っていた土岐親子が、そろそろお開きに・・と進言した頃には可愛い赤子はすっかり夢の中だった。




 泊っていけと再三引き留められたのを仕事を理由に丁重に断って、朧車と天狗の大風によって送られて、帰りの列車に飛び乗った時には玉藻前以外の全員が車酔いで死にそうな顔をしていた。








 そうしてようやっと家に帰れると思った矢先。




 席に着くなり、玉藻前の稚児を抱かせろ攻撃が始まった。


 いつまでも嫁を取らない息子へのお小言そのものである。


 最初は適当に相槌を打って交わしていたが、大阪を越えてもまだ小言は終わらず、最終的には


「あそれ稚児!ほれ稚児!妾は稚児がほ、し、い!あそれ!」


と良く分からない自作の歌まで歌いだす始末。




 妖は滅多に酔うことがないというが、相手が天狗だと勝手が違うらしい。


 水のように清酒を煽る大僧正坊と肩を並べて大樽を開けていれば酔っぱらうのも必然だろう。


 せめてもの幸いは、酒臭さがないことだ。




 下戸の有匡は最初の一杯でもうほろ酔い状態で、二杯目以降は燈馬と緋継が交互に引き受けてくれていた。


 凪はいくら飲んでも全く酔わない体質であることを知ってから、一度も酒を口にしていない。


 代わりに大量の甘味を食べるようになって、今日も出された果物や菓子を片っ端から食べつくしていた。


 土産にと渡された風呂敷包みに、バナナを無理やり捻じ込んでいるのを見つけた時には他人のふりをしてやり過ごし。


 最後に出されたアイスクリームを五回もお代わりしたときは、さすがに恥ずかしくなり、六度目はその場にいた全員が止めた。




 これでも財閥の四男坊で食うに困る生活を送ったことなどない凪である。


 家に戻っても、美味しいアイスクリームやミルクを出してくれるカフェーはすぐ近くにある、が、この場で食べるのはまた格別に美味しいというのが凪の良く分からない言い分だった。


 それぞれに食べて飲んでくたびれて、たどり着いた三ノ宮駅の駅舎は閑散としていた。




 停車場から目抜き通りに出れば、見えるのは家路を急ぐ背広姿の男性数名と、見回り中らしい警察官のみ。


 深夜に差し掛かる時間帯だが、普段ならへべれけに酔っぱらった酔客や銭湯帰りの近所の住民とすれ違う。




 通り魔事件が未解決であることの影響を感じざるを得ない。




「明日、もう一度捜査課に顔を出してみる」


 そろそろ首を突っ込む頃合いだと見て取った成伴の言葉に、燈馬はへいへいと頷いて、凪は無表情を貫き、緋継はそうなるでしょうねと応じて、有匡は面倒くさいなと呟いて、駿牙は兄さん黙って、と突っ込んだ。


「確認事項はないな?私は帰るぞ」


「はいはいどうぞ、新妻があんたの帰宅を待ってるぜ!」


 バシバシ遠慮のない力で上司の肩を叩いた燈馬は、次の瞬間、爪先を現在の住まいである異人街と真逆の山側に向けた。


「二日酔いの薬貰ってくるわ」


「燈馬さん、それもう大量にウチに・・」


「・・・駿牙。燈馬さん、戸締りするから、戻るなら裏口からで」




 祖父亡き後、一人で診療所の二階に寝泊まりする想い人が心配で、という言い訳をして燈馬はほぼ毎日診療所の空き部屋で寝起きしているのだ。


 最初の頃は追い出されていたが、結局は根負けした相手が折れて、燈馬の好きにさせているようだ。




「はいよ。んじゃな」


「私は茨に土産を届けてそのままあちらの家に泊まりますね」




 打ち上げも終わって皆が下宿屋や家に帰る時間なので、売れっ子の茨も身体が空くだろう。


 緋継は、西宮の実家とは別に八宮神社の近くに別宅を持っており、そこに茨を住まわせている。


 仕事に便利な異人街の有匡の家は、仮住まいにしていた。


 陰陽寮の緊急増員時、庁舎は不足状態で、有匡が管理を任されている異人街の洋館が仮事務所となった。


 交通の便も良いため、空き部屋に緋継、燈馬、凪、結婚前の成伴が住み込んでいた。




「主君!ワタシもお供します!」


 当然のように頷いたチコに続いて、福原遊郭に絵描き用のアトリエ部屋を借りている凪が緋継の横に並んだ。


「僕もアトリエに行く~しばらく籠る~」


「凪、頼んでる美人画どれくらいで出来る?」




 本職の美術商としての質問を投げた有匡に、凪が無言で風呂敷包みからバナナを取り出した。




 依頼中の6号サイズの美人画の購入者は、好事家で有名な華族男爵で、顔が広く金払いも良い上お得意様だ。


 この様子だと、今回も凪の尻を叩いて回る必要がありそうだった。


 頭の中の予定表に組み込みつつ、駿牙にも視線を向けると心得た様子だった、さすが勝手がわかっている。




「来週一度見に行くからな」


「それまでに招集をかける」


「えええー面倒だよ隊長、適当にやってよそっちで」


「凪坊、あんま勝手言ってるとまーた隊長の雷が落ちるぜ?」


「ちぇ、はいはーい」


「凪、バナナは歩きながら食べない。チコくん、俥を捕まえましょう。それでは」


 市電は走っている時間だが、この時間なら俥のほうが早い。


 中山手の自宅に向かう成伴と、下山手の診療所に向かう燈馬、新開地に向かう緋継と凪とチコを見送って、有匡は残った弟と妖に尋ねた。


「俺は写真取ってから戻るよ。玉藻前はどうする?」


「稚児がおらんのじゃから帰るに決まっておろうが」


「まだ言ってる・・・駿牙、頼むよ」


「わかりました。芦屋さん、今日の交通費の経費伝票は明日提出しますので!」


「よろしく頼む」




 異人街に向かう玉藻前と駿牙と一緒に元町通の入り口まで歩いて、別れる。


 閑散とした通りに入ると、明かりの消えた商店が眠るように並んでいた。




 昼間は学生が集まる河瀬日進堂書店、焼き立て煎餅の匂いについ立ち止まってしまう紅花堂、女給が粒ぞろいと評判のカフェービーハイヴ、軽いくちどけのカステラが名物の瑞宝堂、饅頭の文英堂に本条呉服店と、本条カメラ。


 三丁目には珈琲が美味いエスペロと、紅梅焼きの松花堂、絵葉書を扱う栄商店に外国人に人気のテーラー柴田洋品店、片山洋服と看板娘の女給が有名なカフェー白猫屋、そして目当ての市村写真館。




 輸入品に混ざって屋敷に届いたカメラで写真を撮った日から、写真は有匡の唯一の趣味となった。




 ありのままを映し出す写真の前では、誰も嘘がつけない。




 自分を飾ることも偽ることもしなくてよいそれは、物凄く気楽で心地よかった。


 写真機を扱う商店の店主を中心に、好事家たちが集うカメラ同好会の輝楽会は年齢や職業を問わずカメラ好きが好きに語り合う自由な場所で、有匡のもう一つの居場所でもある。




 現像室のあの独特の空気が好きだ。




 写真館の裏口に回り、預かっている合鍵を使って中に入る。


 すでに店主は自宅に戻っているようで店内は真っ暗だった。


 夜目に慣れている有匡は迷うことなく奥にある現像室までたどり着き、乾かしていた写真の回収に取り掛かる。




 茶封筒に入れた写真を胸元の内ポケットに入れて、ついでに懐中時計で時間を確かめた。


 数本残っている敷島を取り出して一本咥える。




 軒先で一服して、散歩しながら家に帰ろう、どうせ戻ったらまた玉藻前の稚児音頭を聞かされるだろうし。




 戸締りをしながら、雲の向こうに隠された月を探すともなく見上げた。


 音のない静かな夜がゆっくりと更けていくはず、だった。




 全ての物語は、出会いに始まる。


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