第七話『悪夢』

 久しぶりの悪夢だ――。


 幻惑と目眩を起こすほど、むせかえる蒸し暑さ。

 夕陽の残滓が漂う、夜闇。

 嘲笑う静寂に満ちた、家の中。

 濡れた鼻腔を掠める、鉄の匂い。

 月光すら差さぬ暗闇に浮かぶ、夫と娘の影。

 美琴の眼差しは、娘へ注がれる。

 悪夢の中の命花は、こちらへ一瞥すら返さない。


 『命花……ママの所においで……お願いだから……命花……っ』


 母として焦がれる想いを灯して、名前を呼んだ。

 すると、虚空を見つめていた命花の眼差しは、やっと美琴の方を向いた。

 氷砂糖のように澄んだ瞳に、美琴の姿が映る。

 娘に声が届いた、と思った美琴は双眸に安堵の滴を浮かべた。


 『――め……』

 『命花……? 何? もう一度言って?』


 命花は何かを呟いていたが、声はあまりに小さくて聞き取れなかった。

 戸惑いがちに、美琴は訊き返してみる。


 『――だ……っ――』


 もう一度呟いた命花だが、やはり今度も途切れ気味にしか聞こえない。

 そこで、美琴は初めて違和感に気付いた。

 命花の瞳は美琴を映しているが、

 儚げな呟きも美琴に反応しているのではなく、まるで再生を繰り返す音楽のようだ。


 『命花……命花……っ』


 猛烈な不安が胸に燻り、美琴はたまらず踏み出した。

 野花のように静かに佇む命花へ、近付いてみる。

 美琴の指先が娘に触れるまで、残り一歩。


 ――!――……!


 美琴の手足は沈黙した。

 命花に触れる手前で立ち尽くす美琴は、喉から音にならない悲鳴を零した。

 今のは、何――。

 ほんの一瞬――美琴の耳朶が震えた。

 しかし、それは果たして現実か幻聴か判断に迷う――何とも言い難い異様な音色だった。

 声にならない困惑を心の中で漏らしながら、氷像さながら固まった己の体を見る。

 おかしい――暑いはずなのに、寒気が止まらない。

 氷柱よりも冷鋭で、炎よりも凄まじい"気配"は、こちらを射抜いている。

 命花の無垢な眼差しは、虚空の闇を浮かべる。

 今度は命花の視線――丁度、命花と自分の真上へ、ゆっくり視線を辿った……。


 『     ――――!!』


 何かが起こった、と認識した瞬間――。


 美琴の双眸は森の薫る暗闇に染まり、手足の感覚は透明化した。


 最後に見たのは、底なし闇に閃く獣の”黄金の光瞳”だった――。


 *


 「この度は、本当にお世話になりました」

 「いえ……私は丁度、通りがかったので」


 五月十一日――瑠璃唐警察病院の一室にて。

 療養寝台で上肢を起こす南雲と佐藤は、見舞いに訪れた"恩人"・小町警察官へ、感謝と共に頭を下げていた。

 改めて礼を述べられると予期しなかった小町は、冷静な美貌に戸惑いを浮かべて謙遜を零した。

 職業柄か本人の性格上、感謝され慣れていないのだろう。


 「いや、あなたが来なければ、今頃僕たちもどうなっていたか……は」

 「はい、私もこの眼で見ましたが……何があったのか、説明はしていただけますか」


 小町が天野邸を再び訪ねた際。

 家の中からて地面に倒れ伏せた南雲と佐藤、出血で失神した美琴の三人を見つけた。

 警察病院の救急車へ連絡しながら直ぐに駆けつけた小町も、一瞬のだ。


 玄関から伸びた、

 扉の向こう側に広がる、

 そして、この世のものではない、《異形の獣》》の姿を。


 「アレを……命花はと呼んでいた……っ」

 「美琴さん……!」

 「まだ安静にしてください。鎮痛剤が効いているとはいえ、あなたは輸血されるほどの大怪我をした」


 南雲と佐藤への聴き取りが始まる前に、窓際の寝台で横たわっていた美琴は、絞り出すように答えた。

 しかし傷は未だ癒えておらず、出血も多かった影響か、美琴は目眩に襲われる。

 隣の寝台にいる南雲は、咄嗟に手を差し伸べた。


 「すみません、南雲さん。でも……話さないといけないことがあります……っ」


 額から汗を流す美琴自身も、未だ悪い夢に囚われている気分だ。

 しかし、美琴は否が応でも認めるしかない。

 、体の表皮を引き裂かれた感覚、視界が霞むほど燃える激痛を鮮明に思い出せる。

 包帯に包まれた右肩から腕に残る、十数針も縫った傷は、熱く疼く。

 美琴達の瞳に焼き付いたおぞましい出来事現実を、克明に記憶するように……。

 今までの被害者と同じ、この傷もエルゥが――。


 「その話、にも詳しくお聞かせくださいませんか?」

 「え? あの……」

 「恐れ入りますが、どちら様ですか」


 病室の扉がノックされたと同時に、突如現れたのは初老の男性。

 見知らぬ人の来訪に、美琴達と小町すら戸惑う。

 白髪混じりの黒灰色の髪に、垂れ生やした長い髭は、目を引いた。

 老舗店に売られている高級な丸い枠の眼鏡に、質の良い服装だが、無地の淡いワイシャツに抹茶色のセーターと灰色のスラックスを纏った慎ましい出立ちだ。

 老人は、警察関係者にもただの一般人にも見えない。

 当の本人は、警戒の眼差しに臆することなく、深い知性と純粋な好奇心を灯した眼差しをほころばせて答えた。


 「あいさつが遅れてしまって失礼。私は九十九つくも慧世としよ。動物学者小野君の紹介で来ました」

 「! 小野先生の知り合いの方でしたか。こちらこそ、あいさつが遅れまして申し訳ありません。私は、今回の瑠璃山大生の事件を担当する小町です。どうぞお見知り置きを」


 九十九慧世と名乗った老人は、慇懃に頭を下げる小町に照れくさそうにはにかむ。

 どうやら、事件の捜査協力で未確認野獣説を唱えた、動物学者の知己らしい。

 となれば、九十九も研究学者と思われるが、近所の裕福な家に住む品格ある優しいお爺さんに見える。


 「そんなに、かしこまらないでください。頭を下げてもらえる大層な人間ではありません」

 「いえ、恐縮です。あの……お言葉ですが、九十九先生の専門分野は何ですか」

 「主に『メソポタミア時代』の古代神秘学を専攻しています」

 「「「「え?」」」」


 温雅で気さくな雰囲気からは想像できない奇特な分野に、美琴達三人と小町同は意外そうな声を漏らした。

 メソポタミアは、現在のイラク辺りに流れるユーフラテス川とチグリス川の境で発展していた、世界最古文明の一つだ。

 つい最近、百年前に発見されたばかりなため、研究分野では若き文明に当たり、美琴もテレビで小耳に挟んだ程度だ。

 メソポタミアという少数派な研究分野、さらに神秘学と言う奇怪な要素を盛り込んだ九十九からは、"変わり者"の匂いが一気に漂う。


 「まあ研究テーマ上、胡散臭いだとか非科学的と言われるのは慣れっこです。ですが、古くからの友人の頼みでもあります。こんな変わり者のジジイでも、事件解決に何かしらご協力できれば幸いです」


 九十九は、自虐的な台詞に不相応の朗らかな微笑みと一緒に、手を差し出す。

 こちらの懐疑的な眼差しに気を害した様子もなく、初対面のために知恵を貸す気さくな態度に、美琴達の心も和らいだ。


 「天野美琴です……よろしくお願いします」


 美琴自身も、半信半疑の奇妙な恐怖体験、娘に纏わる怪奇現象。

 専門家の九十九へ、全てを打ち明ければ、信じてもらえる気がした。

 決心した美琴が、九十九の手を取った様子に、南雲と佐藤もあいさつした。


 「なるほど……つまり巨大な合成獣風の緑の怪物は、美琴さんの娘に取り憑き、家の中にを形成して彼女を囚えている。しかも、瑠璃山大生を襲った事件も、"ソレ"の仕業かもしれないわけか」


 最後まで耳を傾けた九十九は、美琴達の話を理路整然と簡潔にまとめてくれた。

 大方の話は九十九の言う通りだが、美琴も自身で話していて荒唐無稽だと思った。

 未だ困惑を隠せない美琴達を他所に、九十九は眼鏡越しに真剣な光を灯す。

 思案するように呟いたまま、持参した鞄から書類やメモ用紙を大雑把に留めた資料、と一冊の厚い本を取り出した。


 「九十九先生、その本は?」

 「メソポタミア神話と神代のバビロニアについて記した本だ。こっちは、友人が送ってくれた警察の資料とメモのコピー」


 古びた砂色の表紙には、メソポタミア時代の民族や不思議な形態の動物、変わった図形や記号――楔文字の羅列の写真が映っていた。

 九十九は、資料と本の一部頁を抜粋し、美琴達にも見えるよう机に広げた。

 緊張の面持ちの美琴は、頁を覗き込む。

 南雲と佐藤も、寝台から首を伸ばして机を囲った。


 「っ……! 九十九先生、これは」


 古い本の頁に載っていた資料写真に、美琴は確信と共に息を呑んだ。


 「あなた方が見たという怪物は、これでは?」

 「っ――はい、間違いありません。娘の言っていた……です」


 粘土板に刻まれた輪郭は、内巻きに尖った山羊の角。

 毛むくじゃらの樋熊らしい巨大。

 獅子らしい獰猛な牙と爪。

 猫さながら丸みを帯びた、愛らしくも不気味な目玉を描いていた。

 足元に刻まれた星型と渦巻き模様の絵図は、あの瑠璃唐草に似た謎の花に見えた。


 「失礼します、天野さん。こちらは、あなたのポケットに入っていたものです」

 「あ、すみません。小町さん」

 「この写真の絵は……命花さんの黒い絵の怪物にそっくりです」


 小町は預かった美琴の衣類に入っていた、一枚の画用紙を広げた。

 家から締め出される前に、命花の部屋で拾ったものだ。

 写真の中の粘土板は、一部欠損していて見え辛いが、命花が描いた黒い絵の怪物と特徴はほぼ一致していた。


 「ほう、これは。お嬢さんは絵が上手ですね。特徴を繊細に捉えている。まるで、実物を見ながら描いたかのように」


 命花の絵を興味津々に観察した九十九は、感嘆を零す。

 九十九の言う通り、ただ不気味でしかない絵を丁寧に観察すると、実に精巧に描かれている。

 毛深い皮膚の柔らかそうな質感から、鋭利な角と牙の艶。

 黄金の目玉の透明感まで。

 今にも、絵から飛び出してきそうな生々しい躍動感に溢れている。


 「でも、どこかの文献に載っていた絵を、そのまま真似して描いたとか」

 「いや、この文献は国立図書館と私の持つこの本で、未だ二冊しかない。しかも、二年前に発見されたばかりの粘土板……『』の記述と挿絵を記載しているのは、この本だけ」


 有り得る可能性で反論した佐藤の言葉は、驚きの事実によって否定された。

 佐藤に限らず美琴も他の二人も、この後に及んで密かに疑っていた。


 「エルキドゥナル……? とは一体何ですか」


 いずれにしろ、ここまで踏み込んだからには、後へ退かずに確かめるしかない。

 初めて耳にした謎の名前について……娘の全てを深く囚えてやまない、おそろしい怪物の正体を。

 美琴の切実な表情から、彼女の必死さと事態の深刻さを感じ取ったらしい。

 九十九も眼鏡の縁を整え直すと、理知的な学者の顔で説明を始めた。


 「エルキドゥナル――メソポタミア神話に登場する、自然の守護神であり精霊だ。主に野生動物に慕われ、豊穣を願う古代人に崇拝され――最近、発掘された粘土板に記されていた」

 「かの有名な『ギルガメッシュ叙事詩』に登場する、ギルガメッシュ王の友・エンキドゥを同一視し神格化したもの。もしくはエンキドゥから派生した精霊とも、諸説存在する」


 まるで、架空の神話遊戯さながら幻想的な九十九の語りに、美琴達は唖然とさせられる。

 しかし、古代神秘学者の話と匹敵する怪奇現象を目の当たりにした今なら、自然と聞き入れられた。


 「古代城塞都市ウルの民に崇められていたエルキドゥナルは、『深淵の森』を住処にしていた。自然と動物達の守護神たる故、人間による自然破壊と動物殺戮には、厳しい"神罰"を与えたことで畏れられていた」


 神罰――戒めの意味を感じ取った美琴の脳裏に、事件の被害者に起きた不幸、そして包帯下で今も疼く傷の痛みの記憶が蘇る。

 事件が神霊エルキドゥナルの仕業なら、あの惨劇は神罰だと言うのか。

 そうであれば、被害者達は如何にして、古代の神霊の憤りに触れたのか。


 「エルキドゥナルがどんな存在なのかは、大まか分かりましたが……何故、九十九さんは、私達のお話を信じてくださったのですか」


 九十九は、神秘の深い知識と探究心を持つ奇特な学者。

 とはいえ、自分達が不可思議な体験、と命花に取り憑いた神代の人ならざるモノを目撃した話を、こう容易く受け入れてくれるのは不思議な感覚だ。


 「怪しい研究をしているせいか、私には分かります。あなた方の瞳は、嘘をついていない。それに小野君と警察から事件の話を聞くと、被害者の傷具合と現場に落ちていた『瑠璃星草るりぼしそう』は、神霊の仕業である証だ」

 「瑠璃星草?」

 「エルキドゥナルの花をそう名付けた。粘土板にも描かれているこの花は、エルキドゥナルの体から咲き、不思議な神力を宿しているらしい。花が咲くほど、エルキドゥナルの『癒しの力』は強まり、人間と大地を豊かに満たすと記されていた」


 瑠璃唐草に似た、空色にゼンマイ型の葉を生やした不思議な花を思い出す。

 事件の被害者達の傍で発見にされた、瑠璃星草。

 命花の髪の毛から零れた、青い花びら。


 「まさか、これは」


 美琴は記憶を辿っている最中、服の上着のポケットに入れっぱなしにしていたモノの存在を思い出した。

 家から追い出された時に着ていたズボンの右ポケットを漁ると、繊細な絹布の感触に当たる。

 そのまま引っ張り出せば、命花から贈られたお守り袋は姿を現した。

 袋を止める藍色の紐を解き、中身をひっくり返した。


 「……そうか……道理で君も、他の被害者達も……命だけは助かったのは、のおかげだね」


 手の平へ舞い落ちた、ひとひらの枯れた青い花びらを目にした九十九は、納得したように呟いた。

 お守りには、瑠璃星草の花びら――"癒やしの加護"が納められていた。

 それでも、美琴は未だ腑に落ちないものを感じた。

 古代の神霊エルキドゥナルが神罰を以て人間を襲いながら、わざわざ瑠璃星草を現場に残した意味。

 そして、娘の命花に憑き纏う理由――。

 憂い眼で思案する美琴の疑問を見透かすように、九十九も自身で不可解に思う謎を言及した。


 「ただ一つだけ妙だ……エルキドゥナルの起源は、メソポタミア――現代のイラクの一部で発展し、後にキリスト教の普及や隣国の制圧によって衰退した末に滅んだ神代の聖なる獣霊だ。しかし、その神霊が遥か遠い無縁の地で和国へ降臨し、生まれた時から理由は知れない」


 顎に手を当てて首を捻る九十九の疑問は、神秘の類に疎い美琴にも、大まか把握できた。

 神代のメソポタミア現イラクにしか存在しないはずのエルキドゥナルは、如何なる方法で、現代の和国に忽然と蘇ったのか。

 そして、何故エルキドゥナルは、天野命花を選んだのか。


 「となれば……和国にいる『呪術師』かがエルキドゥナルをし、この世に生を授かる段階で、お嬢さんに取り憑かせた――その可能性が高い」

 「そんな……一体誰が、何のためにそんなことをっ」


 またしても、馴染みない奇特な単語と現実離れした仮説は、さらに美琴達を深い混乱の渦へと巻き込む。

 召喚と憑依の鍵言葉から、魔女による悪魔の召喚と人間への憑依という"呪い"を連想し、ますます恐ろしくなった。

 如何なる理由であれ、人間の手に余る怪物じみた神霊で、純粋無垢な命花を惑わせ、心身を蝕んでいる元凶。

 そして、想像を遙かに超える最悪の事態に、美琴の心は挫けそうになる――。


 「そこで、古代の神霊魔術に詳しい知り合いが、一人いる。君達がよければ、へ一緒に会いに行こう」

 「彼女……?」

 「彼女は、私以上に奇特で神秘的な謎めいた人物だが……今までも私の研究に協力してくれている、貴重なだ。彼女に訊けば何か分かるのかもしれない……エルキドゥナルの謎……そして、あなたの娘さんを救う方法を――」


 万事休すへ陥りかけた所で九十九が出した提案に、美琴達一同は訝りながらも、期待に胸が高鳴った。

 九十九が零した"彼女"の存在は、希望となるかそれとも――。

 半信半疑ではあったが、娘を救うためならば藁にも縋る心境の美琴は、迷いなく頷いた。


 *


 『瑠璃山精神科病院』――第一次世界大戦後に創設された古い歴史を誇る、大規模な国立精神科病院。

 しかし、五十年前に発覚した入院患者に対する理不尽な暴力や人体実験紛いの治療の末、初めて死者が出たことで、一時期病院は閉鎖された。

 事件から七年後は、院内の改装工事に医療職員の総入れ替えを経て、再開された。

 しかし、適正運営されるようになった今でも、病院には事件前から入院を継続している患者の悪霊や、無念の院死を遂げた亡霊の呪いや怪奇現象などの暗い噂は後を絶えない。

 和国の闇遺産と呼べる曰く付きの精神科病院へ、九十九教授率いる美琴達一同は訪問していた。


 「ようこそいらっしゃいました、九十九教授。今日は学生の方もご一緒ですか」

 「まあね。彼女はどうですか」

 「ええ、お変わりなく。九十九教授が来ると聞いて、楽しみにしていました」


 彼女の担当看護師と思しき女性は、九十九の訪問を歓迎した。

 噂から想像したよりも、病院は清潔な明るさに満ち、職員達もにこやかに対応してくれた。

 とはいえ、訪問者の中に警察関係者がいると知れば、病院側へ余計な不安や警戒心を与える。

 小町警察官には私服を着てもらい、美琴達は九十九ゼミの学生ということで、話を通したらしい。

 担当看護師に案内された美琴達は、一般病棟の廊下を突き進むと、「閉鎖病棟」の看板を下げた扉の前に着いた。

 隣に併設されたロッカールームへ案内された美琴達は、看護師から丁寧な説明を受ける。


 「こちらになります。お手数ですが、先ずは荷物の検査と預かりをさせていただきます。カッターなどの刃物類、貴金属や財布などの貴重品、その他怪我や事故に繋がるものは、全てロッカーにお預けください」


 患者の自傷他害や自殺、個人情報漏洩と名誉毀損、不正取引等の防止のために"危険物"は没収された。

 美琴が以前勤めた病院の閉鎖病棟でも、訪問客の荷物検査や預かりは、普通に行われていた。

 しかし、一見無害そうな携帯電話や首巻きマフラー、音の鳴る鈴やアクセサリーまで没収され、この病院の警備体制の異様な厳重さを窺い知った。

 ちなみに取材用のメモは、病院が貸し出すタブレット型機械メモを使用できるらしい。


 「あの、これから会う患者さんは、どのような経緯から閉鎖病棟こちらへ……?」


 ここまで徹底管理された閉鎖病棟に長期入院している彼女は、一体何者なのか。

 興味と不安の入り混じる眼差しの同伴者の中から、南雲は代表で質問した。


 「彼女は『神谷かみたに霧華きりかさん。主治医には、重度の統合失調症と診断されて、病院の閉鎖病棟に入ったのだけど……病状は一向に回復せず、身寄りもないらしいから四十年以上もいる長期入院患者の一人です」

 「彼女の場合、精神医学的には自分が神秘や霊と交信できる『の巫女』だという誇大妄想や、実際に霊魂を見て神の啓示を聞いたという幻覚を示している」

 「さすが、九十九先生。おっしゃる通りです。ただ……」

 「もちろん心得ています。今まで彼女は私へ危害を加えるような真似をしていないし、その気も見らなかったでしょう?」


 『神谷霧華』という、謎の長期入院患者。

 大まかな詳細を知らされたが、美琴達の疑問と緊張は増すばかりだ。

 以前から交流を続けているだけあって、九十九は彼女の病状についても看護師以上に詳しいと窺えた。

 一方、担当看護師は今まで保っていた友好的な微笑みを、一瞬だけ引きつらせた。

 医療従事者として当然の反応だろうが、担当看護師は彼女の言動を事実ではなく精神病による妄想だと思っている。

 温雅で品格ある人柄への強い信頼、と研究協力の謝礼としての寄付金を受け取っている手前、病院は表立って彼と患者を否定しないだけだ。


 「こちらが患者様の病室です」


 病室番号の横に「神谷霧華」の名札看板が眼に入る。

 閉鎖病棟の最奥にある病室の扉に着いた所で、美琴達は違和感に気付いた。

 閉鎖病棟の入り口付近は、青白い足元灯のみで薄暗かったはずが、病棟の奥は四方を眩い蛍光灯で明るく照らされている。

 扉の窓硝子の向こうも白光に満たされており、じっと目を凝らさないと室内は覗けなかった。


 「この辺りだけ異様に眩しいですね」

 「これは彼女なりの魔除けです。悪霊や怪異は闇に惹かれ、光をいとうもの」


 異様な明るさの理由を説明した九十九に、美琴達は唖然とする中、胸には緊張の暗雲が立ち込めた。

 部屋中をエルゥの黒い絵で覆い潰していた命花とは、対照的だと思った。

 暗闇にいると何かを見てしまう幻覚恐怖、と抑鬱に悩まされて照明を消せない、眠れない精神病患者は多い。

 体験者にしか分からない恐怖の領域へ、まさに美琴達は踏み入ろうとしている。


 「失礼します、神谷霧華さん。お知らせした九十九教授とがいらっしゃいました」


 担当看護師は、声をかけながら鍵を回すと扉を開け、九十九達を中へ案内してくれた。

 病室内は扉から二メートル離れた位置に、透明なアクリル板の衝立が貼られていた。

 患者と訪問者の安全対策だと分かる。


 しかし、先ず一目で美琴達の目を引いたのは、アクリル板の中央に浮かぶ巨大なだ。


 周りから背後の白い壁と床まで、謎の魔法陣や楔文字は、赤黒い塗料でびっしり描かれていた。

 血で塗り潰されたのか、と一瞬錯覚するほど異様で禍々しい光景は、心胆寒からしめる。

 一方、異様な病室の光景を見慣れている九十九は、平然とアクリル板へ近付いてあいさつしていた。

 看護師は深く関わりたくないのか、「では、何かあればお呼びください」とだけ告げて、そそくさと退室した。

 ほんの一瞬だけ、美琴達と病室の患者の間に冷たい沈黙が流れる。


 「また、来ましたか……随分とあなたも物好きなのですね……」


 くすくすくす……雪のように冷たく儚げな声で笑みを奏でる。

 真紅の魔法陣と楔文字に眩い光に埋もれるように、寝台で腰掛けている人影は、もぞりと顔を上げた。

 床をなぞるほど長い白髪に白い和服をひきずりながら、こちらへ緩慢に近付いてくる。

 九十九との距離がアクリル板越しに触れ合えるくらい縮まると、白い光影で遮られていた顔の輪郭は鮮明化した。


 「あら、今日は変わったお友達も一緒? ふふふ……」


 神谷霧華の姿に、美琴達はまたしても固唾を呑んだ。

 聞いた話によれば、神谷霧華は齢七十を超えるはずだが、どう見ても妖艶な三十代前半くらいの若い美女だ。

 和人離れした長い髪もきめ細かな肌も美しい雪色に輝き、笑みの咲く唇は真紅の薔薇のように艶やかだ。

 違う状況であれば、霧華の妖艶な美貌に見惚れていた。

 しかし、彼女の虚ろな眼球に灯る無機質な冷たさ、可笑しそうな笑みを絶やさない不気味な魅力に、不安を掻き立てられる。


 「しかも、そちらの女性はね……瑞々しくて芳しい、"神霊の匂い"が……ふふふ」


 霧華はアクリル板へ両手をくっつけると、九十九の斜め後ろにいる美琴を、食い入るように覗き込む。

 新鮮な獲物を睨め回す爬虫類さながらの眼差し、舌舐めずりするような笑み。

 霧華の人外的な薄気味悪さに寒気を覚えた美琴は、足が竦みかけるが踏ん張った。


 「心当たりがあるなら話は早い。実はあなたに相談したいことがあってね。この方は……」

 「天野美琴ね……」

 「!? は、はじめまして……」

 「そっちは南雲純一に佐藤裕介、警察の小町由紀ね……」


 九十九が紹介する前に、霧華は美琴達へ視線を順番に移しながら名前を呼んだ。

 九十九が事前に美琴達の氏名を聞かされていた可能性を考えても、全員を顔まで寸分違わず言い当てた霧華に、度肝を抜かれた。


 「そう……あなたのね? 神霊エルキドゥナルを」

 「え……?」

 「しかも、あなたの娘の天野命花に取り憑き、ついにはこの地に根を張ってどんどん神力を増している……邪魔者と見なされたあなた達は、"エルキドゥナルの森"から弾き出された……でしょう?」

 「どうしてそれを、あなたが」


 さらに霧華は、知己の九十九からも未だ聞かされていない神霊エルキドゥナルの件、それに取り憑かれた命花の現状を、あたかも見てきたかように言い当てた。

 霧華を一目見た瞬間から既に感じていたが、九十九の言う通り彼女はだ。

 霧華の台詞に動揺を隠せない美琴達を、彼女はいたずらに成功した子どもさながら可笑しそうな笑みを零した。


 「くすくすくす……当然よ。そもそもエルキドゥナルをだから……」

 「あなたが、呼び出したって」


 「案の定、顕現した瞬間、私は、久しぶりに。しかも、他所へ逃げられてしまったけど。まあ、強引に呼び出され、干からびた私の魂なんか、食う気にもなれなかったのでしょう。でも、おかげで、ふふふ……」


 霧華の話を鵜呑みにするのならば、神代の怪物霊を現代へ召喚させた。

 しかし、返り討ちに遭い、世へ放ってしてしまった元凶も、彼女だと窺い知れた。

 一方「顔を噛み砕かれた」、「久しぶりに一度死んだ」、と言う霧華の物騒な台詞に訝る美琴達は、反応に窮した。

 エルキドゥナルの底知れぬ力、獰猛な威圧感は、凄惨な事件のあらましを知り、実際の遭遇を以て体感した美琴達も承知済だ。

 しかし、比喩や冗談を匂わせない台詞の意味を、美琴達は容易に受け入れられない。

 目の前にいる霧華は生きており、妖艶な美貌は獣の痛ましい噛み跡どころか、シミ一つすらない雪肌に輝いている。

 困惑に固唾を呑む美琴達を他所に、九十九は質疑応答を進める。


 「まさかあなたが、あのエルキドゥナルを召喚したとは……しかし、一体何時何のためにそのようなことを? それに、あなたを襲って去ったというのは……?」

 「前にもあなたに言ったかしら? 今の私は和国の地に囚われ、昔のような力はあまり残っていないの。だから、密かに儀式でエルキドゥナルを召喚した――にね」

 「十九年、前……?」


 霧華の呟いた"十九年前"は、美琴の胸に引っかかった。

 一方霧華は、逡巡する美琴の心内を見透かすようにくすりと微笑む。


 「自己紹介は、まだだったわね……私のことを話すついでに『エルキドゥナルの伝承』も教えてあげるわ……それから、あなたの娘のこともね」


 エルキドゥナルに囚われている命花の行く末を示唆しているのだと、美琴は直ぐ悟った。


 「どうか、よろしくお願いします……」


 霧華からエルキドゥナルの起源と正体、そして命花を取り戻す方法を教えてもらえると、美琴は期待した。

 霧華への感謝と己の強い意思を伝えるように力強い眼差しで、美琴は大きく頷いた。

 頭を下げる美琴の後頭部を、霧華は無言で見下ろしていた。

 薄ら微笑む霧華には、侮蔑や優越感、憐憫や愉快のどれにも当てはまらなかった。


 「やっと話す気になってくれましたね……ですが、どういう心境の変化で? この二十年間、あなたの昔話を聞きたくて、足繁く通い続けた私の努力がやっと報われるとは」


 乗り気になった霧華に、九十九は好奇心を抑えられない眼差しで、歓喜と疑問を零す。


 「さあ、どうでしょう? 強いて言えば、単なる気まぐれよ。懐かしい名前を聞けたから。それに……娘を想う母親の魂は、中々にですし……くすくす」


 九十九の問いに対し、霧華はファンの追及を躱すように艶やかな笑みで、言葉を濁した。

 霧華の睨め回す蛇の視線を再び感じた美琴は、自分が捕食されるような寒気を覚えた。

 年齢と見た目にそぐわない妖しい容貌に、不可思議な言動の霧華は、本当の不老不死の魔女に見えた。

 一方、美琴の密かな怯えの眼差しに意を介すこともなく、霧華は雪の微笑を張り付けて口を開いた。


 「かつての私は、メソポタミアのカナンで『バァルゥ神』を祀っていたの」

 「バァルゥ神は、カナン地方で信仰されていた豊穣の神だ。キリスト教では、邪神もとい『悪魔バアル』と同一視された。故にバァルゥ神を信奉する巫女は、『バビロンの魔女』としても忌み蔑まれた」

 「しかり。だからそちらの女性も、私を邪悪な魔女だと怖がってしまっているみたい……ふふふ」


 やはり、美琴が霧華へ感じている恐れは、本人には見透かされている。

 図星な美琴は、気まずそうに視線を一度外してから「すみません」、と頭を下げた。

 一方、霧華は気を悪くした様子もなく「いいのよ」、と艶やかな笑みで優しく囁かれた。


 「バァルゥ神のような精霊と契約を交わし、聖なる力を賜って神事を為す私のような者は――使徒アスールと呼ばれていたの」


 神谷霧華の物語は、壮大な世界と神秘に満ち溢れ、美琴達の心を囚えた。

 バァルゥ神の使徒として、カナンのテュロスで暮らしていた霧華は、異教徒軍団の弾圧を受けた。

 異教徒によって、信者は次々と虐殺された。

 神殿もろとも都市が陥落していく中、弱体化したバァルゥ神を匿い癒す器として、"彼女は選ばれた"。

 不老不死の神力も、器にされた際に賜ったらしい。

 バァルゥ神を宿した彼女は、たった数人の生存者を率いて、徒歩でバビロンを目指した。


 幸い、難民保護の巨大都市国家ウルクへ、招き入れられた。

 しかし、束の間の平穏な暮らしは、長続きしなかった。

 バビロニアでも、国家間の争いと崩壊、放浪と束の間の定住、他所の大陸からの侵略者に捕囚されることを繰り返した末。

 和国へ流れ着いた彼女は、神谷霧華に名前を変えて、現在に至るらしい。


 「神ですら気の遠くなる旅の時間、絶えることはなかった暴虐を味わってきた今、私に宿っていたバァルゥ神はもはや残骸。そこで"十九年前"に、私は思いついた。バァルゥ神と起源の繋がった”別の神霊”を召喚し、力を与えてもらおうとね。それが、自然の神霊エルキドゥナルだった。けど、が生じたわ」

 「誤算、とは?」


 不老不死だと言う話も未だ半信半疑だが、いつの間にか霧華の語りに聞き入っていた美琴達は、息を呑んだ。

 彼女の話は、今の美琴達にとって最も気がかりな核心へ近づいている。

 怪訝な眼差しで問う美琴に、霧華はふっと自嘲の笑みを咲かせた。


 「召喚されて早々、エルキドゥナルは憤りと共に私を拒絶し、唯一恋焦がれた『少女』を探して消え去ったのよ……まさか依代よりしろに『少女の』を使ったら、噛み殺されるなんてね……ふふふふふ」

 「少女って……一体誰のことですか」


 霧華が痛快げに答えた台詞の端々で出た『少女』の存在に、美琴の胸は無性にざわついた。

 何故か不意に、天真爛漫な命花の笑顔が浮かんだ。

 今となってはひどく懐かしく、美琴の胸を切なく締め付ける。

 美琴の心中を察してか否か、霧華は珍しく穏やかな微笑みをと共に息を吐いた。


 「もう一つ、昔話に付き合ってもらえます? それから本題に入りましょう」

 「前置きはそこまでにして、早く命花を助ける方法を教え……「どうか聞かせてください」


 霧華の長々と胡散臭い空想じみた昔話に、うんざりした佐藤は横槍を入れるが、美琴はそっと制した。

 天野家に籠城している神霊から囚われの命花を、一刻も早く救いたい佐藤の気持ちは同じだ。

 しかし、霧華の物語へ静かに耳を傾けている内に、美琴は薄々気付いていた。


 「でも、おばさん」

 「もっと知りたいのです。エルキドゥナルのことを……命花が愛してやまない神様のことを」


 命花を救うためには、彼女の気持ちと願いを理解し、寄り添うことが大切だ。


 それには、命花の心を虜にしてやまない無垢なる神霊エルキドゥナルのことも、理解する必要があると感じた。

 嘆願する美琴に、霧華は心底気を良くした笑みを深めた。


 「では、話しましょう……エルキドゥナル……神霊が愛した、とある少女――『ウトゥナ』のことを……」



***次回へ続く***


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