第二話『緑の影』

 真っ暗は真っ黒――真っ黒は真っ暗――。


 爽やかな蜜柑の芳香漂う仄闇に、甘い陶酔感で満たされる。

 視界で朧気に浮かび光る二つの影は、足元のおぼつかない自分を支える。

 やがて、騒がしくて耳障りな異物他者が蠢く世界から解放される。

 紺碧の世界に漂う冷たい夜風は、気道から肺を伝って脳内を心地良く満たす。

 二つの影は、の扉を開け、中へ乗るように誘導した。

 どこへでも行けそうな夢見心地に浸っていると、二つの影は左右から挟み込んできて耳元で知らない言語を囁いた。


 ひどく耳障りで騒がしい――正聴に耐えがたい旋律、と声量に思わず眉をひそめた。


 両耳を塞ぎたくなった自分が、左右の手を同時に上げた瞬間だった。

 二つの影は、鮮やかな紅色の花を一斉に咲かせて沈黙した。

 

 ああ、綺麗……これでやっと静かに眠れる……。

 ありがとう……のね。

 

 ぷかぷか――身も心も安らかな睡魔へと、穏やかに沈んでいく中――

 ――『あのヒト』は、迎えに来てくれた。

 

 自分を背中から抱擁してくれる優しいぬくもりに、愛しさで胸がぽうっと熱くて、何だかすごく幸せな気分になれた――。


 *


 中春の四月十二日・午後六時四十分頃――。

 瑠璃山大学前駅にある焼肉店で、原因不明の「出火事故」は起きた。


 事件当時の店内は、瑠璃山大学の「心理学研究サークル」主催の新入生歓迎会で賑わっていた。

 しかし、学生達が利用していた座敷の焼き網から、突如前触れもなく激しい炎か次々と燃え上がった。

 原因不明の連鎖出火によって、店内は濃い煙に充満し、避難した学生達は腕や顔面に軽度の火傷を負い、煙による昏倒で搬送された者も出た。

 現在警察は、焼肉店と参加した学生双方へ事情聴取し、出火原因の特定に尽力し始めた。


 一方、同時刻に焼肉店の駐車場で起きた不審な「殺傷事件」についても、出火事故との関連性も視野に詳しい捜査にかけられた。

 

 「天野さん!」

 「南雲なぐも君? どうしてここへ?」

 「聖先生から連絡をいただいて……それからネットニュースでは、命花ちゃんの大学と同じ学生の事件を確認したので心配で」


 事件当日の深夜――近くの国立総合青野病院へ、娘の命花が緊急搬送されたという連絡を警察から受けた美琴は、慌ててクリニックを飛び出した。

 生きた空もない気持ちで電車に揺らされ、焦るあまり足をもつれさせたりしながら病院へ駆けつけた。

 すると病院の玄関で馴染み深い土埃緑カーキーグリーン外套ジャンパーと黒い巻毛が目に入った。

 親しい知り合いの南雲と再会した。


 『南雲純一じゅんいち』は、聖先生と公私共に親しい交流のある三十代前半の男性で、瑠璃唐市役所の精神保健福祉相談員だ。

 聖先生を介して知り合った南雲とは、娘の命花への医療福祉支援制度の手続きの他、ヘルパー今村の紹介まで多岐に渡って世話になっている。

 物腰柔らかな佇まいと温和な話し方から、誠実さが滲み溢れる好青年だ。

 おかげ、で人見知りの命花も懐いて心を開く得難い存在だ。

 命花と美琴の支援担当が変わった今でも、事あるごとに二人の元へ駆けつけて親身になってくれるのだ。


 「わざわざありがとう……所で命花の容体は……?」

 「安心してください。お医者さんが言うには、気を失っているだけでどこも悪くないって。直に目を覚ますらしい」

 「よかった……っ」


 南雲の口から命花の無事を耳にした美琴は、胸をひどく撫で下ろした。

 安心で膝の力が抜けたのか、一瞬ふらついた美琴の肩を、南雲は咄嗟に支えた。

 南雲と看護師に案内された美琴は、焦る気持ちを精一杯抑えながら命花の病室へ入った。


 「あ……どうもすみません、お邪魔してしまって」

 「あなたは……? もしかして」


 窓際にある寝台の白い窓掛けから覗くのは、椅子に腰掛ける男子大学生。

 寝台で眠る命花を見守るように、付き添っていた。

 彼は美琴達の来室に気付くと直ぐに立ち上がり、礼儀正しい会釈と共にあいさつした。

 焼き栗色の慎ましい色合いの柔らかい短髪に、シャツとジーンズの簡素な装いの誠実な顔立ちだ。

 青年に美琴は首を傾げたが、心当たりがあった。


 「佐藤裕介と言います。天野命花さんとは、学年と学科のクラスが同じなんです」

 「彼も今夜のサークル歓迎会も参加していて、気を失っていた命花ちゃんを見つけて通報してくれたんだ」

 「この度は申し訳ありません。お……僕がついていながらこんなことに」


 佐藤裕介と名乗った学生は、深々と頭を下げて謝罪してきた。

 佐藤と命花の関係と状況を補足してくれた南雲の説明に、美琴は腑に落ちた。

 同級生の命花を心から案じ、今回の事件に責任を感じているらしい。

 裕介の律儀な態度に、美琴は関心しながらも慌てて訂正する。


 「そんな、謝らないで。むしろ佐藤君が娘を心配してくれて、病院と警察にも連絡してくれたのよね? 娘を助けてくれてありがとう」

 「いえ、そんなとんでもないです。俺は何も」


 佐藤は謙遜していたが、状況的に見れば焼肉店の駐車場へ連れて行かれた命花のために、わざわざ歓迎会を抜けて助けてくれた。

 歓迎会の前に受けたライクの連絡で、娘が伝えてくれた「優しい同級生」とは、佐藤のことらしい。

 佐藤の礼儀正しい態度と誠実な言動から、娘が信頼するのも頷ける。


 「っ……ママ……?」

 「命花……! よかった! 目を覚ましてくれてっ」


 佐藤とあいさつを交わす最中で、命花は意識を取り戻した。

 命花の瞳は、未だ朧気で完全に覚醒しきっていないが、医師の言う通り大事には至っていない。

 すかさず美琴は、命花をひしっと抱きしめて無事を喜んだ。

 母親の強い動揺と歓喜の様子に、命花は瞳を瞬かせながらも安堵に微笑む。

 仲睦まじい母娘の姿を、南雲と佐藤も微笑ましそうに見守る。


 「失礼致します。天野命花さんに少しお話を伺いたいのですが」


 しかし、母娘の喜ばしい再会に水を差す者は現れた。

 三十代半ばと思しき婦警は、警察手帳をかざして敬礼をしながら入室してきた。

 彼女は『小町こまち由紀ゆき』警察官と名乗った。

 しかし、母親の美琴としては警察の唐突な介入と娘を指名する声に、不安と苛立ちが湧かずにはいられない。


 「あの、すみませんが……娘はたった今目を覚ましたばかりです。それに未だ安定した調子ではありません」

 「お疲れの中での急な訪問に対する無礼は承知です。ですが、娘さんはもちろん、被害者のためにも事件の早い解決が望ましいです。そのためには現場に居合わせた娘さんの証言も必要です」

 「なら、せめて母親の私も同席しても構いませんか」

 「申し訳ありませんが、お母様にも席を外していただきたいのです」


 美琴は不安と若干の苛立ちを抑えながら交渉を試みたが、彼女の要望は一蹴された。

 美琴にとっては、理不尽に聞こえる警察の要求にさすがに抗議した。


 「どうしてですか」

 「規則なので。それに身内の前では、打ち明け辛い話もあるでしょう」


 打ち明け辛い話とは、一体何を指しているのか。

 小町警察官が、命花と二人きりでの事情聴取を求める理由、と意味を少し察した美琴の胸に不穏な火花が散る。

 焼肉店の駐車場で、不審な重傷を負った大学の先輩二人の傍で意識を失って倒れていた命花も、れっきとした被害者だ。

 それなのに、小町の言動はまるで命花を疑っているとばかりだ。

 不愉快だと訴える眼差しの美琴を、命花はおろおろと不安そうに眺める。

 一方、小町は臆せず毅然とした表情を崩さない。


 「あの、待ってください。その、命花は……『自閉スペクトラム症』なんです……っ」


 振り絞るような声で紡がれた美琴の言葉に、小町警察官と佐藤は瞳を瞬かせ、事情を知る南雲は彼女の肩に手を置いた。

 こちらを不安気に窺う弱気の猫な眼差しの命花を、小町は数秒ほど観察してから小さく息を吐いた。


 「……分かりました。こちらも、なるべく配慮します。決して無理強いはしません。数分だけお時間をください」


 母娘の事情と心配をある程度呑み込んだらしい小町の譲歩に、美琴は渋々応じた。

 同席はさせてもらえないが、病室の外で待っていいと小町は告げた。

 双方の交渉が成立した後、美琴と佐藤、南雲の三人は後ろ髪を引かれる思いで立ち上がる。


 「あ……! すみません。拾います」


 佐藤は自分の膝に置いた荷物の存在を忘れていたらしく、立ち上がった拍子に落とした。

 白い床へ落ちた鞄から散らばった中身を、佐藤は慌てて拾い始めた。


 「佐藤君……?」


 しかし、途中で指を止めた佐藤の異変に、美琴は直ぐ気付いた。

 心配になった美琴と南雲も一緒になって、床へ散乱した荷物を拾うと息を呑んだ。

 強張った表情の佐藤の指先に見えたのは、一冊の森緑フォレストグリーン色の絵描き帳スケッチブック

 絵描きの好きな命花が常に持ち歩いており、美琴も見慣れたものだ。

 床へ落ちた拍子に開いた絵描き帳の頁に、佐藤だけでなく、美琴も南雲も釘付けになった。


 「ママ、またあとで。わたしはだいじょうぶ、だから」


 寝台から頭上へ降り注いだ命花の穏やかな声で、我に返った美琴達は、慌てて立ち上がってから退室した。

 しかし、命花への短い事情聴取の終わりを待つ間、美琴の胸は得体の知れない薄気味悪さにざわついた。


 鉛筆で真っ黒に塗り潰された暗闇に浮かぶに、今も見つめている気がして――。


 *


 キラキラ、きれい――。

 陽光を帯びた樹葉は、ひとひらひとひらが緑柱石エメラルドのように煌めいて。


 フワフワ、ツヤツヤ、やさしくて、あまい――。

 彩りの道の草花、たわわに成った果実は、爽やかな甘い芳香と伴に舞い踊る。


 サラサラ、ひんやりして、きもちいい――。

 清らかに澄み渡る川のせせらぎは耳朶を撫で、ひんやりと瑞々しいぬくもりで心洗われる。


 『この森』を――。


 煌めく太陽の恩寵と清涼な緑の静寂を抱擁するこの場所を、命花はゆったりと歩む。

 幻想的な美しさに輝く厳かな景色は、夢の世界。

 なのに、命花には風景から音色、匂いと感触までひどく覚えがある。


 すてきな、おともだち、いっぱい――。


 森の道中で遭遇しすれ違う野生動物は、栗鼠りすや兎、鹿などから熊や獅子、さらにはガゼルや翡翠カワセミまで、和国では珍しいモノまで多種多様だ。

 彼らの瞳には渇望も闘争もなく、ただ無垢な色で命花を見つめてくる。

 彼らを見つめ返すと、無性な懐かしさに命花は安堵と同時に胸を締め付けられた。

 何故? 深淵が濃くなっていく緑の底へ突き進む途中、視界は眩い新緑色に輝き満ちる。


 フサフサ、やわらかくて、ポカポカ、あたたかくて、あんしんする――。

 お日様の香る緑の揺り籠に、抱きしめられているよう。


 温かくて優しい夢心地を、両手で力一杯手繰り寄せてみると、ぬくもりも応えてくれた。


 『――――……』


 気がした。

 耳朶を撫でた声は、大柄な猫のような野太さにくぐもりながらも、獅子のように冷徹な知性を宿していた。

 異質な獣らしき声は、威圧感でありながらも命花を呼ぶ時だけは、笑顔で優しく語りかけられているように響いた。


 『――ぃ――か――めい、か――命花――ウトゥナ命花――……』


 ハッキリと名前を呼ばれた瞬間――野生動物達と逢った時とは比べものにならない、燃えるような歓喜、灼けつくような切なさに心臓が戦慄いた。

 いつのまにか、命花の瞳から一筋の涙が伝う。

 無垢に煌めく雫は、流星群のように溢れて止まない。


 *


 「あれから、命花ちゃんは大丈夫ですか」

 「ええ。思ったより元気だわ。昨日から普段通り、部屋で絵描きや勉強をしている」


 事件の夜から二日後の日曜午後――美琴は、自宅の居間で友人の南雲へお茶をもてなし、雑談に興じていた。

 南雲は、たまたま近くに寄ったからと言った。

 しかし、優しい南雲のことだから美琴と命花を気にして、わざわざ二人の好きな洋菓子を土産に訪ねたのは窺えた。

 押し付けがましくない南雲の優しさ、とさりげない親切に、美琴は胸が温まる。


 「それを聞いて安心しました」

 「ええ……ただ」

 「何か気になることでも?」


 意外なほど、命花は事件前と変わらない様子で、自分の趣味と世界を繋ぐ絵描きと勉強に没頭し、安定していた。

 一方、先程から浮かない表情で逡巡している美琴に、南雲は鋭く気付いた。

 内容はともかく、美琴の疑問や不安などの些細な変化を見透かすのに慣れた南雲に、彼女は苦笑すると共に打ち明けた。

 同時に、あの事件を担当する小町警察官の「不可解な台詞」は頭を過ぎった。


 *


 『って、どういうことですか』


 小町警察官は、命花への手短な事情聴取の直後、母親の美琴も取り調べるために別室へ呼び出した。

 美琴は、最も気がかりな命花の精神状態を確認するためにも、渋々承諾した。

 しかし、小町の返答は意外な内容だった。


 『あの夜、自分に何が起こったのかも命花さんは「まったく記憶にない」、と言っていました。いつの間にか、外へ移動していた事に気付いた直後も、意識を失ったようです』


 小町曰く、事件当時の命花は焼肉店で手持ち無沙汰になった際。

 先輩から提供された蜜柑果汁を飲んだ直後からの記憶は曖昧らしい。

 何故、自分は大学で体験期間中のサークルの先輩二人と一緒に駐車場へ行ったのか、彼らと自分の身に起こった事すら覚えていなかった。


 『命花さんの記憶のブラックアウトの原因は、お酒かと』

 『命花がお酒を!? 何かの間違いではありませんか』

 『命花さんの呼気から、一定数値のアルコールが検出されました。きっと、ジュースと間違えて飲んだかと』


 命花の意識と記憶の一時障害が、慣れないアルコールの急激な摂取による酩酊が原因ならば、彼女の不自然な意識消失と平然とした態度にも得心がいく。

 最近では、大学も法律も規制が厳しくなっているため大丈夫だろう、という己の考えのあまさに猛省させられた。

 やはり、大学の飲み会における新入生への「飲ませトラブル」は回避し難かったようだ。

 今後は慎重に判断せねば。


 『それはさておき……今から簡潔な質問をしたいので率直に答えてください』

 

 事情聴取を済ませた命花が普通に落ち着いており、一方で小町は怪訝な表情を浮かべていた様子から、事件の詳細と解明に有益な情報は得られなかったのだろう。

 ならば命花も被害者の一人であり、保護と配慮に該当するはずだ。

 しかし、小町が母親である自分をあえて別室へ呼び出した目的と意図に美琴は妙な胸騒ぎと勘繰りを抱いてしまう。


 『あなたの娘さんである天音命花さんは、自閉スペクトラム症だと言っていましたが……確かですか?』

 『そうですよ。四歳だった娘を診た精神科医にそう言われました。数年前に受診したクリニックでも診断は出ています。精神保健福祉手帳もあります』


 美琴の真に迫った説明、と差し出された精神・発達障害者の福祉手帳のコピーに、警察官は「分かりました」、と納得した表情で淡々と応えた。

 しかし、美琴が内心胸を撫で下ろしたのも束の間だった。


 『なら質問を続けます……過去に娘さんがをしたことは? 例えば刃物で人を傷つけるとか』


 またしても、この人は何を言っているのか。

 警察官の予期せぬ質問内容に、相手の意図を確信した美琴は、燻っていた理不尽な怒りが噴き出しそうになる。


 『娘を疑っているのですか』

 『あくまで確認です。聴取する全員にする質問です』

 『娘は、人を傷つけたことは一度もありません。命花は、心優しくて気の弱い娘です。むしろ、自分の言動が相手を傷つけたと知ったら、深く落ち込んで謝るくらいです』

 『そうですか……』


 美琴の否定の訴えを冷静に受け流す小町。

 小町は、あらゆる可能性を考慮して仕事を遂行しているだけなのは、職業上度々警察と関わることもある美琴には分かる。

 それでも、悔しくて悲しかった。


 過去の「傷つき体験」もひっくるめて、であるはずの命花が……。


 誰かに傷つけられることも誰かを傷つけることを怖がり、自分を傷つけた相手を怒りさえもできない純粋で心優しい娘が、何故われなき容疑をかけられるのか。


 惨劇の現場で唯一無傷だった人間で、という理由で。

 

 『他にも、怒りやかんしゃくといった情緒的問題、ご家庭のトラブルなど、心当たりはありませんか』


 相変わらず小町は、神経にさわる質問を続けた。

 結局、この警察官も今までの人達と同じか。

 相手は、どこまで大人の発達障害を知っているのか定かではない。

 しかし、命花が発達障害であると耳にしてから、命花へ向ける目付きが変わったのを見逃さなかった。

 今まで逢った人たちもそうだった。


 「自閉症って、うつ病とひきこもりのことですよね?」、「自閉症ってまさか。だって、娘さんこんなにもしっかりよく喋って動いているじゃないですか」、などと。

 無知な他人の無神経な言葉と無理解は、一度や二度ではない。

 ただ、診断名だけで娘の精神と人間性を疑われることに屈辱を感じながらも、告知しなければ娘の特性を配慮してもらえない問題。

 美琴はやるせなさを必死で堪えながら、努めて冷静に事実を答えた。


 『命花は、昔から大人しくて寡黙な子です。流暢に話すようになったのもつい最近で……ごくたまに、ストレスが極限まで溜まると壁で額をぶつけたことはありますが……人を傷つけたことはありません』

 『他にご家族は? 父親はいられますか?』

 『夫とは離婚しました……命花が六歳だった頃に』

 『離婚の理由は訊いても?』


 別れた夫との関係性と離婚理由まで掘り下げてくる小町に、思わず袖を握る手に力がこもる。

 離婚歴に障害持ちの子ども、一人親家庭に対する否定的イメージと嫌な勘繰りを押し付けられる不愉快さは何度も経験したが、唇を噛まずにはいられない。


 『娘の教育方針の対立と……一度だけですが、夫が娘を殴ったことがきっかけで……どうしてそんなことまで訊くのですか』

 『気分を害されるでしょうが、ご理解を。事件のの一早い捜索と逮捕にむけて我々も尽力したいのです』

 『犯人って……事件は事故ではないのですか?』


 たまらず、抗議を漏らす美琴に対する小町の言葉に、彼女は固唾を呑んだ。

 目の前の小町は、単なる偏見で命花を疑っていたわけではない。

 ただ、な事件性の根拠に基づいて聞き取りしていた。

 美琴の疑問を肯定するとばかりに、小町は続けた。

 現時点で判明している、事件の詳しい状況説明を受けた途端、美琴の顔は青褪めた。

 さらに、不可解な事件への疑問と不安は、二日後の早朝に流れた報道によって深まることになった。


 *


 「つまり、警察は命花ちゃんを”事件の容疑者”の一人と見なしているのですか」

 「信じたくないけど、そういうことだと思う」

 「僕だって信じられません。テレビニュースは、事実に出鱈目な憶測も混ざっています。僕の知る命花ちゃんは、決して誰かを傷つけたりしない」


 事件の全貌と真相が未解明な段階から、命花を信じてくれる南雲の理解と優しさは、非常に心強かった。

 美琴自身も、命花の潔白を確信できる。

 しかし、今朝の報道で流れた事件の新情報は、美琴と南雲を新たな不安へ掻き立てた。


 テレビの報道陣は『瑠璃山大学生焼肉店事件』について、「霊による説」から「下山説」、「通り魔・放火犯説」まで様々な憶測を混えて大々的に報道した。

 警察による捜査の結果、焼肉店における安全管理と設備に


 参加していた大学生の内、出火を招く危険行為をした者もいなかった。

 一方、命花を発見した駐車場も、不可解で凄惨な現場となっていた。

 大学生二人のおびただしい血痕で、駐車場一帯は赤く染まっていたらしい。

 駐車場で倒れていた三人、と彼らを目撃した佐藤裕介も疑われた。

 しかし、彼は凶器を所持していなかったため、通り魔による殺人・放火も疑われた。

 もしくは、重傷者二人の頸動脈から胸辺りにかけて深く裂き抉られた傷跡から、瑠璃山から下山してきた”野獣の仕業”とも噂された。


 「明日から大学には通うんですか」

 「一応命花は行く気みたい。でも……」


 真なる元凶が何にせよ、命花の身の安全が保障され難い状況に変わりない。

 果たして、このまま命花を大学へ通わせていいのか。

 今村も、常に毎日命花に付き添えるわけではない。

 本音としては、事件収束までの間、暫くは安全を期して命花には家にいて欲しい。

 しかし、たった一つの不運な事件に翻弄され、娘の貴重な大学生活を奪うのも心苦しい。

 美琴の葛藤を察している南雲も、瞳を伏せて沈黙してから――意を決した様子で、懐から携帯端末を取り出した。


 「あの……命花ちゃんの通学のことで、僕から提案してもいいですか」

 「提案って……?」

 「ほら、病院で命花ちゃんに付き添ってくれた佐藤裕介君。もし、天野さんと命花ちゃんさえ良ければ、これからは彼と一緒に登下校してはどうですか」


 南雲の予期せぬ名案は、美琴にとっても魅力的だった。

 世間知らずで純朴な命花を以前から気にかけ、事件当時も倒れていた命花を助けてくれた。

 病室で初めて逢った時も、誠実で礼儀正しい好青年だった。

 美琴が警察官の取り調べを受けている間に、南雲は佐藤と何時でも接触できるように連絡先を交換していたらしい。


 「一応佐藤君も事件に巻き込まれた学生の一人だし、命花ちゃんを心配しているから、一緒に行動した方が互いに心強いかと」

 「ありがとう、南雲君。私もそれが安全だと思う。命花にも話してみるわ。命花も佐藤君のことを信頼しているようだから、きっと応じてくれる」


 大学での自由な学びを謳歌する一方で、慣れない学校生活や人間関係に神経を研がれている命花にとって、貴重な友人ができるのも喜ばしい。

 今回の事件は痛ましいものだが、この不運を機に二人は親睦を深められたらいいと願う。

 憂鬱な気持ちから一転して、前向きな気分を取り戻せた美琴は、早速命花にしに行く。

 自室にこもっている命花の自室へ向かう、美琴の明るい表情に、南雲も穏やかに微笑む。


 「命花? ママよ。入るわね?」


 部屋の扉を軽く叩いて声をかけた美琴は、返事を待たずに入った。

 年齢不相応の無邪気な内面が強い命花は、美琴にはわりと何でも話す。

 秘密らしい秘密を持たない命花は、美琴が確認なく部屋に入ってきても気分を害することはない。

 ただ、命花が部屋にこもっている時は、大抵趣味の絵描きか読書に耽っている。

 テレビの著名人や芸能人の顔と名前、日用品の名詞一つ覚えるのに苦戦するのに。

 興味分野の長文で難解な用語は、一度読んだだけで記憶し、深い専門知識が豊かだ。

 さらに、現実に存在しない景色や物体を、一時間足らずで数枚もの美麗な絵画へ具現化できる。


 たとえ、世界的に名を馳せた発達症候群の人達――いわゆる「天才の域」には


 命花の人並外れた集中力と没入ぶりは、凡人の域から逸脱しており、母親の美琴すら一目置いている。


 「……命花?」


 窓掛けを閉め切った仄闇に、温かなオレンジ色の灯り一本で照らされた部屋で、命花は筆を踊らせていた。

 自作らしき独特な旋律メロディの歌をさえずる命花を囲う、七枚のカンバス。

 カンバスに描かれているのは、あの『後ろ姿の天使』の絵――命花が『エルゥ』と呼び慕うだ。


 白陽に染まり輝く長髪をなびかせ、青緑の森と融け合う両翼を広げている。

 美しい髪と翼から微かに覗かせている横顔は、楚々として美しい。

 淡い桜の唇に咲いた微笑みは、相反するはずの清らかさと艶めきが調和している。

 背を向けて祈り仰ぐ天使の足元を囲い咲く、可憐な瑠璃唐草の色彩が美しい。

 後ろ姿しか描かれたことのない、天使の素顔は知らない。

 昔から命花はこの天使にこだわり、同じ絵を何枚も描き続けてきた。

 今も美琴の存在に気付かないほど、夢中で描いているのも同じ天使に違いない。

 他人の目からは異様なかもしれないが、命花自身と彼女を知る者にとっては「当たり前」の光景だ。

 事件前と変わらず、娘が上機嫌に絵を描いている夢姿に、美琴は胸を撫で下ろしながらカンバスを覗き込んだ。


 「――ママ……? びっくりしたぁ」


 背後まで迫っていた美琴の気配をようやく感知した命花は、肩を跳ねさせながらも無邪気に応えた。

 しかし何気なく振り返った命花は、皮膚がひりつくような寒気を覚えた。

 昔から相手の機微に鈍い命花でも、血を分けた母親の変化には敏感だ。

 微笑みを描いていたはずの唇を、微かにひきつらせている美琴の神妙な表情に、不安が湧く。


 「命花……何を描いているの?」


 母の視線が釘付けになっているのは、ちょうど命花が筆を走らせているカンバスだった。

 軽く見開いている美琴の眼差しに浮かぶ陰りに、命花は疑問を覚えた。


 「エルゥだよ」


 屈託なく答えた命花に、美琴は耳を疑うとばかりに怪訝そうにカンバスを凝視した。

 「そう……」、と力なく応じた美琴は、釈然としない表情のまま用件を話してきた。


 「さとーくんなら、いっしょでもいいよ」


 南雲に端を発する美琴の提案を、命花は笑顔で快諾した。

 命花は本当に嫌な場合は素直に口へ出すか、相手を気遣って本心を隠しても顔に出る。

 幸い、明日から同級生の佐藤と登下校まで行動を伴にすることに乗り気らしい。

 命花の様子に、美琴の瞳から明るい光が灯るのも束の間。


 「あんしん、して。『エルゥ』がから」


 無垢に微笑んだ命花の不可解な台詞に、美琴は凍りついた。

 命花は、昔から空想の存在や夢の話へ深く感情移入する。

 しかし、単なる感情移入を超えた今回の言動は、聞き流せなかった。


 「ねぇ、命花。本当に……覚えていないの? 金曜日の夜のこと」

 「うん、しらない。蜜柑果汁はおいしかった。でも、とちゅうでひまになって、ねむくなったから、。かえるとちゅうで、でたけど、エルゥがまもってくれたよ」


 夢か現か滅裂な言葉の意味を考えようとすると、美琴は目眩に襲われた。

 しかし、命花は嘘をつける娘ではないし、屈託のない眼差しに他意は感じられない。


 「命花……南雲君がお菓子を持って来たから、一緒に食べる?」

 「なぐもくん、きてくれたの? うん! たべる」


 これ以上返す言葉に窮した美琴は、話を切り上げるしかなかった。

 友人の南雲の訪問と好物のお菓子を聞いて、無邪気にはにかむ命花に、美琴は胸が灼けついた。

 数年前まで失われていた命花の笑顔、と幸せを守れたら満足のはずだ。

 なのに、今は何故こんなにも無性な不安に掻き立てられるのか。

 先程の奇怪な台詞が引っ掛かってしまい、娘の幸せそうな笑顔を素直に喜べない美琴の心は曇った。

 美琴の不安を知る由もない命花は、無邪気に微笑みながら、お菓子を食べに佐藤と共に部屋を嬉々と出ようとする。


 青い花……? 


 一瞬、命花の長い髪から青い花びらが零れた気がした。

 理由もなく自分の顔は、緊張に強張ったのが分かった。

 落ちた花びらの行方を追って彷徨さまよう視線は、少しだけ開いた窓へ着いた。

 窓の外には、道端の緑に悠々と咲く”瑠璃唐草”の郡生がふわめいていた。

 たまたま風で舞った花びらが命花の髪を滑り抜け、地へ降り帰ったのだろう。

 何でもない光景で、何故不安に襲われたのか。

 内心自嘲した美琴は、命花と佐藤の背中を静かに見送る。

 命花達が通り過ぎた道端で咲き群れる青い花びらからは、ゼンマイみたいな草は顔を覗かせていた。


 *


 美琴と命花の母娘が一階へ降りた後、部屋には天使エルゥの絵画と中央に置かれた未完成のカンバスが残される。

 爽やかな森林模様の窓掛けは、ふわりっとはためく。

 強い隙間風によって、天使の描かれた画用紙は、舞い踊るように揺れた。


 少女を守る籠城の窓は、施錠されていたにも関わらず。


 暗土色に染まったカンバスに、”二つの黄金色”は朧に浮かぶ。


 大地の深淵から世界を睨む眼のように、爛々と輝いて――。


 

***次回へ続く***

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