第2章―2
「それでは家族会議を始めます」
家族全員でテーブルを囲み、ハルヒコが大仰な声でそう言うと、シュウもカナも遠慮なく吹き出してしまった。ハルヒコ自身も笑いをこらえて自然と顔がにやけてしまっていたからだ。かしこまって、そんなセリフを喋っている自分がおかしかったのもあるが、半分はせめて家族が集まるこの時間を緊張感のあるものにしたくないという思いがあったのだ。
ここは城の主塔一階の奥、ハルヒコ達は使用人らが居住する部屋の一室をあてがわれていた。ベッドが二つとテーブルに椅子、クローゼット、それらが部屋に備え付けられていた家具のすべてだった。
テーブルの上には頼りなく灯るランプが一つ、ぽつんと置かれていた。その明かりはハルヒコ達の顔を照らすのが精一杯で、部屋の隅々まで行き渡ることはかなわなかった。それでもそのランプがあるおかげで、一日の仕事が終わった後、こんなふうに家族が集まってその日にあった出来事を語り合う貴重な時間を持つことができた。今なら分かる、そんな時間を持てたことの贅沢さを。ランプの燃料は使用人の身分では決して安いものではない。それにもかかわらず、自分達にランプを貸し与えてくれた――その心遣いをハルヒコは今もずっと感謝している。
「じゃあ、今日ゲットした言葉を報告するよ。まずはパパさんからね」
最初の頃はまるで何かにすがるように、みんな不安な顔で、その日耳にした「――かもしれない」異世界の言葉をおずおずと持ち寄っていた。それが今では笑顔でテーブルを囲めるほどにまで落ち着きを取り戻している。
「“アタ スクウィーゥデ ブーム……”」
ハルヒコはそう言うと、みんなの顔を見回した。何か気付いたことがないか、顔色をうかがっているようだった。
「“アタ”はよく分からない。その言葉が付いたり、付かなかったりするときもあるんだ」
「そう言われてみると、その最初に付いたり付かなかったりというのは、私にも覚えがあるかもしれない。今度から気をつけて聞いてみるわ」
トウコがそう付け加えた。シュウやカナの方もうかがってみたが、二人ともただ小首を傾げているだけだった。
「それで“スクウィーゥデ”は掃除するとか床を掃くという意味なんじゃないかなと思う。“ブーム”は、ほうき。つまり、ほうきで掃くとか、ほうきで掃除する」
ハルヒコはみんなから何か質問がないか、しばらく間をはかった。
「で、それだけじゃなくて、結構すごいことに気付いたかもしれないんだ」
みんなが身を乗り出して自分の言葉に注意を向けているのが分かった。
「言葉の並びが英語に近いのかもしれない。動詞の後に目的語が来てるんじゃないかなと思う」
そのハルヒコの言葉を、トウコは頭の中で反芻しているようだった。自分が今までに集めた言葉にその推論を当てはめていって、その整合性を確かめているのかもしれない。
その一方で、シュウは遠慮なく顔全体に”はてな”マークを浮かべていた。
「目的語って何? パパさんの言ってること、あんまりよく分からないんだけど」
カナにいたっては、ただニコニコと微笑んでいるだけで、何も考えてないのが手に取るように分かった。
「ごめんごめん。難しい言い方だったよね。つまり、例えば日本語で“パンを食べる”っていうのを、英語では“食べる、パンを”という並びになるんだよ。日本語と言葉の順番が違うんだ。こっちの言葉もそういう並びなんじゃないかってこと」
「えー、ややこしいなー。英語を使ってる人達って、そんなのでよく混乱しないね」
――立場が変われば、その人達も逆のことを思ってるんだよ……。
英語を母国語とする人達からしたら、日本語こそシュウが言ったように、なぜそんなに複雑なんだと感じることだろう。ふと、様々な言語がどのような経緯で成立していったのか、勉強するのも悪くないなとハルヒコは思った。もちろん、それは元の世界に戻ることができたらの話にはなるが。
「そうだね。確かにややこしいよね。でも、もう一つ気付いたことがあって、そっちの方は日本語とすごく似ているんだよ」
みんなが再びハルヒコに注目した。期待を寄せた目で、静かに次の言葉を待った。
「みんな、何か分かる? 何か思いつくことってない?」
ハルヒコがにやにやともったいぶるようなことを口にすると、その場の雰囲気が一気に剣呑なものに変わっていった。
「あのさ、そういうのって本当にいいから。今の状況、あなた分かってるの」
「パパさんって、そういうところあるよね。少し空気が読めないっていうか」
トウコとシュウから遠慮のないダメ出しを受け、ハルヒコは少し引き気味に顔をこわばらせた。
――いや確かにそういうところがあるのは認めるけど……。
そこまで言わなくてもいいんじゃないか――。
しょんぼりしながらカナの方をうかがってみると、ニコニコとあいかわらずただ笑っているだけだった。
――ああ、あの顔は何も考えてない顔だな……。
「ああ、もう悪かったって。分かった。もう分かったから」
パパはそんなことに気付いたのかと、みんなから称賛を浴びるつもりでいたのに、逆に謝らせられることになろうとは……。ハルヒコは皆に聞こえないように小さなため息をもらした。
「ええと、さっき言ったように、日本語と似ているところがあるってことなんだけど。ほら、日本語って動詞の語尾が変化するよね」
「パパさん、また難しい言い方してる。もっと簡単に説明してほしいんだけど」
シュウがまた遠慮なく文句を言った。そして、シュウの言葉に重ねるように――、
「そういうとこ、あるよねー」
不意に、ある人物の口からその言葉が発せられた。
カナだった……。
――あれは、ただ言ってみただけだな……。
んっんーと小さく咳払いをすると、ハルヒコは気を取り直して話を続けた。
「例えば、さっきも説明した“食べる”って言葉だけど、“食べない”とか“食べれば”とか、あと命令するときは“食べろ”って言葉の後ろの方が変わるよね。こっちの言葉もどうやらそんな感じで、同じように変化しているみたいなんだ。パパさんが報告した“スクウィーゥデ”って言葉も“スクウィーノナ”とか“スクウィードゥル”っていうふうに使われているときがあって。まだ、その変化にどんな意味があるのかまでは分からないんだけどね」
説明しながら、ハルヒコは知らず知らず興奮していた。
「じゃあ、今まで違う言葉だと思っていたのが、もしかすると同じ意味だったのかもしれないのね」
トウコはもう一度何かを思い出すかのように黙り込んだ。ハルヒコは待ちきれない様子で話を続けた。
「しかも、もしかすると“食べますか?”みたいに何かを尋ねるときも、そんな感じで語尾が変わるだけで疑問形になっているのかもしれないんだ」
できるだけ難しい言い方を避けようとしていたはずなのに、もうそんな気遣いはハルヒコの頭の中からはどこかに飛んでいってしまっていた。
「その変化するっていうのにも身に覚えがあるけど、ちょっと今はこれって言いきれないかな。また意識して聞いておくね。じゃあ、次は私の番ね」
少しくだけた雰囲気になっていたその場が静まり、いつものように皆が発表者の声に真剣に耳を傾けた。
「私が今日見つけた言葉は“カルゥデ キダチドナゥフ”。“カルゥデ”が切る、“キダチドナゥフ”が包丁だと思う。ううん、絶対にそうだと思う」
ハルヒコやトウコはサムやマロニーの仕事を手伝っていた。強制されたわけではなく――それどころか無理強いされることなど何一つなかった――彼らが掃除や料理といった仕事をしているところに出向いて、身振り手振りでやらせてほしいと自ら申し出たのだ。時には半ば強引に道具を奪い取るようにして手伝ったこともある。それもこれも言葉を覚えるため、この世界の生活や文化といったものを知るため、ハルヒコとトウコが相談して決めたことだった。だが、目的はもう一つあった。自分達がただ世話になっているだけというのが申し訳なかったのもあるが、自分達家族がただの役に立たないお荷物のように思われないようにという気持ちもあったのだ。
「じゃあ、次は僕の番だね。“スゲロ スシァニ ドヌ”で“犬に石を投げる”だよ」
ハルヒコとトウコは口をあんぐりと開けて、あきれ顔を遠慮なく見せた。その表情の意味をくみ取ることもなくシュウはさらに続けた。
「で、“スゲロ スシァニ バリドゥ”で“鳥に石を投げる”ね」
「ちょ、ちょっと待って」
シュウは平然とした顔をして、ハルヒコが慌てていることさえ気付いていない。
「シュウ。お前、いったい今日何してたんだ?」
「え、ただ友達と遊んでただけだよ」
「友達って、ときどき訪ねてくる、あの子どものことだよな」
「うん、そうだよ。名前はまだよく分からないんだけど、一緒に城の中を冒険してるんだ。いろいろ教えてくれるよ。言葉は分からないけど、なんとなくこういうことかなって遊んでたら分かるんだ」
――つまり、犬や鳥に石を投げるような遊びをしてたってことだ。
見ず知らずの世界で知り合いが、それも友達と呼べるような存在ができることは悪いことじゃない。でも、そういう乱暴な遊びをする友達か……。いや、元の世界にいたって、子どもが付きあう友達のことを親があれこれと口をはさむのもどうかとは思うけど……。
――うーん……。
異世界だろうが元の世界であろうが、どんな場所でも親が悩むことは変わらないんだろうなとハルヒコはため息をついた。
今、ここで解決できる問題でもない。いや、そもそも解決できる問題でもないのだろう。親ができることといえば、悩み続けながらも、それでも子どもを見守っていくことぐらいしかないのかもしれない。
「シュウはその友達のこと、どう思っているんだ?」
「いいやつだと思うよ。言葉は通じないけど、なんとなく僕のこと、気をつかってくれているような感じがする。言葉が分からないようなときも、何度も繰り返し言ってくれたり、何かをするときも、僕が分かっていないようなら何度も教えてくれるし。ちゃんとできるまで待っててくれるんだ」
そこまで聞いて、ハルヒコは少し安心した。どうやら、ただの乱暴者ではなさそうだ。
「そうか。でも、まあ……。とりあえず生き物に石を投げるのはやめような」
「分かってるって。本当はしたくなかったんだけどね。断り方が分からないし、やりたくない理由も説明できないし。何もしないと相手も気分悪いかなって。結局、当てないように適当に投げただけなんだ」
「ねーねー。次、カナの番ねー」
まだシュウとの話題がきれいにまとまっていないところに、カナが唐突に割り込んできた。家族ももう慣れたもので、カナの自由奔放な性格は長所ととらえ、できるかぎり彼女の突飛な言動には付きあうようにしていた。
「んーっとね、“ウジェイン”が“風”で、“ソチィル”が“土”だよ」
初めてカナからその日に集めた言葉を聞いたときは、それほど違和感を覚えなかった。自分達も最初の頃は単語ばかりを確信も持てずに集めていたからだ。文章として言葉を聞き取れるようになったのは、ここ最近のことだった。だが、カナは今に至るまで一貫して単語だけを集めてきていた。それもかなり抽象的な意味の言葉を。
「それも、カナが言ってた友達が教えてくれたの?」
「そうだよー」
シュウの友達と呼んでいる男の子は見たことがある。小綺麗な身なりをしていて、挨拶もしっかりとしてくれる。一方、カナの友達にはまだ一度も会ったことはなかった。ハルヒコやトウコが仕事を手伝っていたり、またシュウが遊びに出かけていたり、常に家族が不在のときにその友達がやってくるとのことだった。
「その子は女の子なの?」
「ううん、男の子も女の子もいるよ。みんな、カナよりも小さい子ばかりなの」
城の中でカナよりも幼い子どもを見かけたことはなかった。しかも、不思議に思ったのはそれだけではない。カナがその子達から教えてもらったという言葉についても、彼女が直感的に意味を感じているだけで、正確かどうかはあまり期待していなかった。だが、カナが集めてきた言葉は、他の誰のものよりも抽象的で理解することも難解でありながら、間違った意味でとらえられたものは何一つとしてなかったのだ。
「パパさん、本当にそのカナのお友達に会ってみたいな」
「うん、また今度、パパさんが会いたがっていたよーって伝えとく」
そう言うと、カナは喉の奥までのぞけるような大きなあくびをした。目はもうとろんとして半分閉じかけていた。
この日の家族会議はそこで終わった。二つあるベッドに、ハルヒコとシュウ、トウコとカナとに分かれて潜りこむ。ランプを消すと、目がちかちかするような闇が部屋に訪れた。目を閉じてからも何かを考えなければと思いつつ、思案の一つもできないうちにハルヒコは深い眠りの底へと落ちていった。
このようにしてハルヒコ達家族は、こつこつと言葉を拾い集めていったのだ。不思議なもので、四六時中、異世界の言葉にさらされ続けていると、耳が慣れてきたのか、どんどん正確に聞き取れるようになっていく。そして、それに比例するかのように、ますます新しい言葉を獲得していった――まるで言葉が向こうから寄ってくるかのように。
一月後にはつたない言葉ながらも意思の疎通が図れるようになっていた。この頃からマグダルとの面会でも、自分達の事情――意図せず異なる世界より飛ばされてきたことをかなり正確に伝えることができていた。
思い返すと、この晩に家族のみんなと話し合ったことは、細部を除いてほぼ的を射ていることばかりだった。この日を境に、劇的にこの世界の言葉に対して理解が深まっていったといってもいい。
その後、さらに一月をかけて異世界語をより正確な発音も含めて修得していくことになる。と同時に、誰に強制されたわけでもなく自発的に文字の勉強もしていった。
シュウの友達から、こちらの世界では子どもが読むような絵本を借りてきて、家族全員でその本を取り囲み言葉と文字の対応を議論しながら何度も熟読した。また、紙は貴重だったため、廃材で砂文字板を作り、薄くはったさら砂に木の棒で何度も何度も文字を書いては消してを繰り返した。
この世界の文字に関する詳細は別の機会に譲るとして、簡単にその特徴をあげるなら、まず日本語の表音文字とは異なり、表意文字であったことだろう。つまり日本語の"あ"という文字は"あ"という発音に一対一で対応し表記されるが、これが表音文字である。一方、表意文字は文字と音が一対一には対応しておらず、文字一つ一つに意味が込められている文字を指す。エジプトのヒエログリフのようなものと言えば分かりやすいだろうか。それゆえ、この世界の文字を修得するのは、日本語にしか慣れていないハルヒコ達には困難を極めた。しかも、言葉が活用されて変化するように、文字の形も必要に応じて変化させねばならなかったのだ。
――この世界の識字率が低いのもうなずけるよな。
ともかく、ハルヒコ達家族は大きな努力の末、言葉と文字という、この世界で生きていくための礎を手に入れた。そして、そのことが彼らの生活を次の段階へと引き上げていくことになる。望むと望まざるとに関わらず――。
このときは、まだ気づいていなかった。ハルヒコ達がこの世界の激動の時代に足を踏み入れてしまっていたことを。
――村のみんなにも分かるような表音文字を考えてもいいかもしれないな。
村で子ども達に文字を教えているとき、ハルヒコはのんきにそんなことを考えていた。
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