第1章―4

 シュウは荷物を抱えハルヒコと別れた林の入り口に戻ってきた。先ほど二人で下ってきた道が吸い込まれるように林の中へと続いている。誰も整備した訳でもないのに、人々が歩きやすい場所――木がまばらで平坦な――を選んで何度も通っているうちに、いつしかそこに道と呼べるものが出来ていた。

 林の中は明るかった。シュウの歩みをさえぎるような木立や灌木はなかった。木々は必要以上にその距離をはかり合い、頭上に繁る枝葉の隙間からは適度に木漏れ日が降り注いでいた。まるで一本一本の木々が哲学者のように互いに干渉せず思索にふけっているようで、林の中は静寂に包まれていた。

 この林に足を踏み入れると、その静けさも相まって色んなことを次々と考えてしまう。

 ――初めて村の人達と会ったのもここだったな。

 月日はまだそれほど経っていないのに、ずいぶんと昔のことのように感じる。そんなことを思い出したとき、不意にシュウは眩しさを覚えた。目の前にぽっかりと空間が開いていた。

 その広場は数十名の生徒を一斉に収容できる多目的教室ぐらいの広さがあった。まるで座席のようにいくつもの切り株が均等に並んでいた。

 ――そうだ。ここでみんなに初めて挨拶したんだっけ。

 どうして、林の中でこの場所の木々だけが伐採されているのか、開拓地に初めからいたバルトやヤンガスでさえ知らなかった。彼らがこの地に来たときには、すでにこの場所の木立はきれいに切り出されていたとのことだった。しかも、とても鋭利な切り口で――。

 誰がどんな目的でここにあった木材を必要としたのか、あるいはこの空間を作ることを目的としていたのか、今となっては知る由もない。ただ、村人達にとっては、優しい日差しと涼しい風が通るこの広場は、仕事の合間や一日の終わりにしばし体を休める憩いの場となっていた。また、集会や祭り、結婚式などもこの場所で行われていた。

 ハルヒコが村長として赴任してきたとき、家族全員がこの広場に立って、村人達の耳目が集まる緊張した雰囲気の中、ひとりひとり挨拶をしていった。

「困っていることがあれば遠慮せずに言ってください。みんなで頑張っていきましょう」

 ハルヒコのその言葉に対して、村人達が返してきたのは――ただ、沈黙のみだった。無言というよりは無関心、不安というよりはあきらめの感情であった。

「村長さん。もう用がないなら、我々は帰ってもいいかね」

 一人、また一人と彼らはその場を立ち去っていった。

 そのときの父親の横顔をシュウはよく覚えている。血の気が失せて蒼白となった横顔。期待にあふれてのぞんだ新たな生活の滑り出しを、静かな――しかし手荒い一撃をもって――いとも簡単にくじかれてしまった。

「パパさん、大丈夫……?」

 シュウがそう尋ねると、ハルヒコは頑張って笑顔を作ろうとした。頬の筋肉がこわばって、下手な笑顔だとハルヒコ自身も思わずにはいられなかった。

「まあ、最初からみんな仲良くっていうのは難しいよね。これからだよ……」

 そう家族を励ました。

「あの、村長さん……」

 そんなふうに家族全員が落ち込んでいるとき――カナだけは能天気に笑っていたが――最後までその場に残っていた村人二人がハルヒコに話しかけてきた。

「どこまで話を聞いてくれるかは分かりませんが……」と、村に山積する問題を打ち明けてくれたのだった。

 ハルヒコは一通り村の課題を聞き終えると、その場で彼らに村のために自分を補佐してくれないかと申し出た。それがバルトとヤンガス、今の副村長達であった。

 ――少しずつかもしれないけど、村はよくなっている。それは僕にも分かる。

 シュウは無数に並んだ切り株を避けつつ広場を横切っていった。

 ――それにしても、何度見てもここは本当に教室みたいだな。

 森にあいたこの空間を見るたびに、あらためてそう感じてしまう。最初からその目的のために誰かが用意してくれていたのではと、勘ぐってしまうことさえある。そして現在、実際にこの場所は村の学校として利用されていた。毎日ではなかったが、週に数回、仕事が終わった子ども達にハルヒコが勉強を教えていたのだ。

 こちらの世界では公的な学校という制度はない。そのため、ほとんどの庶民は読み書きができないままであった。計算も簡単な足し算や引き算を――例えば商品の売買などの経験を通して身につけている程度でしかなかった。

 裕福な家庭や貴族であれば子どもに家庭教師を雇うのが一般的であった。だが、そのためには当然高額な授業料を支払わなければならない。畑を耕し、その日一日の生活もかつかつの村人達にとって、子どもに勉強をさせるという発想そのものが欠落していたとしても仕方のないことだった。

 ハルヒコは学びたいと望む子ども達なら誰にでも、文字を教え、計算も教えていった。子ども達に混じって一緒に学びたいという大人達も大勢いた。

 シュウやカナにも、ハルヒコは元の世界の勉強の続きを教えていた。さすがに元の世界の国語や社会はすぐに役立つとは思えなかったので、主に算数や理科を教えていった。ただ、理科に関しては、この世界と元の世界とでは自然の法則が異なっている可能性もあるため、あくまでも元の世界の現象を参考にして、こちらの世界の法則と関連付けていくようにとの注意は忘れなかった。しかし、植物の育成や水の状態変化など、日常の中で感じ取れる自然現象に今のところ元の世界との差異は見当たらなかった。

 ――みんな、勉強ができることをあんなに喜ぶなんて、不思議な世界だよな。

 シュウはそんなふうに思っていたが、それはどんな世界であろうとも勉強できる日常が当たり前だと錯覚している者がおちいる、あまい認識でしかなかっただろう――。

 シュウがその広場を後にしてさらに進むと、徐々にせせらぎの音が聞こえてきた。向こうの木立の隙間から清流がちらちらと見え隠れするようになった。

 「パパさん。着替えと石けん、持ってきたよ」

 そこは村人達が仕事終わりによく水浴びをしている場所だった。岸辺近くの複数の大きな岩が流れを堰き止め、小さな自然のプールができあがっていた。

「ありがとう。石けんだけ先にくれるかな」

 ハルヒコは岸に近づいて、シュウから石けんを受け取った。泥まみれの顔はすっかりきれいになっていた。ハルヒコは風呂上がりのようなさっぱりとした表情を浮かべていた。

「シュウも水浴びするか。気持ちいいぞ――」

 にやっと笑うハルヒコを警戒して、シュウは一歩後ずさった。

「僕はいいよ」

「本当に気持ちいいぞ。シュウだって汗まみれなんだろ」

 確かに剣の稽古で汗をかいて全身はびしょびしょになった。しかもその汗が乾いて衣服も少し臭ってきている。

 ――でも、川の水はまだ冷たいから嫌なんだよ……。

「僕は後で井戸の水で体を流すから、今はいいよ」

 ハルヒコは残念そうに岩の上に置いた服へと手を伸ばした。先程まで着ていた服は川の水で濯がれて、とりあえずは目立った汚れは落ちていた。ハルヒコは石けんを服に擦り付け、くしゅくしゅと泡を立てて洗い始めた。

 ――パパさん、もしかして一緒に遊びたかったのかな。

 父親が村人と一緒にいるときは、村長として毅然とした態度で奮闘しているのが分かる。その場に自分達家族がいても、それは変わらない。

 ――でも、家族だけになると、パパさんは元いた世界にいたいつものパパさんに戻る。

 もしかすると、今はすごく緊張が解けているのかもしれない。

「王子様との勉強はどんな感じなんだ?」

 ハルヒコは洗濯をしながらシュウに尋ねた。シュウは岸辺の岩に腰掛けてハルヒコを眺めていた。

「勉強はおもしろいよ。こっちの世界の歴史とか地理を勉強できるから。でも、帝王学っていうの? あれは聞いていて、自分にはなんだか合わないなって思う」

「パパさんは興味あるけどな、どんなこと教えてもらうのか――」

「王族はどんなふうに振る舞わないといけないとか、何をしてはいけないかとか」

 ハルヒコは服を川に浸して石けんの泡を濯いでいった。元々染みついた汚れは取れようもなかったが、井戸の底にいたときよりはずいぶんと綺麗になっていた。

「王様ってさ、もっと偉そうにふんぞり返っているもんだと思ってた。でも、あれもダメ、これもダメ。謙虚にしてないと、みんなから嫌われる――とか、なんだかみんなを支配しているっていうよりも、みんなに支配されてるって感じがしてくるよ。全然、自由なんてない感じがする」

「そんなふうに気遣ってくれる、この国の王様はいい王様ってことだよ。王様なんてその気になれば、何でもやり放題にできるんだから」

 シュウは遠くを見つめていた。

「僕達にはいいのかもしれないけど、クイール王子にはどうなんだろうね。王子様に生まれてしまっただけで重たい責任を抱えさせられてさ。みんなよりいい暮らしはもちろんできるだろうけど、自分の好きなことを自由にできないし選べない」

「王子様がそうこぼしてたのか?」

「ううん。クイール王子はいつも前向きだよ。優しくて思いやりがある。本当にいい王子様なんだ。だけど、なんとなく分かるんだ。ときどき王子が見せる表情を見ていると」

 ――みんなのために、この国のためにって気持ちはもちろんあるだろうけど……。

 もしかすると、あきらめているのかもしれない――。

「こんな呼び方はよくないかもしれないけど、本当にいい奴なんだ。困ってることがあれば助けになりたいと思う。力になれればの話だけど……」

「元の世界だったら、いい友達になれたのにな」

「今でも僕は友達だと思ってるよ。向こうはどう思ってるのかは分からないけど。あ、もちろん敬語とかはちゃんと使ってるよ。僕の気持ちの上では友達と思ってるってことだから」

 もし元の世界で彼と出会っていたら、どんな毎日を過ごせていたのだろうか。友人として、たあいもない会話をして笑いあったり、バカ騒ぎをしたり、互いに悩みを打ち明けあったり……。

 ――いい親友になれただろうな……。

 元の世界で二人が出会えていたなら――。ハルヒコはそう思わずにはいられなかった。

 服を洗い終えると、ハルヒコは石けんで体を洗い、最後に川の中に飛び込んだ。水飛沫が上がって、シュウのところにもわずかに飛んできた。

「そうだ。伝言があったんだ」

「ん、パパさんに?」

「マグダル様が、明日パパさんに城まで来てほしいんだって」

「明日は城に行く日じゃなかったけどな。何かあったのかな」

「分からないけど、仕事を手伝ってほしいって言ってたよ。パパさん、結構頼りにされてるんだ」

「こつこつと頼まれたことをすることしか、パパさんにはできないからな」

 ハルヒコはそう言ったものの、誰かに頼られる、自分が必要とされている――右も左も分からないこの世界でそんな居場所ができたこと、それは僥倖以外のなにものでもなかった。もちろん、それはハルヒコが元々持っていた知識や知恵のおかげでもあっただろう。しかしなによりも大きかったのは、ハルヒコが決してあきらめようとはしなかったことだった。

 いや、あきらめることができなかったというのが正しいのかもしれない。自分だけなら最悪のたれ死んでも自身の命だけですむ。暗闇の中、寂しいなと思うだけで終わることができる。だが、ハルヒコには家族がいた。自分の命は、自分のものであると同時に、もはや自分だけのものではなくなってしまっていた。早々に一人だけ先に逝ってしまえば、寂しさを覚えるだけではすまない。残された家族の行く末を案じて、永久に続く悔恨の念に苦しみ続けられることになる。

 守らなくてはならない――。

 終われないのだ――。

 ハルヒコはタオルで体をふき、シュウが持ってきた衣服に袖を通した。シュウは川で冷やしていたトマトを取りにいった。

「パパさん。トマト、いいぐあいに冷えてるよ」

 シュウは着替え終わったハルヒコに、みずみずしく熟したトマトを手渡した。

「ありがとう。一仕事した後にこれを食べると生き返るよ。パパさん、絶対にこっちのトマトの方がうまいと思うな」

「甘いよね。野菜というよりは果物っぽい。僕もこっちのトマトは好きだな」

 二人はトマトにかぶりついた。元の世界のものより酸味は弱く、ぎゅっと凝縮された濃厚な旨みと甘みが口いっぱいに広がっていった。

「うん、うまい」

 ハルヒコもシュウも岩に腰かけ、水の流れを目で追いかけながら、しばらくは無言でトマトを頬張りつづけた。

「井戸も一段落ついたし、次は何するかなあ……。シュウは村の人が何か困ってないか、聞いてないか?」

「僕は聞いてないよ。子どもどうしで遊ぶときも、みんなからここが困ってる、みたいな話は出てこないしね」

「みんな遠慮して言ってくれないのかなあ。ずいぶん仲良くなれたと思ってるんだけどな」

 ハルヒコは小さくため息をついた。

「みんながみんな、そうじゃないと思うよ。バルトさんやヤンガスさん達はパパさんのこと信頼してくれてると思う。もし本当に困っていることがあればきっと相談してくれるはずだよ」

「あの二人とは最初から気が合うというか、うまくやれてたからなあ。他の人達とも同じように付き合えるようになれたらいいんだけど」

 ――僕には充分みんなとうまくやれてると思うんだけどな。

 シュウはどうしてハルヒコがここまで悩んでいるのかが理解できなかった。もしかすると自分がまだ子どもだから、人の気持ちを推し量ることができないのかもしれないなと思った。

 ――僕がもう少し成長したら、分かってあげるられるようになるんだろうか……。

 そのとき、シュウは家でトウコがもらした言葉を思い出していた。

「パパさん。村の人達はどうか知らないけど、ママさんはちょっと疲れているかもしれないよ」

 ハルヒコはシュウの方には振り向かず、ただ大きなため息を一つこぼした。

 ――聞きたくないんだろうな……。

 ハルヒコは小さく呟いた。

「元の世界に帰ること……だろ」

「そっちの方も、もっと頑張ってほしいって」

 ハルヒコはうつむいて、しばらく手に持った食べかけのトマトをじっと眺めていた。

「お城にある本で関係のありそうなものを調べたり、いろんな人に聞いてみたり――。情報は集めようとはしているんだけど……」

 実際のところ、いまだハルヒコは何一つとして有益な情報などつかんではいなかった。

「ごめんな……。パパさん、あきらめずに頑張るから……」

 元の世界に帰ることをあきらめた訳ではない。ハルヒコ自身、いつだって戻りたいと願っている。だが、そこに至る一筋の道すじさえ今は見つけることができないでいる。同時に家族のことも守っていかなくてはならない。

 この世界で生きていくために――食べるものがなくひもじい思いをしないように、雨風にさらされ凍えることがないように、その術を見つけていかなければならない。どんなに困難なことでも歯を食いしばってすがりついていかなければならない。家族を守っていくために――。

「シュウも元の世界に帰りたい?」

 今度はシュウが手に持った食べかけのトマトを見つめる番だった。

「――帰りたい、と思うよ。こっちの世界でも、いい人もいるし、楽しいこともあるし。不便だなって思うこと以外はつらいこともないし……。でも、帰りたいとはやっぱり思うよ」

「そっか……。パパさんも同じだよ。みんな帰りたいよな、本当の家に……」

 そこからは二人とも押し黙ってしまった。時間だけがただ静かに過ぎていった。二人を慰めるように、穏やかな優しい風が二人の頬をなでていった。

「ああ、そっか――」

 不意にシュウが声を上げた。ずっと考えていたこと――父親をどうやって励まそうかと考えていたのではない――自分がさっきから抱いていた疑問に対する答えを見つけ、嬉しさのあまり思わずその言葉が口をついて出てしまったようであった。

「どうして、こっちの世界でもそんなにつらくないのか分かったよ」

 そんなことを考えていたのかと、シュウの思いがけない言葉にハルヒコは耳を傾けた。

「パパさんもいるし、ママさんもいる。カナもいる。みんながいるから、僕は――きっと僕達は大丈夫なんだよ」

 救われたような気がした。

 自分はひとりぼっちじゃない――。

 ハルヒコはこの世界に来て、初めて心からそう思うことができた。

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