第16話 土方・5



 ありったけの力を振り絞って、後ろの男に肘を撃ちつけた。ぐらり、揺らいだ。後ろ足で蹴る。怯んだ隙に、男から逃げ出し、廊下を走った。誰かいないのか、声をかけるが、すぐ傍の部屋の一番隊は巡察中、監察方は全員出てしまっている。頼みの綱は、副長室の斎藤だ。刀を貸してくれるだけでもいい。男は、どすどすと猪のように猛進してきた。

 月が顔を出している。振り返ると、男の手には刀が握られていた。斬られる、そう思った。体が硬直する。隊務で命を落とすのは構わない。だが、こんな奴に斬られるのは許せない。そう思えば思うほど、体は硬くなっていくのだ。

 立ち止まった俺に、男の片手が伸びてきた。首を掴まれる。喉仏の辺りに、男の親指がかかった。潰される。固く目を閉じた瞬間、血の匂いが鼻につき、喉にかかった力が消えた。


「大丈夫ですか!」


 斎藤の声だった。目を開けると、倒れた男の背中から斎藤が刀を引き抜いているところだった。腰が抜ける。新撰組の副長がそんな事で、と思うが、久しぶりに恐怖を味わった。理屈では無いのだ。刀を持った大勢の浪士に一人で向かっていくのは平気でも、自分に異常な執着を見せる丸腰の男は怖いと思う。男が持っていたのは、竹光だった。


「しっかりしてくださいよ、どうしたんですかいつもの男気は」

 血まみれの斎藤が、俺の傍に腰を下ろす。男の血のついた手が、俺の頬をぬるりと撫でた。

「…………無理だ。おめぇには一生わからねぇだろうよ」

 体の震えが止まらない。笑った。笑い声も震えている。隣からは溜息が聞こえてきた。手ぬぐいで乱暴に顔を拭われる。

「無事でよかった」

「……うん」

 数人の足音が聞こえてくる。こんな姿を見られてはいけない、しかし、うまく立ち上がれなかった。隊士達の声が聞こえてくると、流石に慌てて立ち上がろうとしたが、初めて立った赤子のようによろよろしている俺の腹に腕を回し、斎藤がそのまま荷物のように小脇に抱えた。おい、やめろふざけんな。頭が冷えて冷静な声が出たが、もう遅かった。


「騒ぎが聞こえたのですが、何かありましたか!」


 灯りを持った隊士達がやって来る。血まみれの斎藤と、抱えこまれた俺、既に屍となっている不審者を見つけて、あッ、と声を出す。


「門番は、何をしていた!」


 斎藤が大きな声で怒鳴った。全員が、直立不動になる。

「……いいよ、斎藤、そんな怒る事ねぇじゃねぇか。こいつらぁ何も悪い事してねぇんだし……」

「あんた自分が今、どれだけ怖い思いしたのか、もう忘れたのか? どれだけ隊士に優しくすれば気が……ッ! 何を笑ってるんですか!」

「ん? いやあ、随分怒ってるな、と思って」

「馬鹿にしてるんですか! それだけ余裕があるなら、もう平気ですね」

 斎藤が俺を乱暴に離した。床に落されて強かに膝を打った俺を、三番隊の隊士達が心配そうに見守っている。懐紙を放り投げた斎藤に手ぬぐいを渡そうとした隊士が、冷たく断られていた。斎藤はそのまま俺達に背を向けて、廊下の向こうに消えて行った。昂る気持ちがわからないでもない。斎藤は、俺に友愛を感じているのだ。上司というよりも、親友だ。それがわかって、口角があがってしまう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る