第38話 お預けを食らっている気分

 四年も待った。

 そう打ち明けるジンの気持ちは巨大すぎて、タクミの頭では飲み込むのに失敗した。


「ご冗談ですよね?」

「こんな冗談、俺が口にすると思うか?」


 タクミはいいえと首を横に振る。


「今すぐお前にキスしたいくらいだ。額にではなく唇にな」


 タクミの体温が一気に一度くらい上がった。

 今日は感情の波が激しすぎて、夏と冬を往復している気分になる。


 でも分からないことが多い。

 ジンほど行動力と人望があって、経済力という面でも申し分ない人なら、もっと早くにタクミを手に入れたのではないか。


「天野がゲイじゃないのは分かっていた。漫画ばかり描いていて、そもそも恋愛に興味がないのだろうと思っていた。言い方は良くないが、金と時間に余裕がないと、恋愛なんて無理だろう。天野は両方とも漫画に投資しているイメージだった」

「なんか……すみません」

「謝るな。とにかく俺は叶わない恋と諦めていた」


 同人イベント会場での出来事は、昨日のことのように覚えている。

 タクミの作品をパラパラとめくったジンが『いいな、お前』といってもう一度めくり、一冊買ってくれた。

 具体的にどこが良かったのか尋ねると、一枚の名刺を渡された。


 あの瞬間からすでに気に入られていたなんて、まだ信じられない。


「卑怯だろう。俺は編集者の立場だからな。自分の権力を利用して、気に入った男を手元に置きたくなった。天野を他の出版社に取られたくなかった。一人前に大人ぶってはいるが、中身は子供なんだよ」

「あの〜、俺がスカウトされた理由って……」

「勘違いするな!」


 ジンは抹茶ラテを一口飲む。


「漫画家の卵として目をつけたのは本当だ。天野の成長を見てみたいと思った。天野の中に光るものがあったからな。それは間違いない」


 不純な動機が一部含まれていた。

 ジンが謝りたいのはその点らしい。


「でも、分かりません。神室さんは学生時代から普通に女性とお付き合いされていたのですよね。なぜ俺みたいな男なんかに興味を?」

「分からない。男なら誰だっていいとは思わない。三十歳くらいの頃、俺は今以上の激務で……」


 ジンは欠点らしい欠点がない男だから、恋人を作ろうと思えばいつでも作れた。

 問題なのは付き合った後だ。


 とにかく仕事が忙しい。

 土日でも急な作業が発生したりする。

 最初のうちは『編集者は忙しいんだね。お仕事頑張って』と理解を示してくれた彼女も段々と冷めてくる。


『仕事と私、どっちが大切なの?』というドラマみたいな口喧嘩に発展する。

 癒しを求めて彼女を側に置いたはずなのに……。


 一人目の彼女だけでなく、二人目も三人目もそんな感じだ。

 勝手に幻想を抱いておきながら、一方的に不満をぶつける。

 互いを傷つけ合う日々にジンは疲れた。


「ことごとく長続きしなかった。彼女たちが俺に求めていたのは、仕事ができて、気遣いが上手くて、土日は楽しくデートできて、お金にも余裕がある男なんだ。そもそも仕事ができる人間なら、俺みたいに馬車馬みたいな働き方はしない。ホワイトな働き方を選ぶ」

「それは業界の構造上、仕方ないのでは?」


 タクミが指摘すると、ジンは優しく笑った。


「天野はいいな。理解がある。俺に対して文句を言わない」

「いえ、恐れ多い。神室さんのこと、勘違いしていました。人生の幸せは何でも手に入れちゃう人だと思っていました。破局しまくった過去に苦しんでいたなんて」

「そうだよ。そんな心の傷を癒してくれたのがお前だ、天野」


 これまでの四年間、ジンは好意をひた隠しにしてきた。

 コミック・バイトでは責任ある立場にいるので、タクミをエコ贔屓したくないのが理由だった。


 タクミの担当編集に新田を任命したのもそれが理由だ。

 ジン自身が担当すると、ライバルよりタクミが有利になるよう援護射撃してしまう恐れがあった。


 ジンは公正な人だ。

 あえてタクミから距離を取り、心のバランスを保つという非情采配を自分に課した。


「だから天野の口から初めて漫画家を辞めるなんて言葉が飛び出した時はびっくりした」


 二作目の『僕は君に二度目の初告白をする』が打ち切り決定したと告げられた日だ。


「俺は天野に成功してほしかった。それと同時に、あの作品じゃ天野の魅力を活かしきれないのも見えていた。かなり迷った末、早めに打ち切るべきという決断に至った。苦しめる意図はなかったとはいえ、申し訳ないとは思っている」

「いえ、神室さんの判断ですから」


 ジンはタクミを慰留した。

 コミカライズを担当してほしいと。

 タクミの作風にぴったりのNL小説であり、引き止める口実としては一石二鳥だった。


「アニメ化も夢じゃない。新田がそういって張り切っていたのを覚えているか?」

「ええ、もちろん。懐かしいです」


 ようやくタクミに花を持たせられる。

 漫画家の育成を大切にするジンにとって、コミカライズは何としても成功させたい一大プロジェクトだった。


 でも目玉作品の方から逃げてしまった。

 K出版の決定にはジンといえども逆らえず、タクミに悪いニュースを伝える時、懊悩おうのうのあまり吐きそうだった。


「神室さんでも吐きたくなるのですか⁉︎」

「ある。重大なミスをやらかした日とか。二十四時間くらい胃が固形物を受け付けなくなる」

「でも、俺の料理は毎日ちゃんと食べてくれたじゃないですか?」

「当たり前だ。天野の料理は別格なんだ」


 ジンが熱っぽい眼差しを向けてきた。


「こんなに天野が近いと、お預けを食らっている気分だ。頬っぺたでいいからキスさせてくれ」


 タクミが答えるより先に抱き寄せられてしまった。

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