第25話 八編 4

 親に孝行するというのは、もとより人たる者なら当然のことだ。老人とあれば他人でも丁寧に扱うだろう。まして自分の父母に対して情を尽くさないはずがない。利益のためじゃなく、名声のためじゃなく、ただ自分の親のため、天然の誠をもって親に孝行すべきである。古来、和漢では孝行を勧める話はとても多く、『二四孝』(海見 中国の親孝行者を二四人集めたもの)をはじめとして著述書を数えるときりがない。この書を見れば十中八、九は人間にはできにくいことを勧めているか、または愚かで笑うべきことを説いているか、ひどいものは理に背いたことを誉めて、孝行と位置づけているものまである。

 晋の王祥(おうしょう)のように寒中、鯉を欲しがる母のために裸で凍った氷の上に寝て、体温で氷を溶かし、母のために鯉を得るなど人間にはできないことだ。晋の呉猛(ごもう)のように貧しくて親のために蚊帳が買えず、自分の服を脱ぎ親に着せ、自分は裸になって身に酒を注いで蚊を誘い、母の身を守るより、その酒代で蚊帳を買う方が智者だろう。漢の郭巨(かくきょ)のように貧しくて食料がなかったので父母を養うために自分の幼児を生き埋めにしようとし、その穴を掘ると天の恵みで地中から黄金の釜が出てきて裕福になった、という話などは問題外の夢物語である。しかもその息子を埋めようとする心は鬼と言え、蛇と言え、天の理、人の情を害するものの極致と言える。どこが孝行か。少し前には不孝に三つあると言って、子を生まないことを大不孝と言いながら、今ここでは生まれてきた子を穴に埋めて殺し、あととりを絶とうとしている。いったいどちらが孝行なのだ。前後が矛盾した妄説である。結局、この孝行の説も親子の上下の分を明確にしようとして、道理もないのに子を責めるものである。その子を責める理由を訊けば、「妊娠中に母を苦しめ、生まれてから三年間父母の腕から離れず、その恩の大きさはどうだ」と言う。そう言うが、子を産んで育てるのは人類だけではない。禽獣もみんな同じである。ただ人の父母と禽獣の違うところは、子に衣食を与える他に、教育して人間社会の道を教えるという一事である。

 それなのに、世間の父母は、子は生んでも子に教えることを知らない。父親たる者は放蕩無頼をして子弟に悪い例を示し、家名を汚し、財産を破って貧困に陥り、そこでようやく遊ぶ気力も衰え、財産が尽きれば放蕩から頑愚に変わり、その時、自分の息子に向かって孝行を責めるとはいったいどういう考えをしているのか。どんな鉄面皮があればこんなひどい恥知らずになれるのか知りたいものだ。父は息子の財産を貪ろうとし、姑は嫁の心を悩ませ、父母の心をもって子供夫婦の身を制し、父母の無理な理屈のみが行われ、子供夫婦の言い分は少しも行われず、嫁は餓鬼の地獄に落ちたように起居寝食はひとつも自由にならない。ひとつでも舅姑の意に逆らえば、それを親不孝と言われる。世間の人もこれを見て、内心では無理と思いながらも自分には関係のないことだから、親の無理な理屈に味方して理不尽にその息子をとがめるか、または世間の物事をよく知っている人の説には、理非を考えず親を欺け、と偽計を授ける者もいる。どうしてこれを人間の家中の道と言えるのか。わたしはいつか言ったことがある。「姑の鑑(手本)は近くにあり、それは若い時の嫁の時にある」と。姑がもし嫁を苦しめようとしたければ、自分が以前嫁だった時のことを思い出すべきである(海見 これは今の嫁姑戦争にも言えることかもね。にしても、この当時から嫁姑戦争はあったんだね! こりゃ嫁姑のけんかはしばらく残るかな)。

 右は上下貴賤の名分から生じた悪弊で、夫婦親子の二例を示したものである。世間でこの悪弊が行われていることは多く、事々物々、人間社会に浸潤しないものはない。なお、その例は次編に記そう。

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