手紙

ひなみ

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 一月一日。学生寮で初めて迎えた新年。年末は炬燵こたつに潜りテレビから流れる騒々しさを背景に空虚の時を過ごした。それは怠惰たいだの極まれり自堕落じだらくな生活。


 一年の計は元旦にあるのだと言う。

 このままではいけないなどと思いながら、しかしながらこの頭はこの手はこの足は、一歩たりとも進もうとした事はなかった。何かを変えたい。変えられるものならば、すぐにでも変えてしまいたい。いつまでもここに居るべきではない。そんな思いは空しく、霧のようなものが僕を包み込み視線を固定させてきた。それはまるで関わりたくないもの、都合の悪いものを見てしまう事がないように。

 恋人などがいるはずもない。そればかりか友人と呼べるような人物も言うに及ばず。いくらか降格して辛うじて顔見知りと呼べるような人間が二人ほどいるにはいる。しかしながら、それはこちらが勝手に思っているだけに過ぎなく、あちらからすればただの賑やかしや数合わせ程度の認識を持たれているに違いない。

 昔から関係が上手くいっていない両親に大見得を切り、この見知らぬ地に出てきた手前、今更助けなど求められるはずもない。

 これまでもこれからも、僕はずっと一人で生き一人で死んでゆくのだ。


 肺から脳へ酸素とともに思考が悪い方向へと循環をしてやまない。そのような中にあってもなお、鬱々うつうつとした負の螺旋らせんを断ち切りたいと、僕は人知れず渇望かつぼうしたのだ。一年の計は元旦。その言葉に両眼は見開いた。普段と違う事をしようと思い立ち上がった末に、この寮の近くを流れる河川敷に足を運ぶ事にした。


 寒風吹きすさぶ川岸に腰を落とし、じっと水の流れを見つめている。すると、僕はなぜ川辺に住まう生物に産まれなかったのだろうかと、はなは滑稽こっけいな思想に囚われ始める。

 それを鼻で笑い飛ばしいつものように心を落ち着けた矢先、遠くの方――川の中で何かがキラリと光った。魚か何かだろうか、あるいはぞんざいに投げ捨てられたゴミ同然のようなもの。深く考えずとも取るに足らない物に違いないのに、それが何なのかが気になって仕方がなかった。


 流れ来つつあるそれを、冬の水の冷たさも忘れ迎え入れようと両手を伸ばした。それだけでは足らず結果両脚までも突っ込み、幸い浅い水深ではあったがすぐに服は水浸しとなった。始めこそは上手くいかなかったものの徐々に要領を得てきている。コツンと、何かが爪が当たるような感覚がする。それが流されてしまわないように体でせき止めつつ幾度目かの挑戦の後ようやく掴み取る事ができた。

 拾い上げたそれは小振りのガラス瓶だった。口にはコルクのふたが、よく見るとその中には紙切れのような物が入っているようだ。

 気付けば体は凍えているかのように小刻みに振動を繰り返している。このままでは風邪を引いてしまうだろう。まずは体を温めようと狭い寮の一室に戻り、然る後、その中身を確かめるべく蓋を引き抜いた。


『この手紙を読んでいる方がもしも、いらっしゃるのなら。よろしければ下記の住所までご返信頂けないでしょうか。わたしはお話がしたい。あなたはどのような方ですか。好きな物や事はありますか。何を見て笑い、怒りを覚え、また哀れみ、そして涙を流しますか。たった一文でよいのです、お話を。どうかお返事をくださいますよう。――咲良さくら


 うっかり手紙を読んでしまってから、悠に二日は経過しているが未だ半信半疑のままだ。あれはきっと人を騙し嘲笑う目的の類の文書なのだろう。仮に返信したところで悪意を持った何者かが僕をこっぴどくけなすのだ。

 しかしながら好奇心とは恐ろしいもので、仮にこれが事実なのだとすればこの咲良と言う人物は何故このような形で、見ず知らずの人間にこういった質問を投げかけてきたのかを知ってみたいと思うようになっていった。

 つまるところ、僕は穴が空くくらいそれを何度も読み返していくうちに、ただの悪戯のような物には思えなくなりつつある。どこか切実な訴えのような、あるいは苦悩や葛藤がこの綺麗な文字列に含まれている気がしてならない。

 日によっては朝から深夜まで一心不乱にああでもないこうでもないと、近所の文具店で購入した簡素な手紙用紙のいくつかを駄目にしつつ、とにかく返事を綴った。ふと思うと手紙を書くのは、そればかりか誰かに向けて思いを馳せるのは初めての事のように思える。一月の半ば頃の早朝、ようやく仕上がった便箋を近所の郵便ポストに人知れず投函した。


『手紙を読みました。僕は烏丸圭一からすまけいいちと言います。こういったものを書くのは初めてなので変な所があるかもしれません。僕は都内の大学に通っている今年二回生になる者です。なかなか目標というものが見つからず無為に日々を過ごしています。信頼のおける繋がりが持てず感情の動く事もあまりないように思います。何だか、自分の事を思い返す度に、自分は何てつまらない人間なんだと頭を抱えてしまい眠れない日もあります。ごめんなさい。面白い話ができなくて。不快に思われたならこんなもの、燃やしてしまってください』


 夜の帳が下りつつある夕暮れ時、僕は寮へと伸びる帰り道にいる。思い返せばあれは単なる一方的な独白に過ぎなかった。理解をしていた。少なくとも対話などと呼べるような高尚な代物ではなく、当然返事などが来るはずもないだろう。僕はいつもこうだった。とうに理解をしていたはずだった。それでも、少しだけこの心が軽くなったような気がしたのは確かだった。

 何者かも知れない咲良さんに申し訳ないと謝りながら、体のすべてが溶けて原型がなくなっていくように、今夜は深い眠りに落ちる事ができた。

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