はなのごはん

ユト (低浮上)

前編

 白戸百合子は、太っている。

 三十代もまだ辛うじて前半だというのに、肌のハリは既にない。それどころか、口周りには小さな吹き出物が出ていた。


 黒縁の眼鏡を掛け、艶のない髪をいつも後ろで一つに結ぶ。ゴミ出しと最低限の食料を確保すること以外、家から殆ど出ることがない彼女は、前髪からひょろりと出来た二本の白髪を気にすることもなかった。


 狭いアパートの一室で、彼女は朝起きてから眠るまで、パソコンのモニターに向かい、ネット上で受けた仕事をツラツラとこなす。

 そんな代わり映えのない日々を過ごしていた。



 夕方も終わり、夜が始まる頃。

 仕事が一区切りついた百合子が珍しく窓を開けると、美味しそうな匂いが彼女の鼻腔を擽った。

 近くの住人がご飯でも作っているのだろう。

 窓から離れようとしたとき、階下から若い女の声が聞こえてきた。

「ありがとうございました! また、どうぞ! お待たせしました、お次のお客さまは、」


 その声に釣られるように、百合子が重たい体を少しだけ窓から乗りだすと、街頭の白い明かりに照らされた数人がまちまちに去って行くのが見えた。手には、皆一様にビニール袋をぶら下げている。

 どうやらテイクアウトもしている、何かの飲食店が出来たらしい。


 確かに工事の振動や騒音は聞こえていたが、全く興味を持っていなかった百合子は、「ああ」と納得するように小さく声を出した。

 匂いで刺激されたのか、彼女の腹がキュルキュルと鳴る。


 百合子は面倒臭そうに、部屋の隅に設置された台所に向かった。

 腰を屈めて戸棚を開け、山盛りになったカップ焼きそばと固形栄養食から、いい加減に二つ掴む。

 暫くの間、じっとパッケージを眺めていた彼女だったが、少し天井を見上げた後、手に持っていたものを元の山に戻した。

 パタンと戸が小さな音を立てて閉じる。


「偶には、ちゃんと食べてみようか」

 百合子の足が窓辺のパソコン机に向かった。

 常にキーボードの横に置いてある、何年も前に母から貰った端の擦り切れた財布を手に取った彼女は、ダボダボのズボンのポケットに入れる。

 チリンと鈴が鳴る音が、今日は妙に軽快に聞こえた。



 トントントンと、暗い階段を降りる。

 一階の軒先には、幾つかのライトが飛び出ていた。新しく出来たばかりだというのに、どこか古臭い印象を受ける。

 昭和レトロと言われる花が二つ、端に描かれたオレンジ色の看板が淡く照らされていた。

 看板の下には、本日のメニューと思しき短冊が幾つも並んでいる。可愛らしい手書き。特にお勧めなのは、花丸が付いているようだった。

 ショーケースには、二十は超えるだろう彩鮮やかな惣菜が並んでいる。


「『はなのごはん』……」


 百合子が看板を読むと、年老いた男に声を掛けられた。

「アンタ、はなちゃんのメシを食うのは始めてか?」

 ビニール袋をぶら下げた老人と目が合う。突然話しかけられた百合子は、一瞬驚いた顔をするも、直ぐに無表情のまま「はい」と答えた。


「そうか、そうか。俺は、もう、出来てから毎日通ってるんだけどよ。花ちゃんのメシは美味いぞお。カミさんのメシを思い出す」

「そうですか」

「特に、竜田揚げとコロッケが美味い。漬物も美味くてな、白い飯とかっ込むと、今日も頑張ったって気になれるんだよ」

 老人がニッと笑った。ライトに照らされて、男の銀歯がキラリと光る。

「そうなんですね」

 百合子が曖昧に頷くと、老人の腕を横に居た年老いた婦人が引っ張った。


「ちょっと、アンタ! 女の人を捕まえて何してんだい! ごめんねえ、悪いねえ」

「ああ、いえ。大丈夫です」

「俺は何もしてねえぞ? この人が、はなちゃんのメシを食ったことないっていうから、美味いのを教えてやっただけだ」

「そういう問題じゃないんだよ。ほら、行くよ」

「へいへい。じゃーな、嬢ちゃん。美味い飯を食えよ」


 薄い頭を掻いた老人は、グイグイと婦人の細い腕に引っ張られるように遠ざかっていく。嬢ちゃんと言われる歳ではないなと百合子は思ったが、それよりも気になることがあった。


「あの」

 百合子の声で二人が止まる。

「ん?」

「そちらの方は?」


 男の目が大きく見開いて、横に居る婦人と百合子を見比べた。それから、立てた親指をクイっと女に向けて、ニカっと笑った。

「ウチのカミさん。いい女だろう?」

「何言ってんだい!」

 夫人が照れたように、老人の背を叩く。「痛えよ、痛えよ」と言う男は、どことなく嬉しそうだった。


 さっきの会話は何だったんだ。

 そう思った百合子だったが、何となく楽しくなって、二人に手を振る。

「どうぞお幸せに」

「ありがとよ」

 へらへらと男が手を振る横で、夫人は申し訳なさそうに頭を下げて去って行った。



 面白い人もいたもんだ。

 そう思いながら店の方へ振り返ると、若い女と目が合った。白とオレンジのチェック模様のバンダナを、三角巾のようにして頭に付ける姿がよく似合っている。オレンジのエプロンも可愛らしい。

 あの老人と話している間に、他の客は引けたようだった。ただ一人の客となった彼女にただ一人の店員の視線が向いている。

 百合子はどうにも居た堪れない気持ちになって、くるりと店に背を向けたときだった。


「あの!」

 若い女の声が自分に投げられた。無視すると言う選択肢は百合子にはなかった。

 だが、まともに顔を見る程の気力もない。

 結果、間を取った形で、百合子は顔だけを振り向いた。


「今、何色の気分ですか?!」

 突拍子もない店員の発言に、百合子の目がぱちくりと丸くなった。

「色、ですか?」

「何かを食べたい時に色が浮かぶことってありませんか? 赤はスタミナとか! 青はさっぱり系で、ピンクは甘くて幸せなデザート、みたいな!」


 小さな身振り手振りで説明しようとする彼女は、恐らく、否、間違いなく慌てていた。

 黒縁眼鏡の奥でまん丸とした瞳で店員を見つめていると、店員はみるみるうちにシュンとしていく。


「すみません」

「ああ、いや。私の方こそ、凝視してすみません。でも、そう言う風に考えたことがなかったですね」

「やっぱり、そうですか? あんまり理解されたことないんですよね」


 店員が下を向いたまま、恥ずかしそうに笑った。

 顎に手を遣った百合子の目が閉じる。

「まあ、分からないですけど……今は、優しい緑って気分です」

 若い女はパッと顔を上げて、破顔した。

「優しい緑ですか! それでしたら」

 そう言って続けようとする店員を百合子は遮った。


「あの、八百円くらいで、なんか見繕って貰うことは出来ますか? あんまり食べることに執着がなくて。何が良いって言われても、分かんないんです」

「え?!」

「こう言う見た目なんで誤解されるんですけど。基本的には、お腹さえ満たせれば何でも良いんです。ただ、今日は良い匂いがしたんで、ちゃんとご飯を食べようかなと」

 百合子は無表情でパーカーの上から自分の腹を撫でた。


 店員が慌てたように手を突き出して横に振る。

「違うんです! ごめんなさい。食べることに無頓着な方を初めて見たので、驚いてしまって」

「ああ、別に何でも良いですよ。今更気にすることでもないですし」

 申し訳なさそうに眉尻を下げる店員に、百合子は頬の筋肉を持ち上げて笑いかける。


「千円になっても構わないんで、おすすめをお願い出来ますか?」

「はい、勿論です! 苦手なものとか、アレルギーはありますか?」

「アレルギーはないんですけど、辛いのとか苦いのは苦手ですね」

「わかりました!」


 笑窪の出来た若い女が中腰になる。ショーケースの向こうで惣菜と睨めっこを始めた店員から視線をずらした百合子は、ぼんやりと空を見ていた。

 冬のように澄んではいないが、花の香りとにごりの混ざる空気も悪くない。何よりも美味しい匂いが堪らない。


 待つこと十分足らず。

 トンという小さな音と共に、ふっくらと四角く広がった白いビニールがショーケースの上に乗った。

「お待たせしました! はなの幸せクローバーセット、八百六十四円です!」

「『はなの幸せクローバーセット』?」

「はい! 柔らかな緑からイメージして、名前を付けてみました」

 満足そうに胸を張る店員はなんとも愛らしい。


 百合子はズボンのポケットから財布を取り出して、千円札を抜き取った。

「良い名前だと思います。千円でお願いします」

「ありがとうございます! 千円いただいたので、お釣り百三十六円になります。おかずはパックのまま一分くらい温めてから、食べてみてくださいね」


 銀と銅の小銭が百合子のふっくらとした手の上で音を鳴らす。小銭入れに仕舞い、財布をねじ込むとビニール袋を掴んだ。

「おまけのラムネも入れておいたので、食後に召し上がってくださいね。またお待ちしています!」

 百合子がペコリと会釈すると、若い女性はにこにこと小さく手を振った。

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