図書室の魔法使い

伏谷洞爺

第一話 ストーカーに物申す!

 私立詩風中等学校は、僕の通う白川中学校とは目と鼻の先にあった。

 詩風中学等学校――略して詩中はいわゆる名門お嬢様学校という奴だ。

 通っているのは旧家士族豪農を祖先に持つ、由緒正しいお金持ちのご息女のみ。

 最近では、少子化の煽りを受けて男子も受け入れようという声もあったとか。

 けれど、それも立ち消えになって久しい。

 まあいずれにせよ、僕には関係のない話なのだけれど。

 ではなぜ、こんな話を始めたのかと言えば、それはつまり、今回の事件の発端が件の詩校にあるからである。

 いや全く、これが迷惑千万な話なのだ。

 では、ご清聴いただこう。僕たちを巻き込んだ、この迷惑話の顛末を。

 

 

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 それは、僕がまだ白川中学校に入学して間もなくだった。

 僕は割と、クラスの中ではうまく立ち回っている方だと思っていた。と言うか実際うまくいっていた。

 友達とも呼べないような、ただの知り合い以下のクラスメイトと、あたりさわりのない会話を繰り返し、無為な時間を過ごす。

 僕は実は読書家、ということになっているので、昼休みになれば教室を離れて図書室へと向かう。

 けれど、実際にあまり本は読まない。

 全く読まない、と言うほどではないけれど。有名な本や近年ベストセラーになった本くらいは読む。

 「人間失格」とか「羅生門」とか「舞姫」とか。あとは「五〇分の花嫁」に「無職〇生」などなど。まあそんな感じでざっくばらんに色々と。

 とはいえ、読書家と呼べるほど読書に時間もエネルギーも使ってはいない。

 読書は僕にとって時間をつぶす暇つぶしでしかないのだから。

 しかし、この読書家というレッテルは僕にとって好都合だった。

 なにせ教室にいなくてもいいし、話題にはこと欠かない。

 それに、オタクというのは存外話し相手、というか一方的に話を聞いてくれる人間を常に欲しているので、僕は一言もしゃべらなくてもよかったりする。

 そして何より、図書室は静かなのでいい感じだ。うたたねするのに。

 なので僕は、図書室ではもっぱら昼寝をしていた。

 本の情報はネットからざっと拾える時代なので、正直読んでも読まなくてもいい。

 そう言う意味では、テクノロジーの進化というのは怠け者たる僕にはありがたい限りだ。

 が、最近はそうでもなくなった。

 僕が図書室に通うようになって五日が経ち、いい具合の日の光があたる場所を見つけた頃。

 僕の隣にすとんと腰を下ろしてくる人間が現れた。

「あの……あなた、本が好きなの?」

 少し歯切れの悪い、けれど優しい声音でそう問いかけられた。

 僕はそちらへと顔を向ける。と、話しかけてきたのはやはり女子だった。

 その女子は僕と目が合うと、すぐに視線を逸らしてしまう。そして、すっと手にしていた本で顔の下半分を隠してしまっていた。

 恥ずかしがり屋なのだろうか。しかし面倒な。

 持っているのは、聞いたことのない名前の作家の本ばかりだった。

 誰だ、司馬遼太郎って。

 一番手前にあった本の作者が目に入る。その司馬なんとかの本を合わせて、四冊の本を彼女は持っていた。

「えっと……まあそれなりに」

 こんな女子、クラスメイトにいただろうか?

 僕は記憶を探りながら、同時にじっとその女子を見詰める。

 いかにも気弱そう……というか頭の弱そうな女子だった。

 今時三つ編みに黒縁の眼鏡って。どこの文学少女だ。飢え乾いてんのか?

「ほんと! どんな本を読むの?」

 その女子は僕の返事を聞くなり、ずずいっと体を近付けてくる。

 その瞬間に僕は思ったわけだ。ああ、この手の手合いか、と。

「まあそれなりにいろいろと。でも、その司馬遼太郎? は読んだことないな」

「司馬遼太郎大先生を呼んだことない!」

 その女子は信じられない、と言った様子で目を見張っていた。いや、そこまで驚かんでも。

 あんただって、この世の全ての本を読んだわけでもないだろうに。

 その後、その女子は司馬遼太郎とかいう作者とその作品群について、懇切丁寧に、熱を込めて語ってくれた。

 が、僕はその半分も、記憶に留めておくことはできなかった。

 それが、僕と神谷雫の出会いだった。

 

 

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 神谷雫が先輩だとわかったのは、それから一週間後のことだった。

 僕は担任の皐月亜里先生に呼び出され、職員室へと向かった。

「真壁。真壁陸」

「ええと、何でしょう?」

 なぜ今、二度名前を呼ばれたのだろう? という僕の疑問には答えてくれそうにないので、飲み込んでおく。

「おい真壁。お前、最近雫と仲がいいらしいな」

「雫? ああ、神谷のことですか」

「それも礼節をわきまえないほど親しい間柄じゃないか。先輩に対して偉そうな口の利き方をしているらしいな」

「いやそれは……へ? 先輩?」

 僕は一瞬、皐月先生の言っていることの意味が理解できなかった。

 ええと、誰が先輩だって?

「先生。皐月先生。先生は今、何とおっしゃいましたか?」

「雫はお前の先輩だ。二年生だぞ。態度には気を付けろ」

「二年生……あの三つ編み黒縁眼鏡の小柄で頭の弱そうな御仁が?」

 スパンッと頭を手にしていた紙束で叩かれた。

 紙とは言え、束だとそれなりに痛い。

 僕は頭を押さえ、その場に蹲る。皐月先生の馬鹿力も相まって、非常に利く。

「ええと……その件に関しては僕が間違っていました。以後気を付けます」

「よろしい。そのようにしてくれ。運動部のようになれとは言わないが、ある程度礼儀節度は守ってもらわなければならんからな」

「は、はい……」

 僕は頭を押さえたまま、顔を上げる。

 と、しゃがみ込んだままの姿勢だったから、僕の目の前には皐月先生の膝頭があるわけで。

 つまり、その先に先生のタイトなスカートがあり、そして更にその奥には。

 などと考えて、自分の顔が熱くなるのを感じた。

 再びスパンッと子気味よい音が僕の頭から響く。

「いつまでそうしてるつもりだ。貴様は変態か?」

「い、いえ、滅相もございません」

 僕はすぐさまに立ち上がり、直立不動の体勢を取る。

 いや、あのままスカートの中身が見れていたりしたら、僕は半殺しにあった上に変態の汚名を着せられるところだった。

 危ない危ない。

「それで、皐月先生。なぜ僕は職員室に呼び出されたのでしょう?」

 まさか、神谷……先輩の件に関して注意するためだけに呼び出されたというわけでもないのだろう。

「ああ、それなんだがな」

 皐月先生は立ち上がった。「ちょっと待ってろ」とどこかへと姿を消す。

 僕はといえば、待てと言われたからには待つより他になく、ぼーっと皐月先生の消えていった方を眺めていた。

 すると、すぐ側でひそひそと声を潜めて話し合う二人の声が聞こえてきた。

 ちらりとそちらへ視線をやる。確か、体育の小田先生と家庭科の林先生だ。

「小田先生、聞きましたか? 例の魔法使いの話」

「魔法使い……ああ、生徒たちが噂している、あれですね。真っ黒な格好をした、髪の長い女性だとか。または女装した男性だとか」

「その通り。そして昨夜、その魔女だが魔法使いだかがまた現れたらしいんですよ」

「確か、不吉な予言をして去って行くって話でしたね」

「その予言に出くわして、怪我をした生徒も大勢いましてね。昨夜は難を逃れたらしいですけれど」

「まあ怪我とはいえ、かすり傷だったりちょっとした痣ができたり、大したことはないんでしょう? だったら……」

「そうなんでそうけれど。今はよくても、その内大怪我に発展するかもしれないじゃないですか」

「それは……まあ可能性としてはあるでしょうな」

「そのことで、今度職員会議を開くそうです。何でも、魔女対策を講じるとかで」

「うえ、本当ですか、それは。警察は?」

「一応連絡したそうですが、事件性が皆無だとかで取り合ってもらえないらしいんですよ」

 と、まあ大体こんな感じのことを話していた。

 ひそひそと話している。少なくとも本人たちはそのつもりのようだけれど、案外と大きな声だった。

 それにしても、魔法使いか。魔女とも言っていたな。

 この科学の発展した、テクノロジーを駆使した便利グッズが横行する世の中にあってそんなもの。なんというか、時代錯誤もいいところだ。

 僕は小田先生たちから視線を外す。と、皐月先生がちょうど戻ってくるところだった。

 コツコツとヒールを鳴らして、こちらへと歩いて来る。

 その手には、一つの箱と先ほど僕をひっぱたいた紙束が握られていた。

 

 

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 きっと、お父さんや従兄の政信兄さんに言わせれば、皐月先生は美人なのだろう。

 少々きつそうな印象を与える切れ長の目許とすらりとした細身。けれど決して痩せぎすと言うほどでもない体型をしている、のだと思う。

 けれど、それも見た目だけを言うのなら、という話だ。

 性格は捻じ曲がっているというより他なく、誰彼構わずすぐに頭を叩くのだから始末に負えない。言葉使いも本人は気を付けている様子だが、あまり奇麗とは言い難い。

 あれで教師だというのだから、教職と言うのは意外と楽なのかもしれない。

 などと思いつつ、僕は皐月先生から手渡された箱と紙束を手に、図書室へと向かうのだった。

 時刻は放課後。僕は扉を開け、中に入る。

 と、いつもの陽光が差し込む窓際の席に、件の先輩はいた。

「真壁君。こんにちは」

 にこっと、黒縁眼鏡の奥の瞳が細められる。

 僕は挨拶を返し、先輩の前に席を求めた。

「ええと……まずは今まで、失礼なことを色々言いまして」

「え? えっと……どうしたの?」

「いえ、実は先ほど、皐月先生からお叱りを受けてしまいまして。あの……神谷、先輩が先輩だったと」

「うええ! 知らなかったの?」

「まあ、そうですね」

 それだけ小ぢんまりとしていたら、そりゃあわからないよ。

「んー……まあわたし、自分で言うのも何だけど小柄だからね。しょうがないよ」

 えへへ、と神谷先輩は笑顔を向けてくる。

 初めて会った時もそうだったのだけれど、この人は優しい。というより甘い。

 後輩が失礼な態度を取ったら叱るものだろうし、現に僕は皐月先生に叱られた。

 本当なら、神谷先輩から何かしら一言あってもよさそうなものだけれど。

「それにほら、うちの学校ってあんまり見た目で学年がわかるようなものってないしね」

「えっと、まあそうですね」

 僕は神谷先輩の制服と自分の制服を見比べる。

 そこには、男子服と女子服の違い、以外には何も見受けられなかった。

 普通なら、三年生は赤、二年生は青、一年生は緑、などとパッと学年の見分けが付くようなものがあってしかるべきだ。

 けれどうちの場合はそんなものはなかった。

 もしあったら、僕は皐月先生に頭を叩かれなかっただろう。理不尽だ。

「それで、それは何?」

「ああ、何でも皐月先生からこれを渡してくれと頼まれまして」

「わたしに? 何かな?」

 僕は箱をテーブルに置き、神谷先輩の方へと差し出した。

 先輩はその箱は上から下から横から斜めから覗き込んで、入念に見分していた。

「……何これ?」

「いや、僕も詳細は知りませんよ。ただ渡してくれと言われただけで」

「そうなんだ。じゃあ」

 神谷先輩は慎重に箱の封を解き、ふたを開けた。

 さて、中からぼわんと煙が出て、神谷先輩がおばあさんになったりしないだろうか。

 それとも、いんちきおじさん登場?

 いずれにしても、大騒ぎ間違いなしだ。

 僕はそんなことを考えながら、神谷先輩を見守っていた。

 僕の位置からでは、ふたが邪魔で箱の中身はわからなかった。けれど、神谷先輩の神妙な面持ちからするに何か先輩に取って重要なことのようだ。

「えっと、これをおね、皐月先生から?」

「はい。あと、これも預かっています」

 僕はにっくき紙束を先輩に渡す。神谷先輩はそれをぺらりと一、二枚ほどめくり、ふむと息を吐いた。

「わかりました。確かに受け取りました。ありがとう、真壁君」

 にこっと神谷先輩が微笑む。少しだけ首を傾ける仕草に合わせて、おさげが揺れた。

 僕は何だか気恥ずかしくなって、顔を逸らしていた。

「ど、どういたしまて。それで、あの……それが何か訊いてもいいですか?」

「あー、ええとねえ」

 神谷先輩は言葉を探すように視線を泳がせる。どうやら困らせてしまったようだ。

「いえ、言えないんだったらいいんです。すみません」

「んーん。まあわたしの家のことだから。ごめんね」

 神谷先輩は申し訳なさそうにそう言うので、こっちが恐縮してしまう。

 だから、言えないのならいいんだって。

「えっと、それで先輩、今日は何を読んでいたんですか?」

「ん? ああ、えっとねえ」

 僕が話を変えると、神谷先輩は傍らに積んでいた本の山を目の前に持ってくる。

 京極夏彦。夏目漱石。谷川流。逆井卓馬。

 知っている作家、知らない作家がやはり混在していた。

 名前は知っているが、作品は読んだことがない、というものも多い。

 京極夏彦なんかは、割合有名だと思う。けれど、一冊一冊が非常に分厚いので手に取るのはためらってしまうのだ。

 僕はそれほど読書が好き、とうわけでもないし。

 けれど嫌いというわけでもない。ので、こうして神谷先輩から本の話を聞くのはまあ悪くない時間の使い方かもしれない。

 一見すると無為に思える時間の使い方も、青春の一ページということなのだろう。

 と、僕が先輩の話を聞いていると、図書室の扉が開く音がした。

 先輩は話を止め、身を固くする。誰が入って来たのだろうと僕は振り返った。

 図書室の入り口で、肩を激しく上下させて息を整えていたのは、見知った人物だった。

 肩口で切り揃えられた髪。大きくて活発に動く瞳。

 背丈はそれほど高いわけではないが、姿勢がいいからか大きく見える背丈。

 同年代にしてはやや発達のいい胸部。これは皐月先生に怒られるな。

 可愛らしい見た目と優しく愛嬌のある言動で周囲から愛されキャラとして定着しつつあるクラスメイト。

 息を切らせて入って来たのは、春日井姫だった。

 走って来たのか? なぜ?

 彼女には、それほど本好きというイメージはない。教室でも、読書をしている様子を目撃したことはなかった。

 そんな春日井さんがなぜ、それほど切羽詰まった様子で、さながら全力疾走をした後のように息を整えているのか、それが謎だった。

「ふー」

 春日井さんはひとしきり肩を上下させ、深呼吸を繰り返している。

 ようやく乱れた息が整ってきたらしい。僕を見付けると、ハッと目を丸くした。

 そして、恥ずかしがるように視線を逸らしたが、すぐに戻してきた。

 ばっちりと視線がかち合う。交差する。

「やっほ。真壁君、ここにいたんだね」

 にこにこと微笑みつつ、歩み寄ってくる。

 なんだろう、この違和感は。何かよくない感じがする。

 けれども、そのよくない感じが何のなのか、わからなかった。

「えっと、春日井さんこそどうしてここには?」

「あたしは……ええと」

 春日井さんは言い訳を探すように中空に視線を彷徨わせる。

 くるくると指先を回す仕草は、ロード中のコンピュータのようだった。

「あたしは……本を読みに」

「へー、意外だね」

「意外って……確かにあんまり本、読まないけれど。全く読まないってわけじゃないんだよ?」

「そうなんだ。どんな本を読むの?」

「ン? えっとぉ……まんが、とか?」

 まあそんなところだろうと思った。別に漫画を軽視しているつもりもないので、あまり深く突っ込まないことにした。

「でも、ここの図書室って漫画ってないよ?」

 ライトノベルは割と充実してるんだけれど。不思議だ。

「え? そうなの?」

「あるのは『裸足のゲン』とか『火の鳥』とか『ドラえもん』とか」

「へえ……詳しいね」

「ああ、先輩に教えてもらったんだ」

「先輩……どんな人?」

「どんなって……」

 僕は背後で小さくなっている(ただでさえ小さいにもかかわらず、だ)先輩を紹介した。

「この人。神谷先輩」

「……せ、先輩? この人が?」

 ふふ、驚いてる驚いてる。

 まあ先輩は小さいしね。どちらかと言うと後輩と言われた方がしっくりくる。

 僕たち、一年生で一番下の学年だけれど。

 僕に名前を呼ばれたからか、先輩はびくっと全身を震わせた。

 大判の本に顔を隠し、ちらりと春日井さんを見ている。

「こ、こんにちは、神谷先輩」

「こ、こここここにんちは!」

 春日井さんも緊張した様子だったが、神谷先輩もだいぶアガッてしまっているようだ。

 先輩はかなり重度の人見知りだらか無理もないか。

 僕の時には、割とぐいぐい来たはずなんだけれど。

「んー、んん? んんん? んー」

 神谷先輩は眉間に皺を寄せ、小首を傾げていた。

 じっと春日井さんを見詰めて、というより凝視して、何かしきりに唸っている。

「え、ええと……どうしたんですか、先輩?」

「ん、ちょっとね。春日井さん、でいい?」

「は、はい。神谷せんぱい」

 春日井さんはどこか嬉しそうに、神谷先輩に応じる。

 そんな春日井さんの反応が苦手なのだろう。神谷先輩は更に肩を縮こまらせた。

 おまけに、ずいっと春日井さんが先輩に顔を近付けるものだから。なおのこと先輩は委縮してしまっていた。

 目の奥がぐるぐると回っている。あれは頭の中もぐるぐるしちゃってるはずだ。

「あ、ああああの、えと、そのえっと……」

 そろそろキャパシティーオーバーかな。

「先輩、そろそろ下校時刻ですよ」

 僕は助け船を出すべく、時計を指差してそう言った。

 すると、先輩と春日井さんが一斉に僕の指差す先を見やる。

 時刻はそろそろ五時に差しかかろうとしていた。僕は構わないが、女子である神谷先輩と春日井さんは何かとうるさいだろう。

 僕の提案に、最初に乗ったのは案の定神谷先輩だった。

 助かったとばかりに席を立ち、それまで読んでいたであろう本を棚に戻す。

 小さく「また明日」と言ったかと思うと、足早に図書室を出て行ってしまう。

「……あたし、何か悪いことしちゃったかな?」

 春日井さんが心配そうにそう訊いてくる。ので、即刻否定しておいた。

「あの人は大体あんな感じだよ。人見知りがひどくて」

「でも、真壁君には普通だったよね?」

「まあ、僕は割合付き合い長いし」

「へえ、そうなんだ。いつから?」

「……一週間くらい」

「…………」

 春日井さんが黙ってしまった。じとーっと責めるような視線が突き刺さる。

 嘘を吐いていると思われているのだろうか。それとも別の理由だろうか。

 どちらにせよ、いい印象を持たれていないことは確かだった。

「な、何でもいいじゃない。それより、僕たちも帰ろう」

 ちらりと貸し出しカウンターの方を見る。

 そういえば、ここ一週間ほど図書室には通っていた。けれど、司書の先生だという人に出会ったことがないかもしれない。

 僕はカウンターから春日井さんへと視線を戻した。すると、今度は春日井さんが全身を強張らせていた。

 少し、震えているようだ。

「春日井さん? えっと、大丈夫?」

「え? ああ、うん。……大丈夫、大丈夫」

 春日井さんは力なく笑うと、僕を追い越して図書室を出た。

 僕も彼女の後に続いて、図書室を出る。

 扉を閉める。鍵はどうしようか。

 僕は一瞬だけ悩んで、しかしすぐに振り返った。

 きっと司書の先生は別の部屋で別の仕事をしているんだ。そう思うことにして。

 僕は扉から離れ、階段を降りる。と、すぐ踊り場で、春日井さんは僕を待っていた。

 否、立ち尽くしていた、と言った方がいいかもしれない。あるいは、立ち竦んでいた。

 震えているようだ。それも、先ほどより大きく。

「春日井さん? 本当に大丈夫?」

 僕は春日井さんに声をかけた。けれど、春日井さんは返事をしなかった。

 数秒の間があってから、春日井さんは僕を振り返る。

 その表情は、恐怖に歪んでいた。顔色も悪くなっている。

 どうして?

 僕は驚いて、春日井さんの側まで駆け寄っていた。

「何かあったの?」

 春日井さんは首を振る。否、ということだろうか。

「……まだ、何かあった、というわけじゃあないの」

「だったら」

 だったら、なぜそれほど震えているのだろう。何かしら、恐ろしい出来事に見舞われたのではないか。

 僕はどうしたらいいかわらず、途方に暮れる。と、春日井さんが僕の胸に顔を埋めてくる。

 背中に手を回してきた。何が起こっているのかわからず、僕は全身の筋肉が硬直する様子だけを知覚する。

 女の子特有の柔らかさ。そしていい匂いだ。そうしたほわほわとしたものが僕を包み込んでいた。頭の中ばぼーっと茹で上がるようだ。

「あ、あの……春日井さん」

 春日井さんを呼ぶ声も、思わず上擦っていた。

 が、それとは対照的に、次に発せられた春日井さんの声は切羽詰まった悲壮なものだった。

「……た、助けて、欲しい」

 その一言で、僕の頭は一瞬にして冷却された。

 やはり、何かあったのだ。それも、これほど思い詰める何かが。

「ま、まあとりあえず落ち着いて」

 僕は慎重に、春日井さんの肩に手を置く。そして、やんわりと引き剥がすと、彼女の目を見て、訊ねた。

「やっぱり、何かあったんだね」

「……まだ、何かあった、というわけでないの」

 やはり、春日井さんは首を振る。何かあった、という僕の問いに否を示す。

「何もされてないし、声もかけられたわけじゃない。ただ……」

「ただ?」

 言い淀む春日井さんの先を促す。春日井さんはふーっと息を吐き、それから言った。

 その一言を。

「あたし、ストーカーに遭っているの」

 

 

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 学校からの帰り道。夕日が奇麗だった。

 けれど、僕も春日井さんもそうした景色を楽しむ余裕はなく、ただ一心不乱に歩いていた。

 ぽつり、と彼女は話す。なぜ自分がストーカーなどというものの存在を確信したのかを。

「最初はただの気のせいだと思っていたの。何か、悪い予感めいたものがするだけだった」

 爪先で石ころを弄びながら、しかし春日井さんは視線をしきりに背後に向けていた。

 後ろを気にしていた。警戒している、とも言える。

 どちらにせよ、今の彼女を一人のするのは危険だろうということで、紳士的にも僕は送って行くことにした。

 なんとジェントルなことだろう。中学一年生の行動とは思えない。

 などと考えていると、また春日井さんは背後を振り返った。

 足が止まる。止めない方がいいのでは、と思ったが、それは言わなかった。

「足音が聞こえるの。それも、あたしの歩調に合わせた足音」

「それは……」

「初めのうちは、それも気のせいだと思っていたんだけれど。でも、足音はあたしが立ち止まると止まる。それを繰り返している内に確信した」

 誰かに付き纏われている、と。

 そう言うと、春日井さんは口を引き結んだ。よほどの恐怖だったのだろう。それに気が付いた時は。

「最近は、どこへ行くにも足音が聞こえる気がするの。家の中とか、学校とかだと聞こえないんだけれど、いる気がする」

 再び歩き出す。

 いる気がする。僕は春日井さんの言葉を頭の中で反駁した。

 おそらく、彼女の言うストーカーは実在する。僕にはその恐怖は一端も理解できないだろう。それでも、何か力になってあげたいと思う。

 けれど、実際には何をどうしたらいいのか、わからなかった。

 ただ、彼女と一緒に下校する。こんなことしかできないのだろうか。

 それだって、いつまで続けられるか。このまま春日井さんが憔悴してしまったら、学校に来なくなる可能性だってあった。

 最悪の場合……。

 そこまで考えて、ぞっとした。頭を振り、その考えを追い出す。

 何がジェントルだ。全く阿保らしい。

「それは、誰かに相談したの? 親とか」

 春日井さんは首を振り、これにも否定の意を示す。

 どうして、と聞こうとして、止めた。

 人には、様々な理由がある。種々多様な事情を持っている。

 それを突き回すようなことは、するべきではない。

 政信兄さんの言葉だ。

「助けって言われたけれど」

 僕は慎重に、言葉を選ぶ。

 自分にできること、できないこと。それらを吟味しながら。ゆっくりと。

「僕にできることはあまりないよ。ただ、こうして一緒に帰るくらいが責の山だ」

「……うん。でも、それだけでも、あたしは嬉しい」

 にこっと春日井さんは笑った。けれども、それはいつもの弾けるような笑顔ではなく。

 無理矢理、笑顔の形を作っただけの、偽物のように僕には思えた。

 

 

                 5

 

 

 それから更に一週間。僕と春日井さんは帰路を共にした。

 そろそろ周囲から付き合っているのでは? という疑惑を持たれそうだった。

 なんというか、すごくむず痒いというか、迷惑な話だった。

 事実無根は噂ほど、当人たちを疲れさせるものはないと思う。

「……ねえ、真壁君」

「どうしました、神谷先輩」

「君、あの子と付き合ってるの?」

 いかにも気のないふうを装って、ページをめくるついでに訊いてみました、という雰囲気を醸し出している。

 が、僕はこの二週間ほどで学んだ。これは、不機嫌な時の先輩だ。

 神谷雫、という先輩は僕の前では饒舌だったり、にこにことしていたりする。が、意外とうこともないが、感情を表に出すことが苦手だ。

 それは文学少女という神谷先輩の気質がそうさせているのか、それはわからなかった。

 けれど、そんな先輩がここまでのことを口にするということはそれはもう爆発寸前なのだというサインでもある。

 別段何か実害がある、というわけではない。

 ただ、非常に落ち込んでしまうというだけのことだ。ずーん、という擬音がしっくりくるくらい、深く。

 その姿はさながら、不動を貫く岩のごとしだ。学校を休む自体にまで発展することもあるという。皐月先生によれば、だけれど。

「えっと、どうしてですか?」

「最近、帰りがはやいなと思って。それに、そう言う噂があってね」

「噂、ですか」

 噂。……噂と言えば、魔法使いだか魔女だかの噂を聞いたなあ。

 なんだったっけ、あれ? 確か、予言をするのだとか。それも悪い予言を。

「どうして黙るの?」

 先輩に問われ、魔法使いの噂のことを頭から追い出す。

「先輩こそ、どうしてそんなことを訊くんですか? もしかして、僕のことが好きとか?」

「うにゃ! なななな何を言っているんだね君は! そんにゃことない!」

 焦りからか恥しさからか、先輩は顔を真っ赤にして憤慨していた。

 いや、そんな反応をされるとこちらも恥ずかしいのだけれど。

 ひとしきり騒いで落ち着いたのか、先輩はすとんと椅子に腰を下ろした。

 それまで読んでいた本を閉じ、想定を撫でる。今回読んでいたのは詩集のようだ。

 『春と修羅』というタイトルが読み取れる。作者は宮沢賢治。

 宮沢賢治といえば『雨にも負けず』くらいしか僕は知らない。

「……知っての通り、わたしって友達がいなくて」

「いきなり何を悲しいことをカミングアウトしてるんですか。……知ってますが」

「で、まあ何と言うか、真壁君が恋を知ることはいいことだと思うんだよ。本当だよ?」

 ただ、と先輩は本を撫でていた手を止めた。

 その手は繊細で、きめ細かく、奇麗だった。

 まるで、あの夕日のような、なんて思った。

「恋に現を抜かして、ここに来なくなるのは……寂しなって思って」

 本当に悲しそうにそう言うものだから。

 僕は思わず立ち上がっていた。ガタッと椅子が背後に倒れる音がする。

「えっと……真壁君?」

「あっと……ええと」

 立ち上がったはいいのだが、ここから先を何も考えていなかった。

 僕はパクパクと空気を味わう。おいしいかどうかはわからなかった。

 ただ、何か言わなければと必死に頭を働かせる。この、繊細な先輩に、僕は何かを言わなければならない。そう思ったから。

「僕は……春日井さんとは付き合っていないです。それは本当です」

 必死こいて考えた末、口から飛び出してきたのはそんなただの事実だった。

 付き合っていない、と報告されたところで、先輩としても反応に困るだろう。

 僕は椅子を立て直し、座り直す。それから、話し直した。

「ええと、僕がこのところ春日井さんと一緒に帰っているのはですね」

 ぴくっと、先輩のまゆが動いた。どこか失言があっただろうか?

「春日井さんに頼まれたからなんです」

「……春日井さんって言うと、この間来てたあの可愛い子、だよね」

 神谷先輩は視線を『春と修羅』に向けたまま、神妙な声音で訊いてきた。

 僕としては、頷くより他にない。だって事実なのだもの。

 この先を伝えるには、春日井さんの抱える問題、悩みに触れる必要があった。

 本人のいないところで、そんなことを言ってもいいのかと自分に問う。

 神谷先輩は先輩自身が言った通り、友達はいない。全くいないわけではないだろうが、非常に少ない。そして神谷先輩は誰かの問題を面白おかしく吹聴して回るような人ではない、と思う。

 だから、つまり話しても問題はない、ということになるのだろうか。

「……春日井さんは、現在ストーカーに悩まされているそうです」

「ストーカー」

 先輩はあまり驚いた、というふうではなかった。

 ただの事実を、事実として繰り返した。そんなふうに見えた。

「もし仮にストーカーが何らかの危害を加えてきた場合、きっと僕では対処は難しいでしょうね」

 というか、すぐにやられる自信がある。逃げ足もそれほど早くはない。

 戦うという選択肢はあり得ないのだから、逃げるしかないのだが。その逃げるということにしても、僕は自信がなかった。

 別に、他人と比べて特別足が遅いとか、そんなことはないはずなのだけれど。

「その場面になって、たぶん慌てちゃうと思うから」

 僕がそう言うと、先輩はにこっと笑みを浮かべた。

「大丈夫。わたしに任せて」

「……え?」

 先輩はとんっと自分の胸を叩いた。

 その胸が揺れることはなかったが、先輩はなぜか自信満々だった。

「えっと、何が作戦が?」

「まあね。じゃあ今日はこれで解散にしよっか」

「解散って、別に集まっていたわけじゃ」

 まあ集まっていたとも言えなくもないか。

 僕は立ち上がった先輩を見上げていた。

「ふふん、そんな心配そうな顔しないの」

 先輩は僕の鼻の頭をつんっと突いてきた。

 神谷先輩相手とはいえ、女子にそんな行為をされたのは初めてだった。どきどきする。

「じゃ、また明日ね」

 先輩はひらひらと手を振ると、図書室を後にした。

 僕は先輩に突かれた鼻の頭に触れる。

 そんなに……心配そうな顔をしていただろうか。

 

 

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 結果から言うと、春日井さんはもうストーカーに悩まされることはなくなったらしい。

 警察に相談したのだろうか、と訊ねると、春日井さんは首を横に振った。

 否。なぜか全てが解決したのだと言う。全ては唐突に終わりを告げたのだと。

 いや、誰も告げてはいないのだけれど。

 まあいずれにせよ、ストーカー被害はなくなったのだ。めでたしめでたし。

「……という顛末でして」

 僕は放課後、図書室の陽の当たる席で、神谷先輩に教室での春日井さんとの会話を包み隠さず報告した。

 その反応はやはり「よかったね」だった。驚いたり、意外そうだったりそういうのはなかった。どうしてだろう?

「あの……先輩が何かしてくれたんですか?」

「ん? まあね。ちょっとだけお話をしただけだけれど」

「お話? ……ってまさかストーカーと!」

 僕はびっくりして、思わず声を張り上げていた。

 神谷先輩は慌てて、手にしていた本を机の上に置き、両手で僕の口を塞いだ。

「しー、ここは図書室だよ、図書室ではお静かに」

 神谷先輩は怒ったような、困ったようなよくわからない表情で注意してくる。

 僕はこくこくと三度ほど頷いた。それでようやく、先輩の手が離れる。

 そのことに少し名残惜しさを感じつつ、僕は背後を振り返った。

 他の生徒は誰もいない。それどころか、司書の先生すらいない図書室。

 そんな二人きりの空間で、僕たちは一体なぜ、ストーカーについて話しているのだろう。

「あの……ええと、ありがとうございました。でも、危ないですよ」

「危ないってことはないんだけれどね」

「え? なぜ?」

「犯人は同い年の女の子だったんだよ」

 僕はなぜ、そんなことを確信を持って言えるのか、ということを問うたつもりだった。

 のだけれど、先輩はそこには気が付かなかったらしい。まあいいか。

「同い年の女の子? というか、え? 本当に?」

「本当本当」

 先輩の話では、ストーカーの犯人は私立詩風中学校の一年生だという。

 名前を岸川ゆりあというらしい。

 私立詩風中学校は僕の通う白川中学校とは目と鼻の先にある名門お嬢様学校だ。

 勉強でもスポーツでも、あらゆる分野において白中の生徒は詩中の生徒には及ばない。

 僕はそうでもないのだが、一部の上昇志向のある生徒は隣の学校をライバル視しているのか、恨めしそうに詩中の生徒を睨み付けているのを度々目撃する。

 そして、それほど近いものだから当然、詩中の生徒も僕たちのことを見ているわけで。

「一目惚れ、だったらしいよ」

「……女の子、ですよね? 春日井さんも女子ですが」

「人に恋をするのに、性別なんて大したことじゃないよ。江戸時代以前は男性同士の恋愛もあったらしいし、今でも同性カップルはいるでしょ?」

「はあ……」

 いや、僕はそのあたりのことはよくわからない。

 唐突に恋とか言われても困惑するだけだ。

「まあつまり、今回は恋心を拗らせた女の子が思い人を付け回していた、と」

「うん、そういうことだね」

「では、ええと……僕はただのお邪魔虫だったということですか」

「うん」

 神谷先輩はにこっと微笑みながら、肯定する。

 彼女の話では、その岸川さんと言う人は何をするでもなく、ただ遠くから眺めていたかっただけだという。

 それを、僕はよかれと思って一緒に下校したりしていたわけだ。

 つまり、岸川さんの怒りを買うかもしれない方向に動いてしまっていたと。

「何ともまぬけな……」

 いずれにしろ襲われたら一たまりもないのだから、何もしないのがよかったのかもしれない。

 なんて嘆いても、後の祭りだ。

 大事にならずによかったと、そう思っておこう。

「ところで、先輩」

「どうしたのかな?」

「ええと、今回の話のオチはこれでいいんでしょうか?」

「んー」

 先輩は天井を見上げ、考える。

「……まあいいんじゃない? とりあえずは春日井さんに報告してみて、どうするか訊いてみてくれないかな?」

「はあ、わかりました」

 僕は先輩の言に頷くしかなかった。

 そりゃあそうだろう。だって今度のことで、僕はまるっきり役に立ってないのだから。

 

 

               7

 

 

「ところで先輩」

 閉館間近の時間帯。僕は読んでいた本を閉じ、時計を見やった。

「今度の事件、と言ったいいのかわかりませんが、騒動を解決するにあたって先輩が何らかの働きかけをしてくれたんですよね?」

「そうだよ」

「先輩は、人見知りだったと記憶しています。それも重度の」

「うっ……」

 先輩の笑顔が固まった。あまり突いて欲しくない部分なのだろう。

 けれど、僕としてはここを聞いとかないと気になってオチオチ眠れなくなってしまう。

 それは大問題だ。

 僕の安眠のために、ここの疑問はぜひすっきりさせておきたい。

「一人で、岸川さんと接触したんですか? というか、どうやって接触したんですか?」

 どちらからと言うと、気になっているのは後者の方だけれど。

 前者も、まあ知っておきたいかなとは思う。

「……ちょっとしたツテとうかアテというかがあってね」

「そうなんですか。差し支えなければ教えてください」

「えっとね。その……」

 先輩の目が泳ぐ。泳ぎまくっている。

 ぐるんぐるんと縦横無尽に暴れ回っていた。きっと、そのツテなりアテなりに口止めされているのだろう。

 だったら、これ以上の追及は可哀想というものだろうか。

「わかりました。言えないのでしたら、あえては訊かないことにします」

「う、うん……そうしてもらえるとありがたいよ」

 というわけで、結局疑問は解決しないままだった。

 けれど、意外なことに夜はしっかりと眠れたのだから、我ながらお気楽な奴だと思った。

 

 

               8

 

 

 春日井さんに報告の後、今後をどうするか相談した。

 その結果、春日井さんは会ってみたいと言った。

 意外だと思った。顔を見たくないのだろうと思っていただけに、僕は気の利いた返事ができず、放課後を迎えた。

 図書室のいつもの席に、既に神谷先輩は陣取っていた。

 今日読んでいるのは、心理学の本らしい。それも、ストーカーの心理を主に扱っているもののようだ。

 今回の騒動で、多少興味が湧いたのかもしれない。

 その隣には、歴史の本や同性愛をテーマにした本が並んでいる。

 いやあ、わかりやすいことだ。いいんだけれど。

「こんにちは」

「こんにちは」

 僕たちは挨拶を交わした。

 僕はパイプ椅子を引き、先輩の対面に座る。先輩は栞を挟み、本をそっと脇に置いた。

 その所作は丁寧で、そしてどこか慈しんでいるような印象があった。

「先日の神谷先輩の話を春日井さんにしました」

「うん」

「最初は意外そうでした。相手は男だと思っていたそうです」

「まあそうだろうね」

 神谷先輩はおさげを撫で付け、眼鏡の縁に触れる。

 その一瞬だけ、神谷先輩の左目が隠れた。

「えっと、春日井さんはわたしの……というか、岸川さんの提案に付いては?」

「そのことも、話しましたよ」

 その件で、先日は先輩と話をした。

 恋する乙女、岸川ゆりあ。けれど、今のままでは彼女は不憫である。

 そう言い出したのは、神谷先輩の方かららしい。

 これは、それほど意外でもない。この人なら、言い出しそうだ。

 曰く、春日井さんに岸川さんと会って欲しい、と。

 会って、好きだと言われて、振って欲しい。きちんと。

「どんな物語にも、何らかの結末が必要だと思うんだよ」

「結末……ですか」

「うん。今回の場合は岸川さんが振られることが一つの結末になると思うんだ」

 別に必ずしも振られる必要はないけれど、と神谷先輩は付け加えた。

 僕はその意見に同意する。でも、だ。

「振られる確率の方が高いでしょうね」

「そうだね。特に今回は出会う前にやらかしちゃってるから」

 やらかしちゃってる。そう、先輩は表現した。

 けれど、これはそんな可愛らしく言ってしまっていいものだろうか。

 岸川さんに付いては、僕は会ったこともない。だから、どんな人かも知らない。

 でも、春日井さんに付いては、違う。彼女は本気で怖がっていた。

 恐怖していた。

「大丈夫だよ。亜里おねえちゃ……皐月先生にお願いするから」

「皐月先生? えっと、なぜ皐月先生なんですか」

「へ? ええと」

 神谷先輩は視線を逸らした。

 何かを必死で考えているようだ。

「だって皐月先生は真壁君たちの担任の先生だから」

 それは、回答になっているのか?

 ああ、でも担任の先生なら、そう言う部分にも責任を持つもの、なのだろうか?

 よくわからない。

「とりあえず、予定を調整しないとね」

「調整……ですか」

「うん。向こうはお嬢様だから。そう簡単には他校の人とは会えないことなってるの」

「なるほど」

 納得できるような気がする。

「だから、まあ色々と気を使ってあげないといけないんだなあ、これが」 

 

 

                 9

 

 

 会見当日。

 この日はよく晴れていた。

 そして、後にも先にも、僕にとっても重要な告白を受ける日となった。

「さて、今日は集まってもらったのは他でもない」

 場を取り仕切るのは、我らが担任の皐月亜里先生だ。

 僕、神谷先輩。そして春日井さんと岸川ゆりあさん。

 以上五名が、今日の会見の参加者である。

「事前に伝えていた通り、先日のゴタゴタの話合いをするために集まってもらったわけだが」

 視線を皐月先生から岸川さんへと向ける。

 可愛らしい子だった。

 ウェーブのかかった色素の薄い髪に白い肌。全体的に小柄だからか、それとも場の空気に当てられておどおどしているからか、ずいぶんと幼く見える。

 それはもう、神谷先輩以上に幼く見える。そんなはずはなのだが、小学校一、二年生くらいに見えてしまう。

 幼女だ。幼女と言っても過言ではなかった。

 いや、これはもう紛れもない幼女だ。

 幼女が、そこにいた。ちんまい。

「え、ええと……あなたが岸川ゆりあさん」

「は、ははははひ!」

 春日井さんに名前を呼ばれたからだろう。岸川さんびくっと全身を震わせた。

 ぷるぷると。それはもう、ゼリーか何かのように断続的に震わせている。

 おそらく、彼女の中では様々な感情が渦巻いていることだろう。

 とても話をする余裕があるとは思えなかった。

「……だ、大丈夫?」

「だ、だいじょうぶでひゅ!」

 あ、噛んだ。

 みるみるうちに、岸川さんの顔が赤くなっていく。

 それはもう、青いりんごと赤いりんごくらい違いがあった。

 岸川さんは自分の髪をぎゅっと握り込み、俯いてしまう。

 その仕草が、更に彼女のことを小さくしていた。

「あ、あのー、先輩、僕たちここにいていいんでしょうか?」

 二人だけにしてあげた方がいいのでは? その方が岸川さんも話しやすいだろうし。

「それはわたしもそう思うのだけれど、仕方がないんだよ」

 そう、仕方がないのだ。

 岸川さんと対面する条件を、春日井さんは要求してきたのだから。

 それは、僕たち。というより僕がこの場にいることだ。

「やはり、真壁ごときでも、男手がいる方が春日井も安心なのだろうな」

 とは皐月先生のありがたいお言葉である。僕ごときって。

 まあ確かに僕では、喧嘩とかになった時に対処は出来ないだろうけれど。

 でも、この状況では喧嘩というか、暴力沙汰になんてなりようがないと思う。

 よしんばなったとしても、春日井さんの圧勝だろう。あれでは。

「わたしたちは手を出さず、口を出さず見守るだけだよ」

 神谷先輩が耳打ちしてくる。先輩の息が耳にかかってぞくぞくした。

 な、なんだろう、この変な感じは。どうして僕はこんな状況にもかかわらず、どきどきしているんだ?

 と、自分の心の内に疑問を抱いていると、ちらりと春日井さんが振り返ってくる。

 目が合った、ような? しかし、すぐに岸本さんへと向き直った。

「実は、あたしはあなたの気持ちを知っているの」

「へ?」

 唐突にも思える春日井さんの言葉に、岸川さんは顔を上げた。

 ぱちくりと、その大きな瞳を瞬かせる。

「でも、あたしはその気持ちに応えることができない」

「それ、は……はは、わかっていました」

 岸川さんの表情が、緊張のそれから絶望へと変わっていく。

 本人の言う通りわかっていたはずだ。受け入れられることはないと。

 だって、それだけのことをしたのだから。

 ぽつぽつと、地面に染みができる。それが岸川さんの涙だということに、僕は遅れて気が付いた。

「ごめんなさい。あたしは」

「だ、だだだいぞうぶです! こちらこそごめんなさい。あんなことをして」

 あんなこと、とは十中八九ストーカー行為のことだろう。

「昔から勇気がないんです。自分の気持ちを表に出すことが苦手でした。だから、友達も少なくて、気味悪がられることもありました」

 その独白を、僕たちは黙って聞いていた。

 別段笑える話ではないし、変に慰めるつもりもなかった。

 ただ、聞いていた。感情の発露を。

「あなたはすごい人でした。可愛くて背筋を伸ばしてて、わたしなんかとは別次元の人で」

 だからこそ、憧れた。

 自分にないものを、たくさん持っている人だから。

「それに比べてわたしはって……何度も自分を卑下してきました」

 すっと、岸川さんは頭を下げた。

 奇麗なお辞儀だ。きっと社会人になって役に立つ。

 場違いにも、そんなふうに思ってしまった。

「ありがとうございました。わたしに、勇気をくれて」

「そう、なんだ」

 春日井さんはじっと、岸川さんの頭を見詰めていた。

 その下げられた頭を見て、彼女は今、何を考えているのだろう。

「……聞いて欲しいことがあるの」

「はい。何でしょうか?」

 すぅーっと春日井さんは息を吸う。

 その音が、緊張がこちらにまで伝わってくるようだった。

「あたしはあなたの気持ちには応えられない」

「はい」

「でもそれは、あなたの行為のせいじゃないの」

「へ?」

 岸川さんは、驚いていた。そりゃあ驚くよ。僕だって驚く。

 驚いていないのは、皐月先生と、そして神谷先輩だけだ。

「あたし、好きな人がいるの」

 お? なんだ? 何か流れが変わったかな?

 僕は唐突にも思える空気の変化に、戸惑わずにはいられなかった。

 何が起こっているのだろう、今ここで?

 神谷先輩を見やる。続いて皐月先生。

 二人とも、今がどういう状況なのかを教えてくれなかった。

「それは、この人」

 タタタッと春日井さんは僕と神谷先輩の方へと駆け寄ってくる。

 そして、僕の腕を取り、高らかに宣言するのだった。

「あたし、真壁陸君と結婚します!」

「…………………………………は?」

 は?

 は?

 は?

 はああああああああああああああああああああああ!

 僕の人生の中で、この日この時ほど、驚いたことはなかった。

 目の前で愛の告白を(女子からだけれど)断った人物から、プロポーズされたのだ。

 冷静でいろ、と言うのが無理な話だった。

 

 

                 10

 

 

 さて、ことの結末を開示する前に、僕は読者諸兄に謝罪しなければならない。

 なぜなら、あの後僕は気絶してしまったからだ。突然の出来事に、脳が完全にキャパシティーをオーバーしてしまったようだ。

 なので、僕が結末に付いて書けることはそれほど多くはなかった。

 まあ他人のプライバシーに関わらることなので、それでいいのかもしれない。

 そんな事情もあって、神谷先輩から伝え聞いたことを簡潔に述べる。

 先輩曰く。

「大団円だったから心配しないで」

 だそうだ。それはよかった。

 とはいえ、話の大筋とはあまり関係がないこととはいえ、細かいところで気になることは多々あった。

 まず、なぜ神谷先輩の人見知りが僕に限って例外的に発動しなかったのか、というものだ。

 僕と神谷先輩は、僕が中学生になって初めて知り合った間柄。

 初めて春日井と対面した時を思い出してみても、先輩は初対面の相手が苦手だ。

 皐月先生は、まあ一年以上は同じ学校に通っているわけだから、慣れ親しんでいたとしても不思議はない。

 けれど、僕は違う。にもかかわらず僕は先輩の人見知りの対象外だった。

 これは不思議だと言えば不思議だ。

 そしてもう一つ。解消されていない不思議があった。

 魔法使い(または魔女)の噂の件だ。

 生徒の前に現れては不吉な予言をしている人物。

 その不審者の謎も、まだわからずじまいだ。

 果たして、これらは解消される時が来るのだろうか。それとも、伏線は回収されずに終わってしまうのだろうか。

 こうご期待! と言ったところか。

「こんにちは、真壁君」

「こんにちは、神谷先輩」

 ともあれ、僕は今日も図書室の扉を開ける。

 するとそこには、黒縁眼鏡のおさげの先輩がいた。

 陽光の当たる窓際の席で、読んでいた本に栞を挟んで、顔を上げる。

 にこっと、優しく微笑んで。

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