誰が勝った? 平治の乱の終結

 源義朝は保元の乱にて左馬頭に就任した。保元の乱まで彼は従五位下、下野守であり、そこから左馬頭という武士にとっては棟梁に匹敵するほどの地位を与えられた。


 だが、この恩賞を義朝は全く嬉しくもなければ喜びもしなかったのである。


 というのも、ライバルの平清盛は保元の乱の後に播磨守、大宰大弐となり、この十年前には殿上人として昇進していた。


 ところが義朝は父である為義を自らの手で処刑して、その清盛よりも低い地位しか与えられなかったのである。


 実際のところ、これは別に清盛を優遇したわけでもなければ、義朝を冷遇したわけでもない。


 もともと、清盛ら平家一門は祖父正盛、そして父忠盛の三代の系譜の中で、順調に出世しており、平清盛の父である忠盛は武士にして初めて殿上人となっていた。


 所が源氏、特に義朝ら河内源氏は八幡太郎義家の時代から不祥事を連発しており、清盛の祖父である正盛が義朝の祖父であり、反乱者となった源義親を追討するなど、大きく勢力が衰退していたのである。


 だが、父親を手にかけ、多くの兄弟たちとも戦った中で得た対価は、義朝にとっては許容できることではない。


 そして何より、義朝自身も信西には遺恨があった。義朝は自分の娘を嫁がせようとしたが、信西は「自分の家は学者の家系なので、武家の婿にはふさわしくない」としてこれを拒絶した。


 ところが、信西は平清盛の娘を自分の息子に嫁がせている。ちなみに、義朝が嫁がせようとした信西の息子是憲は従五位下少納言、信濃守でありそこまで出世している人物ではない。

 

 対して、清盛の婿となった重憲は正四位下、左中将にして清盛の後任で播磨守になっている。


 義朝から見れば、清盛が嫁がせようとしている人物を巡って、清盛に負けたならばまだ納得するが、自分が嫁がせようとする相手よりも地位が上の人物に嫁がせて、自分は断られるのだから、信西に憎悪を持ってもおかしくない。


 そして、信西が辣腕を振るっていれば、それは清盛の風下に立たざるを得ないことを意味する。


 また、信頼は保元の乱よりも前に武蔵国を知行国としており、関東に基盤を持つ義朝とも親しい関係にあった。何しろ、義朝の子、源義平が義朝の弟である義賢を殺害してもそれを黙認したほどである。


 こうして、義朝は信頼に味方し、文武の力を結集した信頼はついにクーデターを実行した。


 平治の乱の始まりである。


 まず、信頼は信西と親しい上に、最大の兵力を有した平清盛が不在時を狙った。清盛はこの時期、熊野詣で紀伊に滞在し、都を離れていたのである。


 そして、義朝達は信西がいると目された三条殿を襲撃した。この時の襲撃は非常に苛烈なものであり、焼き討ちされた三条殿から逃げた女官たちが次々に井戸へと身を投げて死亡したという。


 こういた過激な行動を取った信頼方だが、信西は事前に危機を察知して避難していた。


 郎党に命じて竹筒で空気穴をつけて土の中に埋めた箱の中に隠れていた。所が、郎党が信頼方に捕まり、居場所を突き止められてしまった。


 信西は見つかる前にもはやこれまでと思い、首を突いて自害した。


 信頼はさらに、二条天皇や後白河上皇を確保して、政権を掌握してしまった。


 こうして、信頼が起こした平治の乱の前半戦は、信頼方の勝利で終わったのである。


 気を良くした信頼はさっそく、自分たちに有利な除目(人事)を行ったがほとんどの貴族たちは彼に対して冷ややかであった。


 のちに、九条大相国と呼ばれ、二条天皇の元で辣腕を振るった藤原伊通は信頼が義朝ら武士たちに手厚く恩賞を与えたことに対してこう言ったという。


「人を多く殺した者が恩賞に与るのであれば、どうして三条殿の井戸に官位が与えられないのか」


 伊通は非常に気概のある人物であり、道理にあわないことにはハッキリとダメ出しをする人である。


 まともな貴族たちは信頼の行動に対して不快感を持っていたのである。


 そもそも、後白河法皇の寵愛を受けていた寵臣である信頼が、後白河まで幽閉してしまったことは戦略的にはメリットがあったが、政略的にはとんでもないデメリットをもたらすことになった。


 いわば、主君を幽閉する逆臣となってしまったのである。


 そして、信頼はあくまでこの乱を単なるクーデターという認識でしかなかった。これは、義朝らも同じであり、彼らは少数精鋭により速やかに政権を奪取することを目的としていた。


 その為、彼らが京に集めた兵力は少数であったのである。


 そして、熊野詣の途中であった清盛はこの騒乱を聞きつけると、九州に落ち延びることまで考えてしまった。だが、紀州や伊賀、伊勢の武士を集め、京へと進軍しこの乱を平定することを決意した。


 こうして、軍事面において瞬く間に信頼・義朝らは追い詰められてしまう。


 さらに、信頼についていた二条親政派の経宗・惟方も、二条天皇の腹心である内大臣、三条公教に「信西は死んだのだから目的は達成した。だからこそ、いい加減に後白河院派である信頼と手を切れ」と説得されてしまった。


 彼らが信頼と手を組んで信西を討ったのは、二条天皇による親政をする上で邪魔だったからに他ならない。


 もともと、後白河法皇の派閥に属している信頼とは敵対関係にあるのだ。


 信西という共通の敵を失った今、わざわざ手を組む必要性などないのである。そこで、彼らは信頼とは袂を分かち、公教と惟方は二条天皇の六波羅行幸の計画を練り、二条天皇を脱出させた。


 そして、清盛は清盛で信頼に味方するフリをした。実は、清盛は信頼の息子である信親に娘を嫁がせており、婚姻関係を結んでいたのである。


 だが、清盛は信頼と信西の争いにも、二条親政にも後白河院政にも距離を置いていた。そのために、信頼は清盛不在を狙ってクーデターを実行したのである。


 しかし、清盛が信頼に味方することで、信頼は勝利を確信したのであったが、とんでもない錯覚に過ぎなかったのである。


 惟方は後白河上皇の元に赴き、二条天皇脱出計画を伝え、後白河は仁和寺に脱出し、二条天皇もまた清盛の屋敷がある六波羅へと脱出に成功する。


 これを知った義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。


 これは、こんな愚かな人物と手を組んだ自分に対する腹立ちもあったのかもしれない。


 こうして、圧倒的な兵力を有し、名実ともに官軍となった清盛率いる軍勢に対抗できず、義朝は敗退。その後、東国へと逃走し、その途中で謀殺された。


 そして、信頼もまた公卿でありながら六条河原で斬首された。


 こうして、平治の乱は平清盛が台頭する切っ掛けとなり、源氏が衰退する切っ掛けとなったのだが、同時に後白河上皇の政治力の無さを浮き彫りにする事件にもなったのであった。


 

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