日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇

ヤン・ヒューリック

雅仁親王、天皇となる

鎌倉殿の13人が放映されてすでに三か月が経過している。


 この時代のキーマンとされる後白河法皇は治天の君として約40年もの間君臨し続けた。


 そのために、平清盛や源頼朝といった、この時代きっての切れ者たちすら振り回し、日本一の大天狗と呼ばれた策謀家として多くの人に認識されている。 


 ところが、その実態を調べていくととてもではないが、策謀家とは言えず、ましてや平清盛や源頼朝を振り回しはすれど、結果として、彼らの言いなりになり窮地を作るというお粗末な結果を繰り返している。


 後白河法皇について、歴史学者である呉座勇一先生は彼をこう評している。


「けれども、後白河の行動を細かく検討してみると、長期的視野に基づく戦略的な思考を見出すことは全然できない。判断が常に場当たり的で、ほとんどが裏目に出ている」陰謀の日本中世史より。


 実際、後白河法皇がたくらんだ陰謀は全て失敗に終わっているのである。


 平家打倒を目論んだ鹿ケ谷の陰謀、頼朝に対抗するために、その弟である源義経と伯父行家に頼朝討伐の院宣を出したこと。


 鹿ケ谷の陰謀は最終的に平清盛が治承三年の政変にて後白河法皇を幽閉し、義経と行家は頼朝に対抗できる兵力を持ちえず西国へと逃亡するも、さらに兵力を失い、トンズラをした。


 特に二番目に関しては、後白河法皇は頼朝により「地頭守護」を設置するという要求を受け入れるしかなかったのである。 


 むしろ、ここまでを見ると平清盛や源頼朝に振り回されているのは後白河法皇の方であり、それもかなり屈辱的な目に遭っているのを見ると、彼の策謀家としての力量は呉座勇一先生の言う通りというしかない。


 そもそも、後白河法皇とはどういう人物だったのだろうか? 


 もともと後白河法皇は鳥羽上皇の第四皇子である。その鳥羽上皇は院政を初め、権勢をふるった白河法皇の息子であった。


 後白河法皇は若い頃から今様にはまっていた。 


 今様とは平安時代に流行した歌謡曲であり、歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成する。


 5・7・5・7・7で構成する和歌とは違い、まさに歌曲であり、後白河法皇はこの今様に熱中しており、歌いすぎて喉を傷めたほどである。


 また、今様が好きならば、遊女や傀儡子など身分が低い人間たちとも交流を深めていたのである。


 その熱意は梁塵秘抄という今様の歌謡集を編纂していたのだから、どれほどのめりこんでいたのかがよくわかる。


 ところが、父である鳥羽上皇はこれを良く思わなかった。


 貴族たちは基本的に和歌を嗜むものである。和歌を詠むことで、自分の心を伝える手立てとし、和歌を詠むことで語彙力をつけ、教養を身に着けることが出来る。


 この時代の貴族、特に教養ある文化人たちにとって和歌が本道であって今様は良くも悪くも娯楽に過ぎない。


 おまけに親王であるにもかかわらず、今様のためならば身分の差を守らずに軽率な行動を取っている。


 そんな娯楽に現を抜かしている息子に鳥羽上皇は「即位の器にあらず」とみなしていたほどだった。後白河法皇は父親から非常に辛辣な評価を受けていたのであった。


 やがて鳥羽上皇は祖父である白河法皇のように譲位し、上皇となったのだが、その後継者となったのが後白河法皇の兄であった崇徳天皇であった。


 崇徳天皇には白河法皇のご落胤説があるのだが、これは正直言って、本当かどうかの確証が全く取れていない。


 そして、この時の譲位に関しては別段問題はなかった。 


 おかしくなったのは鳥羽上皇の寵姫となった美福門院こと、藤原得子が躰仁親王、つまり、近衛天皇を出産したことにある。


 鳥羽上皇は美福門院の子である近衛天皇を即位させたくなった。それほどまでに美福門院に惚れており、崇徳天皇の後を継がせたくなったのである。


 だが、これも崇徳天皇と鳥羽上皇の中が決定的に破綻する理由にはならなかった。当時は医療も未発達であり、幼児が長生きする保証がない。


 そこで、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫ったが、崇徳天皇の中宮・藤原聖子の養子として近衛天皇を即位させた。


 つまり、弟を養子として即位させれば崇徳天皇が上皇となっても治天の君として君臨できるのである。


 しかし、上位の宣明には「皇太弟」と記されることになった。


 後継が弟では当然ながら治天の君にはなれない。


 土壇場で崇徳天皇、いや崇徳上皇は治天の君としての道をこの時点で断たれてしまったのだった。


 そして次第に鳥羽上皇と崇徳上皇は何かと対立するようになり、鳥羽上皇は治天の君として盛大に権勢を誇り、上皇の妃に過ぎない藤原得子をなんと皇后に取り立てた。


 藤原得子は、美福門院の院号で有名であるが彼女は単なる寵姫ではなく、平安時代屈指の女傑と言ってもいいほどに頭が切れる女性であった。


 彼女は従兄弟で鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成や、縁戚関係にある村上源氏、中御門流の公卿が集結して政治勢力を形成したのだが、彼女が頭が切れることを証明したのが近衛天皇が崩御した時の対応である。


 近衛天皇は17歳で夭折してしまった。これを彼女は崇徳院の呪いとして崇徳院をけん制したのである。


 実際のところ、近衛天皇は病弱であり病死する二年前から病を患っていたのだが、美福門院と鳥羽上皇の側近たちは、近衛天皇死後について手を打つ。


 崇徳院の弟である後白河法皇を天皇として即位させようとしたのであった。 


 ここで、父である鳥羽上皇にすら見切りをつけられた後白河法皇が即位することになったのだが、この即位は後白河法皇の息子である守仁親王を即位させるためであった。


  守仁親王、後に二条天皇として即位することになる天皇だが、彼は生母を失い、祖父である鳥羽上皇にひきとられ、美福門院に養育されていた。


 彼は非常に英明な人物であり、美福門院は彼を近衛天皇の代わりに即位させようとしていた。


 ところが、父親が即位していないのにその子が即位するのは問題であるとして、後白河法皇が、天皇として即位したのである。


 つまり、後白河は息子の中継ぎで天皇になったのであった。29歳の即位し、彼は天皇となった。


 その理由にしても、近衛天皇を即位させ、崇徳院に治天の君の道を絶ったことから崇徳院が鳥羽上皇死後に反撃してくることに対するカウンターとしてである。


 後白河自身には全くと言ってもいいほど期待などしていなかった。


 こうして息子の中継ぎで天皇となった後白河法皇だが、早くも大事件に巻き込まれる。


 武士の台頭の切っ掛けとなった保元の乱である。


 保元の乱は摂関家の対立と、崇徳院と後白河との対立という図式で語られるが、最初の切っ掛けとなったのは出家し、法皇となった鳥羽法皇が亡くなったことが切っ掛けである。


 鳥羽法皇の元で権勢をふるっていた美福門院たちは、崇徳院が巻き返ししてくることを非常に恐れていた。 


 そこで彼女たちはまず、有力武士たちを味方につけることにした。まずは北面の武士として鳥羽法皇に仕えていた源義康(後の足利氏の祖)と彼と盟友であった源義朝である。


 そして当時武士としては破格の出世をしていた平清盛である。


 平清盛は義母・池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であり、彼の父であった忠盛は重仁親王の後見だった。


 つまり、後白河陣営からみると限りなく崇徳院に近い人物で味方をするかどうか怪しい人物だった。


 そこで鳥羽法皇は崩御する前に、清盛、そして義康と義朝達信頼できる北面の武士たちを集めて起請文を書かせた。さらに、美福門院自身も清盛を説得して平家一門を味方に引き入れたのである。


 この結果、後白河陣営は質量ともに崇徳院を上回る軍事力を手に入れることに成功した。


 そして、美福門院とこの乱の実質的な指導者の一人である信西は崇徳院陣営を謀反人として扱い、自らを官軍とすることで正当性をも手にした。


 そして彼ら挑発し、暴発させて勝利した。


 いわば、軍事力というハードパワーと、官軍というソフトパワーを合わせたスマートパワーを惜しみなく使うことで、勝つべくして勝ったのである。


 こうして後白河法皇は最初の難局を乗り切ったが、それは別に彼がアレコレ差配したわけではない。


 功労者は実際に戦った平清盛、源義朝、源義康であり、彼らを味方につけることで勢力を整え、崇徳院を挙兵に追い込み彼らを完全なる賊軍となるように戦略を練った、美福門院と信西のおかげであった。


 そして保元の乱に勝利したことで、美福門院たちは、この後に後白河天皇を譲位させ、二条天皇を即位させる。


 だが、これは二条天皇と上皇となった後白河、そして二条天皇の側近たちと後白河院の近臣たちによる争いを招くことになったのであった。

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