あなたを想う

旧星 零

純度百のキスを

 中学三年生の冬、友だちのような間柄の人に、言った。

 だれかを想うことは苦手だ、と。するとその人に、だれにでも笑顔だとか、よく気配りしてくれるとか、いつもあなたがしていることは、だれかを想うことなんじゃないの、と言われた。


 微妙な距離感の人なら、打ち明けやすいかもしれない。同じ思いを持っているかもしれない。それで共感したりして、いままで深く付き合っていなかっただけで、じつは気が合うかもしれない。別々の高校へ進学するとしても、SNSで連絡し合う仲にはなるかもしれない。

 少し期待していたけれど、もう。ひとつのやりとりで、すべてが砂城のように崩れていった。その人を深く求めていたわけではない。ただ、同級生という枠を越えた存在が、ひとりだけそばにいて欲しかった。

 

 もし感情に純度がつけられるなら、わたしのなかの「思いやり」は、純度零。思いやりは、人のためにはたらく感情で、それが「思いやり」純度百ということだとすると、わたしは人のために動いたことはないから。

 だから、「思いやり」純度零。

 どうして人のために行動できないの、どうして優しくできないの、どうしてどうしてどうして。ちいさい頃、散々投げかけられた言葉だ。

 今となってはちいさい頃、と振りかえることができる。でも、そのちいさい頃、わたしはただ苦痛だった。

 きっとはじめから優しくできる人はたくさんいて、純度百の人は生きやすいんだろうな、と思う。

 だれかのため、なんて理由で動くのは疲れる。感謝なんてされたところで、疲れが勝って「ありがとう」の言葉をうまく呑み込めない。

 ありがとうって何、助かるって何。あなたを助けたいなんて思ったこと、一度もないよ。

 そう言えたら良かった。そう言えば良かった。純度零のまま、わたしは高校生になった。勉強が好きでいて良かったと思った。

 それまでの生活圏内では、いつも思いやりが求められていた。だけど、高校ではそんなもの必要なかった。少なくともわたしの周囲では、思いやることよりも勉強の成果でひとを診る風潮があった。

 純度零なひとも、純度百なひとも、校舎の壁に張り出された順位で自分の立ち位置を考えた。成績順で決まる世界。広げたいとは、思わなかった。

 純度零のまま生きられない場所よりも、居心地が良かったから。その代わりどんな感情も、求められることや求めたいとは思えなくて、いつも氷の張った湖の上を滑っているような、息の白くなる日々だった。

 

 愛とは、直感だ。

 彼女に出会って、はじめて知った。はじめて彼女の存在を知ったのは、大手塾の模試を終えたときのことだ。

 背負った教材の重さ、後日渡される成績表のそれぞれに鬱屈を抱えながら、わたしは階段を降りていた。そのとき、彼女とすれ違った。

 とたん、鼻先を掠めるくらいのローズマリーが香った。彼女の優しくなびいた毛先から、ただよう品の良いその香が、わたしの心の中に満ちていった。

 指先が冷え、その熱が頬に集まっていく。ただ、好きだと思った。ためらいもなく、その感情を認められた。

 

 あまりにも突然の出会いで、いわゆる初恋というやつで、それでもここまでまっすぐな感情ははじめてだった。

 初恋なんて呼んだものの、追いたくて追いたくて追いつきたいこの衝動は何度も繰り返すものじゃないと、わかった。認めたその瞬間から。


 だから、これは愛だ。


 でも、わたしの記憶はそこまでだ。現実で過ごした時間はそこまでだ。目を瞑って記憶をたどると、いつもけばけばしい赤が映る。


 死んでしまったのか。だけど、信じられるわけがない。だっていまのわたしは透明人間なんだ。人の姿は見えるのに、目が合わないし、人はわたしに触れようとしない。そしてわたしには、人の声も鳥のさえずりも、自動車の走行音も聞こえない。

 無音の世界で、色と光だけが動いていた。見覚えのある場所もあったけれど、わたしという存在がどうやって場所を移動しているかはわからなかった。

 目を瞑ると、いつも次にわたしが見る景色は変わった。だから、好きなことだけを思い浮かべることにした。夢がうつつになることを願うように、せめて好きな場所にいたかったのだ。

 目を開けた。見えたのは、桜の散る景色と、目を伏せた彼女だった。ひどく考え込んでいるようだった。

 


「好き」


 ほんとうに、出会えた。好きな人に。記憶にあるのは、たった一度の出会いで、名前すら知らないのに。

 物思いに耽る彼女の横顔だけで、胸が満ち足りる。


「好き」


 どんなに告白しても、音としての意味はなさない。せめて。

 純度百のキスが、彼女に届きますように。祈りながら、佇む彼女の顔に、わたしの顔を重ねた。 


 それはひどく短い時間だった。

 彼女に近寄る少女が居たからだ。なぜか少女は私が見えているようだった。

 だけど、わたしは彼女に会うためだけにこうしてただよっていたはずだ。そうでなければ、そうであれば。彼女以外の存在など、必要がない。

 

 そっと唇に手を添えた。互いの唇をつなぐだけのことなのに、熱さえもわからない。わたしが失ったのは音だけじゃなく、色と光以外のすべてなのか。

 ならばこの少女に、わたしが視える意味はあるのか。

 

 彼女への憧れがあるのだろう。目を輝かせ、めだかのように口を動かす少女が腹立たしい。それでも、その瞳が再びわたしへ向けられたとき、胸がちくりと痛んだ。

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