# 15. フィードバックと銃声

「――準備、いいですか? もうみんなホテルを出ましたよ」

 部屋に来てそう云ったヴィトに、ルカはスマートフォンを見ていた顔を上げ、「みんな? ……テディも?」と尋ねた。ヴィトは一瞬意外そうな顔をして、「ええ、さっき下に降りていったのを見たんで、たぶん」と頷いた。

 そうか、とルカは少し考え、云った。

「おまえも誰かの車に便乗して、先に行っててくれ。ちょっと寄りたいところがあるんだ。俺が遅れるかもしれないって伝えておいてくれないか」

「寄りたい……って、ひとりでですか?」

 ヴィトは首を横に振った。「だめっすよ、なにかあったらどうするんすか。行くところがあるなら俺も付き合います」

 そう云われ、しょうがないかとルカはベッドから立ちあがり、置いてあったトートバッグを肩に掛けた。

「わかった。ただし、俺がどこに行ってたかは誰にも云わないでくれ」

「えっ……わ、わかりました。誰にも云いません」

「じゃあまず――」

 ルカはスマートフォンの画面を確認してからオフにすると、ポケットに仕舞いこんだ。「そこへ行く前にケミストに寄る。買い物、頼んでいいか?」




       * * *




 ブダペストでの公演当日。チェックインしたホテルで暫し休憩をとってから、一行は午後から始めるリハーサルのため、ネムリーテジク・スポーツアリーナに集まった。

 バンドの出す音を聴きながら、クルーたちが楽器や機材の調整をしていく。ロニーはその様子をアリーナから見守りながら、会場全体のチェックをしていた。しかしこの日、問題がひとつ発生していた――ルカがまだ来ていなかったのだ。

 電話をしてみるとすぐに繋がったが、ルカはもう少ししたら行く、と云うだけだった。それを他のメンバーたちに伝えたところ、またもやテディの機嫌が急降下してしまった。まったく、ヴィトがついていていったいなにをしているのかしらと、ロニーも些か苛立ち気味だった。

 バンドはセットリストの一曲めを演奏し始めた。マイクスタンドの前にはエミルが立っている。そういえばツアーが始まる前、リハーサルスタジオで一度聴いたことがあったなとロニーは思いだした。前奏が終わり、エミルが歌いだす。ややハスキーでエモーショナルな声質のルカとはタイプが違うが、やはりなかなかいい声だ。どちらかというと、鼻にかかった甘ったるさのあるテディの声のほうに似ているかもしれない。

 そうして何曲か演奏したあと、バンドはステージから捌けていった。リハーサルの終了にはまだかなり早い。どうしたのだろうとロニーは席から立ち、バックステージへと向かった。

「――どうしたの? なにか問題でもあった?」

 控え室へ向かおうとしているメンバーに追いついて声をかけると、いちばん後ろを歩いていたジェシが振り返った。

「ええ、楽器や演奏のほうは問題ないんですけど……ヴォーカルのぶんの調整が」

「調整って? エミルが代わりに歌ってたじゃない」

 控え室の前まで来て立ち止まり、ロニーはそう云って首を傾げたが。

「エミルもいい声だし、巧いんですけどね。やっぱり声量がぜんぜん違いますよ。あれに合わせたってだめです」

 ジェシがそう云うのを聞き、ロニーはああ、と納得した。そう云われれば確かにそうだ。ルカのあの、マイク無しでもスタンド席まで届きそうな、伸びやかに響く声には及ばない。

「わかったわ。ルカが来るまで休憩ね」

 そしてロニーは、細かい部分のチェックなどを済ませておこうと踵を返した。




       * * *




 ――エミルは皆がステージを降りていったあと、ひとり残ってマイクスタンドの前に立っていた。

 ステージから見渡す、無数に見える赤いシートのすべてに観客がいることを想像する。それはクルーとしてなら何度となく見た光景だが、このステージの中心に実際立って歌ってみると、リハーサルのマイクテスト程度とはいえ全身の血が沸騰するような気がした。観客席が空でもこうなのだ。ライヴ本番、一万五千人のオーディエンスの前で歌ったなら、どれほどの昂奮が味わえることだろう。

 名残惜しげに観客席に背を向け、エミルはベースキャビネットのほうへと移動した。

 裏方で働くのも楽しいが、やっぱり自分のバンドで演ってみたいなあ、などと考えながら、エミルは六本用意されているテディのベースギターをセーム革のクロスで丁寧に拭き始めた。

 偶に動画サイトなどにアップされているライヴビデオを見ていて思うのだが、ライトに照らされたとき、べたべたと指紋や汚れが目立つ楽器はみっともない。弾き手と同じく、楽器も磨きをかけ輝いていなければ。それに、付着した皮脂や埃は湿気を呼ぶので、木製の楽器にはよくないのだ。

「……よし。完璧」

 磨いたあとチューニングも再確認し、さて自分も控室で冷たいものでも飲んでこようとステージの端に向かって歩きかけた、そのとき――

「――っ!?」

 突然、物陰から伸びてきた腕に、エミルは背後から羽交い締めにされた。

 一瞬クルー仲間の悪戯かと思ったが、自分を捕らえる腕の力と叫ぼうとした口を塞いだ手に、仲間でもお巫山戯ふざけでもないのだと直感的に覚る。

「でかい声をだすな。暴れると痛い目に遭うぞ」

 本気だとわかる威圧感の声が聞こえ、エミルはわかったと云うように二度、首を縦に振ってみせた。するとそのとき、男が自分を捕らえたまま向きを変え、ベースキャビネットの後ろに身を潜めた。エミルも気づいた――足音と話し声。男が口を覆った手に力を込め、いつの間にか手にしていた銃を顳顬こめかみに突きつける。声をだし助けを求めることも叶わず、エミルはキャビネットの陰から通り過ぎていく警備員ふたりの姿を見送った。

 その後ろ姿が遠ざかっていったあと、男は自分の向きを変えさせ、胸ぐらを掴んだ。銃口がすぐ眼の前にある。エミルはひゅっと息を呑み、背後にあるベースキャビネットにぴたりと躰を寄せた。

 銃口から目が離せないでいると、男が声を低くして云った。

「あれをどこへやった。おまえがあの女から預かったことはわかっているんだ……隠すとためにならんぞ。ツアーを中断させたくなきゃ、おとなしく渡すことだ」

 恐怖に竦みながら、あれってなんだ? とエミルは混乱した。同時に、足音が再び近づいてくることに気がついた。会場を見廻っているさっきの警備員が戻ってきたのだ。エミルはなんとかしてここに侵入者がいると知らせなければと、銃口から目を逸らさないまま必死に考えた。汗が額を伝い落ちる感触が奇妙なほどはっきりと感じられる。男も気づいたのか、小声で「動くな! 声をだすなよ、殺すぞ」と脅してきた。エミルはびくっと怯え、傍にあるものに縋るようにキャビネットのサイドに身をずらした。

 そしてベースアンプに抱きつくようにしてさりげなくその手を伸ばし、男からは死角の位置にある小さなノブを回して最大にする。そうしておいて、次にぱちりとスイッチをオンにすると――

「うわっ――」

 ぶぉーんという不快な音が、腹の底から耳までを大きく通り抜けた。




       * * *




「――あなたね! もう見ないなと思って安心してたのに、なんでまたここにいるのよ! 何度も云わせないでちょうだい、ここは関係者以外立入禁止よ、すぐに出ていって!」

「いいじゃないか、かたいこと云うなよ。そんなことより、ポーランドじゃなにも起こらなかったんだろ? その所為であんたらが警戒を解いてるんじゃないかって、心配でさ」

「何事もなくたって警備員はいるし、ちゃんと気をつけてるわよ! いったいあなたなんなの、いつもどこからどうやって入りこんでるのよ! やっぱりあなたがいちばん怪しいじゃないの」

 ロニーはまたも現れたイヴァンに呆れて文句を云いながら、アリーナのほうに向かって通路を歩いていた。イヴァンはロニーにぴたりと寄り添うようにして、へらへらと笑顔を浮かべてついてくる。

「ところで、今日はまだルカを見かけないようだが……彼はどこに?」

「あなたに関係ないでしょ。もうついてこないで――」

 と、そのときだった。ステージのほうからぶぉーんというフィードバックの音が大きく聞こえてきた。ロニーは思わず「なに!?」と両手で耳を塞いだが――続いてキーンと神経を逆撫でする音に混じって『たすけて!!』という声が耳に届くと、はっと顔を上げた。

「エミル!?」

 声の主に気づくと、ロニーは直ぐ様ヒールの音を響かせて駆けだした。「ロニー、待て! あんたは行くな!!」とイヴァンがその後を追ってくる。

 機材などを運びだしたりするために開け放ったままの扉から、ロニーは通路を飛びだした。こっちへ必死に走ってくるその姿を認めて「エミル!!」と名前を呼ぶ。同時に駆けつけてきていた警備員がふたり、エミルのあとを追っている不審な男に向かって「止まれ!」と怒鳴った。すると――

「ロニー!!」

 二度、連続して乾いた破裂音が響いたと思ったらいきなり背後から抱きかかえて引き寄せられ、一瞬足が浮いた。

「きゃ――」

 気づくと自分は扉の陰の隅に押しこまれていた。庇うように後ろ手を伸ばしているイヴァンの背中が眼の前にある。そして、さっきの音は銃声? とようやくそのことに思い至ると――ロニーは、エミルを助けなきゃとイヴァンの腕に手を掛けた。

「出るなロニー! 戻って警察を呼べ!」

「でもエミルが! エミルを助けなきゃ――」

 くそ、とイヴァンが毒づいた。「頼むから云うことを聞いてくれ。いいか、せめてここから動くんじゃない。無茶なことはするな、俺に任せろ」

 イヴァンはそう云って頸から下げたカメラを外すと、右手を腰にやった。再び目に入ったその手には銃が握られている。はっとして、ロニーはイヴァンを見た。

「あなた――」

 ぴたりと板についた姿勢で銃を構え、イヴァンが機材などの物陰から物陰へと腰を低くして移動する。だが向こうから撃たれるようなことはなく、イヴァンは銃を構えたまま、ステージの反対側の端まで警戒しながら進んでいった。その様子を、ロニーは扉の陰からじっと見つめていた。

 エミルを襲い、発砲までした侵入者は、どうやらもう逃げてしまったようだ。イヴァンが警戒を解いた様子で銃を持った手をおろし、こっちに向く。

「ロニー、救急車を呼べ」

 救急車!? まさかエミルが――とステージに出ていくと、ドラムセットの前辺りに警備員が仰向けに倒れているのが目に入った。

「大変」

 慌ててスマートフォンを取りだし電話帳を開く。「104だ」というイヴァンに、「ツアーで行く国の緊急ダイヤルは全部登録してあるわ」と返す。救急車をおねがいしますと英語で云い、伝わったことにほっとしながら電話を切ると、ギターアンプの後ろからそろそろと警備員とエミルが這いでてきた。

 見たところまだ若い警備員は、腹から血を流して倒れている白髪頭の警備員の服を脱がせているイヴァンを手伝った。ベストの前を開け服を捲りあげ、顕になった銃創にイヴァンがシャツを脱ぎ、丸めて押しつける。ぐぅ、と呻く声に、ロニーは思わず口許を手で覆った。

「こうしてぐっと押さえてろ。救急車が来るまでそうしてるしかない。出血を抑えないと――」

「ああ……なんてこと。救急車は呼んだわ、すぐに来るから……ちょっとの辛抱だから……!」

「この人、俺が逃げてるときに庇って……! ほんとなら俺が撃たれてたかも……」

「エミル、そうだとしてもあなたは悪くないわ。あなたが無事でよかった……!」

 エミルが撃たれていたかもしれないと聞いて、思わずぞっとする。が、それを云うならイヴァンがいなければ、自分も撃たれていたかもしれないのだ。

 いったい、なんでこんなことに……と、起こったことにあらためて身震いしながらも、とりあえず無事だったことにほっとする。

「エミル……ほんとによかった。どこも怪我なんかもしてない?」

「ええ、大丈夫です。そんなことより……なんか俺、ルカと間違えられたみたいで……」

 それを聞いてロニーは目を瞠った。

「ルカと? ……え、どういうこと?」

「捕まったときに、云われたんです。あれをどこへやった、とか、あの女から預かったのはわかってるとか……ルカがなにかを持ってると思ってるんですよ。楽屋や事務所を荒らしたのは、やっぱりなにかを捜すためだったんだ」

「え、でも、どうしてあなたをルカだと――」

「歌ってたからだろう」

 いつの間にか、タンクトップ姿になったイヴァンがすぐ傍に立っていた。「襲った奴はジー・デヴィールなんて小洒落たロックバンドのことなんか知らなかったのさ。ヴォーカルが目当てのものを持ってる奴だっていう指示だけ受けたんだろう。災難だったな……いや、ルカがいなくて不幸中の幸いとも云えるが」

 そう云ったイヴァンに、ロニーは訝しげな表情で尋ねた。

「……あなた、いったい何者なの。フォトグラファーなんて嘘よね。それに、なにが起こってるのかも知ってるのね?」

 遠くから救急車のサイレンが近づいてくる。どこか現実感がないなかで、ふと思いだして――忘れるようなことではないのに――倒れている警備員を見る。出血を止めようと押さえている若い警備員の手は真っ赤に染まっていた。このステージを取り囲んでいるシートと同じ色だ。

 やや間があって、イヴァンはロニーを見つめ、困ったように苦笑を浮かべた。

「……そうだ。俺は、フリーランスフォトグラファーなんかじゃない。けど、信じてくれ。俺はあんたたちの味方だ、敵じゃない。……今はまだこれだけしか云えない。俺があんたたちの近くにいると知られるのは危険なんだ……俺じゃなく、ルカや周りのみんなにとって」

 現れるたびへらへらと調子の好い笑みを浮かべていたパパラッチとはまったく違う、その真摯な表情をロニーはじっと見つめた。

「……なんなの。いったい、なにが起こってるの? ルカは誰に、なんのために狙われてるの? 教えて」

「……ごめん、ロニー。片が付いたらなにもかも説明するよ。約束する」

 そのとき、通路のほうからざわざわと人の気配が近づいてきた。振り返ると、ユーリとテディ、そしてルカたち皆が脇へと避けていて、ストレッチャーを押す救急隊がステージへと向かってくるのが見えた。

「やっときたか。じゃ……俺は行くけど、どこか近くに必ずいるから。くれぐれも気をつけて、油断するなよ」

「え……待って! イヴァン――」

 しかしイヴァンは身軽にステージを降り、あっという間に姿を消してしまった。

「もう……なんなのよ。そこまで云ったら教えなさいよ……」

 ロニーはなんだか泣きそうな気分でイヴァンの消えたほうをずっと見ていたが――ルカたちが近づいてきたことに気づき、しっかりしなきゃと一度大きく深呼吸した。

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