# 4. Champagne and Reefer

 ふと目が醒め、テディは怠い躰を起こして部屋を見まわした。

 広いワンベッドルームの部屋は、ソファの横に置かれたフロアランプが控えめに灯っているのみで薄暗かった。テディはベッドから出ようと脚を下ろし、床の上にあるはずの服を探した。

 とりあえず下着とジーンズだけ身につけ、サイドテーブルの上で緑色に光っているデジタルクロックの数字を見る。もう夜中のような気がしたが、時刻はまだ十一時を過ぎたところだった。

 ユーリに追いついて一緒にこの部屋に戻り、半ば肚立ち紛れにふたりしてベッドに潜りこんだのは確か七時前だった。そして一頻りをして気分を発散させ――眠ってしまったのは、たぶんそれから一時間ほど経ったくらいだろう、とテディは思った。

 なんだか中途半端な時間に寝てしまったなと頭を掻きながら、ソファにゆったりと躰を沈めているそのシルエットに近づく。ユーリはテーブルにずらりとスタロプラメンの空き瓶を並べ、ガラスのボングを抱えていた。


 ボングとは、水パイプとも呼ばれる喫煙具の一種である。

 プラハには水煙草を楽しむことができるシーシャバーやカフェ、水煙管フーカーの専門店などもあるが、ユーリが手にしているのはフラスコに試験管を挿したような形をした、大麻を吸うためによく使用されるタイプのものだった。

 ここチェコでは二〇一〇年から大麻の所持、使用、栽培が条件付きで違法ではないとされている。厳密には公共の場以外での使用、ジョイントの所持は二十本まで、栽培は五株までなら犯罪行為とは見做さないということになっている。民事上、罰金が課せられる場合もあるが駐車違反程度のもので、警察が個人の使用や所持にわざわざ動くことはまずない。

 そんなふうに事実上の合法となってから、観光客が多くやってくるプラハでは街の至る処に大麻カナビスショップができた。大麻入りのクッキーやチョコレート、アイスクリームなどは国外からの観光客には話の種として人気があるようで、名物のようになっている。


「最近、うちじゃずっとこれだね」

 ガラスの中に満たされた煙を吸いこんでいたユーリが、テディに気づいて顔を上げた。吐きだした白い煙が、ランプの仄かな光に照らされて幻想的に揺らめく。

「効き目はこっちのほうが強いし、巻くより楽だからな」

 答えながらユーリはボウルに緩く丸めた大麻を詰め、ダウンステムにセットした。準備の整ったボングの前に腰を下ろし、テディは差しだされたジッポーをユーリから受けとった。

 ボングを片手でしっかりと支え、ガラスの筒を塞ぐように口をつける。そうしてセットした大麻にジッポーで火をつけると、水がぼこぼことあぶくをたて始めた。チャンバーの中が、みるみる白い煙で満たされていく。それを見下ろしながら、テディはかちんとジッポーを閉じた。そして頃合いを見てボウルも取り外し、深く吸いこむ。

 ほぅ……とゆっくり煙を吐き、テディはゆったりとソファに凭れた。

「腹が減った」

「そういや晩メシ食ってねえな」

 そう云うと、ユーリは空き瓶の手前にあったスマートフォンを手にとった。眩しい光がユーリの顔を照らしだす。

「まだこんな時間か。食いに出るか?」

「もうどこも閉まってるだろ。ありものでなにかできない?」

「料理するって気分じゃねえな。マラー・ストラナに旨いポークリブを食わせるジャズクラブがあったろ。あそこならラストオーダーに間に合う」

 そう云いながら、ユーリはスマートフォンを操作していた手を止めた。

「……ロニーからメッセージが来てる。『明日はあえてオフにするからしっかり頭を冷やして、明後日はいつものとおりにでてくること!』だそうだ」

「だそうだ、って、ユーリにだろ? 解散宣言までしちゃってさ。本気じゃないだろうけど」

「いや、本気だ。もう気持ち的には解散した。どうやら明後日には再結成しなきゃならんらしいが」

 それを聞いてまったくもう、とテディが溢す。と、ユーリは「俺とドリューはまあ、適当に収めるさ。問題はおまえとルカのほうじゃないのか」と云ってきた。

「俺は……ルカが戻ってくれば別に、大丈夫だよ」

「結婚は? プロポーズを撤回なんて、初めて聞いたぞ。あんまりじゃねえか」

「うーん、俺も正直、ルカのあの反応にはちょっと納得いかない部分もあるんだけど……」

「当たり前だ」

「でもさ、俺、プロポーズしてもらえたことは嬉しかったんだけど、結婚したいのかどうかは自分でもよくわかんないんだよね……。うち、おふくろも結婚はしてなかったし、俺はちゃんとした家庭ってものを知らずに育ってるわけだし。それに、子供もできるわけじゃないのに、俺たちにとって結婚ってなんの意味があるのかなあって……」

 今までこんなことを考えたことがあったのかどうか――ゆっくりと言葉にしながら、テディはあらためて自分はルカと結婚したいのか、自分にとって結婚とはなんなのか自問していた。が。

「まず、その子供ってところはまったく関係ないと云ってやる。イギリス国籍を利用して同性婚するなら養子をとれるし、そもそも子供を持つかどうかなんて結婚の条件に入ってない。ちゃんとした家庭を知らないなら、理想を自分で叶えていけばいい。おまえは要らんことをごちゃごちゃ考えすぎだ」

 そんなことを云われ、テディは拗ねたように口先を尖らせた。ユーリがふっと笑い、上半身裸のままのテディの肩に手を置き、抱き寄せる。

「……ねえユーリ」

「ん?」

「ユーリは……俺とルカが結婚したら、どうするの」

「おまえとか? そうだな……ファックバディが愛人に格上げされて、不倫っていうおいしいシチュエーションになるわけか。ま、そう変わらんだろうってことだ。ルカとじゃツーリングにも行けないし、こうしてウィードも愉しめないし、SMっぽいハードプレイもできないだろ」

 テディはユーリの腕に頭を凭せかけ、天井を仰いで笑った。

「ますます結婚の意味がわからない!」

「まあ、ルカがもう俺とって云うかもしれんが……決めるのはおまえだ」

 それを聞き、ぴたりと笑うのを止めて真顔になる。

「……その前に、もう結婚はしないかもしれないし」

「どうだか。またいつもみたいにけろっと仲直りして、べたべたじゃれ合うんじゃねえのか」

 さて、もう出なきゃラストオーダーに間に合わんぞとユーリが動いた。

 ふたりして順にバスルームで顔を洗って髪を梳かし、ベッドの傍の床に脱ぎ散らかした服やソックスを探す。テディが裏返しになっていたロングスリーブのTシャツを着るのに手間取っていると、「そういえば」とシャツのボタンを留めながらユーリが振り向いた。

「誰が云ったんだったか、なにかで読んだことがあるが、バンドってのは結婚してるようなもんだとさ」

 テディも頷いた。

「ああ、誰だっけそれ……。でも、簡単に離れられないとか我慢とか、あんまりいい意味じゃないんじゃないの?」

 だったかな、とユーリはめずらしく言葉を濁し、肩を竦めた。





 ――翌々日。

 ロニーの召集に従い、テディとユーリは遅めの朝食を摂ったあと、揃って事務所に顔をだした。既にジェシがソファに坐っていて、ミルクティーを飲みながらクッキーなど摘んで寛いでいる。デスクで電話中だったロニーはちらりとこちらを見て、挨拶代わりに頷いた。エリーや他のスタッフたちも、通常どおりに仕事をしているようだ。

「よう」

「おはよ、ジェシ」

「おはようございます」

「ドリューはまだみたいだね」

「くそ、まだ早すぎたか」

 そう云ってどかっとソファに坐るユーリに苦笑しながら、テディは「コーヒー飲む?」と尋ねた。ユーリはそれには答えず、電話を切ったロニーに向くと「このあいだのクリュグはどうした?」と尋ねた。

「もうないわよ! 飲めるだけ飲んで、残りは保存用のキャップがないから棄てちゃったもの。朝から飲もうとしないでコーヒーにしときなさい」

「ちっ、もったいないことしちまったな」

 その会話に聞き耳をたてながら、テディは奥のキチネットでコーヒーを淹れた。

 スティックタイプの砂糖を四本も入れた激甘なカフェオレのマグは手に持ったまま、ブラックのマグをユーリの前に置く。そしてソファに腰掛け、テディは云った。

「保存用のキャップがないっていうのが、なんともロニーらしいよね」

 ジェシがぷっと吹きだす。ユーリはまったくだ、とロニーを見た。

「うちにすらあるのにな」

「あなたのうちは偶にテディがいるだけで、飲むのはほとんどあなただけでしょユーリ。ここで飲むときはたいてい大勢で空けちゃうんだから、なくても当たり前じゃない」

 酒豪と定評のあるロニーがそう反論すると、ユーリはなるほど、と頷いたが。

「じゃ、家にはあるんだな? 独り暮らしのミス・マルティーニMartini

「……ないわよ!」

 ユーリとテディ、ジェシの三人が声を揃えて笑う。そして、駄目押しのようにジェシが云った。

「そういえば、ロニーのラストネームって『マティーニMartini』なんですね」

 腹を抱え、テディとユーリがさらにげらげらと笑い転げる。ロニーがむっとした表情で立ちあがり、両手を腰に当てた。

「うるさいわね! イタリアじゃありふれた姓よ、私はクロアチア育ちだけど、うちはイタリア系なの!」

「はいはい」

 そんなふうに賑やかに騒いでいるところへ、かちゃりとドアが開いた。

「おはよう、ドリュー」

「おはようございます」

「……おはよう」

 顔だけをドリューに向け黙ったままのユーリと、朝の挨拶を返してもらうのを待つようにその場に突っ立ったままのドリューを交互に見、ロニーがエリーに目配せする。すると。

「あ……僕、自分のおかわりと一緒にコーヒー淹れてきますよ。ドリュー、お砂糖抜きでミルクだけでしたね」

 そう云ってジェシが立った。ジェシはちょうどユーリの対面の位置、ドア側の端に坐っていたので、席を譲るためにいったん退いたのだろうとテディは察した。

「あ、じゃあ俺も」

 そう云って自分のマグを持ち、テディもジェシについて再度キチネットへ向かった。まだマグには半分ほどカフェオレが残っていたが、一息に飲み干してさっと濯ぐ。

 マシンからコーヒーが抽出されるのを待つあいだ、テディはジェシとふたりして壁際に身を寄せ、そっと様子を窺った。まだドリューもユーリも言葉は交わしていないが、先日ほど剣呑な雰囲気ではないようだ。

 そのまま息を潜めていると、ようやくユーリが口を開いた。

「――先に手をだしたことは謝ってもいい」

?」

 ドリューが鸚鵡返ししてじろりとユーリの顔を見る。一瞬ひやりとしてテディは思わずジェシと顔を見合わせたが――ユーリは気まずそうに口許を歪め、云い直した。

「手をだしたことは謝る。……あと、おまえの好みについて云ったことも悪かった」

 席を外してやって正解だったか、とほっとして再びジェシと視線を交わす。程無くドリューもいつもの落ち着いた口調で、謝罪の言葉を口にした。

「……俺も、蹴ったのはすまなかった。俺も云わんでいいことを云ったしな。しかしユーリ、おまえはちょっと短気すぎだぞ」

「ま、どれもこれも全部ルカが悪い。あいつの所為だ」

 ミルクティーを淹れているジェシを残し、テディは湯気のたったマグを手に先に戻ろうとした。すると、やれやれと息をつきながら、ロニーが話しかけてきた。

「テディ、ルカとなにか話した?」

「いや、連絡はとってないよ。俺、電話とかかけてないし、向こうからもない」

「ええ、そうなの? 私、何度も電話かけてるしメッセージも入れたけど、ちっとも連絡がつかなくて。昨日は朝から家まで行ってみたのよ? でも家政婦さんしかいなくて、帰宅した様子がなくてすることがないから帰るんだって……もう、いったい何処に行ったのかしら」

「車はあった?」

「あったわ。でも、だからかえって遠くに行ったのかもって思って、心配で」

 テディは肩を竦め、カフェオレを一口飲んだ。

あちっ。まあ、そうだとしても……放っておけばそのうち帰ってくるんじゃない?」

 ロニーが呆れたように天井を仰ぐ。

「なんでそんな暢気でいられるのよ……。プロポーズ撤回してそれっきりなんでしょう? ユーリとドリューはなんとか収まったみたいだけど、まだあなたたちの仲を心配しなきゃいけないの?」

 ロニーの困った顔を見て、テディは苦笑した。

「うーん……ユーリとも話してたんだけど、俺、プロポーズされたことは嬉しかったけど、いざ結婚について考えるとよくわかんなくてさ。だから別に――」

「みつけた」

 突然聞こえてきたその声に、テディは言葉を切った。

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