「ちょっと麻友子。それじゃ皮が厚すぎ。剥き残してるところもあるし。もっと薄く、丁寧に!」

「うえーん、難しいよー。わたしってこんなに不器用だったっけ?」

 放課後。

 私と麻友子はスーパーで林檎を大量に買い込んで、晴哉の家に行った。

 料理の腕について麻友子本人に聞いてみたところ、包丁の扱い方さえままならないというので、今日はまず刃物に慣れるところから始める。

 なぜ晴哉の家に来ているのかというと、晴哉の家の台所がとても広いからだ。

 晴哉の家はもともと中華料理屋さんを営んでいた。だけど調理場を担当していた晴哉のお父さんが大きなホテルのシェフを務めることになり、お店の方は畳むことになった。

 閉店してからも調理場は壊さずに残し、今は専ら家庭用として使われている。

 もともと飲食店のものだけあって、大きさはピカイチ。何人かで料理をするなら、ここがもってこいだ。

 実は、以前にも何度かこの調理場を使わせてもらったことがある。友達同士でバレンタインチョコを作ったり、誰かの誕生日ケーキをみんなで焼いたりした。

 幼馴染のよしみで、晴哉と晴哉の家族はいつも快くここを使わせてくれる。今日は私と麻友子の貸し切りだ。

 晴哉は大量の林檎を調理場に運び込む手伝いをしてくれた。それが済んだ今は、自分の部屋に引っ込んでいる。

 二人ぼっちの料理教室は、こうしてスタートした。

 買い込んだ林檎は今日の練習台だ。刃物に慣れるには、林檎の皮剥きで鍛えるのが一番手っ取り早い。まず私が手本を見せてから、あとはひたすら、麻友子に手を動かしてもらう。

 本人の宣言通り、麻友子は本当に――まるで駄目だった。

 とりあえず包丁を持たせてみたら逆手に握りしめていて、まるでこれから人を殺しに行くみたい。

 あまりの惨状に、私は思わず頭を抱えてしまったほどだ。

「ほら、また剥き残しがあるよ。慌てすぎ。下手なのはしょうがないから、ゆっくり刃を動かして」

「えぇー、理瀬のスパルタぁ~」

 私は麻友子の後ろで、見守りながら声をかけ続ける。

 麻友子の手つきは危なっかしくて、林檎の皮はプツプツ途中で切れてしまっていた。

 それでも、最初の段階に比べてずいぶん進歩した。泣き言を言いながらも、麻友子は決して放り出そうとしない。

 麻友子が篠倉先輩のことを好きだと私に打ち明けたのは、高二になってから。風薫る五月のころだから、もう四か月ほど前になる。

 白い頬を真っ赤にしながら「先輩のことが好きなの」と言った麻友子を見て、私は胸がズキリと痛んだ。

 応援してくれるよね、と聞かれて、さらに苦しくなった。――私も、好きだから。

「できた!」

 手にしていた林檎を剥き終えて、麻友子はパッと顔を輝かせた。……しかし、あちこち皮が残った無残な林檎を見て、すぐに表情を曇らせる。

 同じように散々な林檎が、いくつもお皿の上に鎮座していた。

「……上手くできないよ。どうしよう」

 落ち込んでいる麻友子は弱々しくて儚い。思わず手を伸ばして、ぎゅっと抱きしめたくなってくる。

 だけど寸前で手を引っ込めて、私は言った。

「麻友子。篠倉先輩に美味しいお弁当を作ってあげたいんでしょ。林檎を剥く時も、先輩に食べてもらうものだと思って手を動かしてみたらどう? 先輩のことを考えるの」

「……先輩のことを、考える?」

「そう。料理って、食べてもらう人のことを考えると、美味しくなるんだよ」

「何それ。理瀬の持論?」

「まあ、そんなとこ」

「先輩のことを考えながら、手を動かすってことかぁ」

 麻友子の顔がぐっと引き締まった。一つ深呼吸をして、再び包丁を動かし始める。

 その手つきはさっきよりも格段にしなやかだった。真っ赤な林檎の皮が、丁寧に慎重に剥かれていく。

 一心に手元を見つめながらも、麻友子は柔らかく微笑んでいた。その表情は、篠倉先輩を見つめている時と全く同じだ。

 好きな人のことを考えただけで、女の子の仕草はこうも変わる。

 その事実を目の当たりにして驚きながらも、ああ分かる、と私は心の中で頷いていた。好きな人を想う気持ちなら同じだから。私も。

 ずっと前から好きだった。だけどこの想いは誰にも伝えてない。先輩を想う麻友子の顔を見ていたら、とても言い出せなかった。

 だから今、好きな人がほかの人とくっつくかもしれないのを、私は黙って応援している。

 ――しゅるしゅる。

 私の想いをよそに、麻友子は黙って手を動かし続けた。

 やがてお皿の上に置かれた林檎は、つるんと見事に剥けていた。本日一番の仕上がりだ。

「うわー、麻友子、綺麗にできたね!」

「理瀬のアドバイスのおかげだよ。先輩のことを想って手を動かしたら、できたの……」

 先輩のことを想って……。その言葉が胸の内側から重くのしかかってくる。

 だけど落ち込むより先に、麻友子が大きな声を出した。

「あーっ、ヤバイ! わたし今日、塾があったんだ。もう帰らなきゃ」

 麻友子につられて私も壁に掛かった時計を見ると、時刻は夜の七時に迫っている。

「分かった。後片付けしとくから、行きなよ」

 そう促すと、麻友子は心底申し訳なさそうに私の手を取った。

「ごめん、先に帰るね。……今日はだいぶ自信が付いた。ありがと。明日もまた、料理教室よろしくね」

「……うん」

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